メキシコ便り(13)

金野広美

音楽で満たされ、楽しかったなかにも苦難のアルゼンチンの歴史を思い起こさずにはいられなかったサルタからいったんブエノスアイレスに戻り、チリのサンチャゴに行きました。サンチャゴまでは飛行機で2時間足らず、夕方には着きました。飛行機から降りると、雪をいただいたアンデスの山々が美しくそびえていました。それにしても寒い。まるで冷蔵庫の中にいるようで、急いでホテルに向かいました。

サンチャゴの街は旧市街と新市街に分かれ、名所旧跡は旧市街に多いのですが、街の中心は新市街に移り、旧市街のほうは夜10時を過ぎるとひっそりしてしまいます。その日はたいした観光もできず、眠ってしまいました。次の日、キラパジュンの歌で知ったイキーケに行きました。イキーケはサンチャゴから飛行機で3時間足らず、バスだと24時間かかる、チリ北部の街です。19世紀に内陸部から産出する硝酸塩の積み出し港として繁栄した港町で、今では漁業が主要産業となっています。

空港に着いた時は、サンチャゴとのあまりの違いにちょっとびっくりしました。というのはここの空港の周りは一面砂漠で何もありません。でも乗り合いタクシーで30分も走ると美しい海岸線の続く街が見えてきました。街の中心はメルカード(市場)で郊外へのバスが頻繁に出ていきます。

その日は到着が遅かったので次の日、イキーケから45キロ東にあるハンバーストーンとサンタ・ラウラに行きました。ここは硝酸塩の産出が盛んだった頃に300あまりあった硝石工場で、今ではゴーストタウンになり、世界遺産に指定されている所です。ハンバーストーンには3700人、サンタ・ラウラには870人の住民がいたそうです。広い範囲に工場や学校、劇場の跡が残り、当時の繁栄がしのばれました。しかし砂漠の中に残る赤さびた廃墟は、やはりうらさびしいもので、色とりどりの民芸品を並べたみやげ物屋だけが妙に突出していました。

次の日はバスで3時間のマミーニャというところに評判の温泉があるというので行ってみました。メキシコではお風呂といっても風呂桶がなく、シャワーだけの生活が何ヶ月も続いていたので、温泉ときくと気持がグラリと動いてしまうのです。ここは真っ黒の泥を体中にぬり、太陽にさらしながら歩き回り、最後に温泉で流すというものなのですが、周りからまる見えで、試してみる勇気がわきませんでした。仕方がないので湯だけの風呂に行きましたが、何と日本の温泉とは似ても似つかないものでした。小さな個室にお湯の入っている穴と堅い木のベッドがあるだけ。これで1時間300円。うーん、安いのか高いのかわからないまま、湯につかりました。しかし中は湯かげんも丁度でとても心地よく、すっかりリラックスしてしまいました。

次の日の朝、ホテルの近くの港に行ってみました。たくさんの露天が出て、とれたての魚をさばきながら売っていました。ティブロンという白身魚の全長2メートルはあるものは1キロ400円、コングリオというのはアナゴなのですが、身が厚く白身魚のようなもので、1匹100円、アルバコーラという白身魚も束にして売っています。この他にもたくさんの貝類など、実に種類が豊富で、近所の人たちが買いにくるのか、よく売れていました。港の中にあるレストランでアルバコーラが食べられるというので、注文したところ巨大な唐揚げが出てきました。朝からこれはちょっと食べられないと思い、店の人には悪いのですが、衣を全部はがして食べました。柔らかい白い身がホクホクしてとてもおいしかったです。

このようにイキーケの街をいろいろ楽しんだのですが、最後にキラパジュンが歌っていた事件のあった場所に行ってみたいとガイドのエステバンに聞くと、多くの人が殺されたサンタ=マリア小学校は、メルカードの前にあったそうです。今では別の建物が建ってしました。メルカードは朝8時前から夜12時すぎまでひらいていて、とてもにぎやかに人が行き来し、昔の悲惨なできごとを思い起こさせるものは何も残っていませんでした。次の日、暖かいイキーケから再び寒いサンチャゴに戻りました。

サンチャゴは東西約40キロ、南北約50キロにわたって市街地がひろがり、歴史が集約された旧市街には、1973年ピノチェットによる軍事クーデターでアジェンデ大統領が死んだモネダ宮殿をはじめとして、チリの歴史を知るうえで欠かせない博物館などが集中しています。モネダ宮殿は、ちょうど何か政府の催しがあるとかで見学できませんでしたが、国立歴史博物館をはじめ、プレコロンビア芸術博物館、サンチャゴ博物館、国立美術館と4か所回りました。私にとっては国立歴史博物館で見たイキーケのデモの様子を写した一連の写真と、軍事クーデターの勃発を伝える当時の新聞の生々しさが、強く心に残りました。

また一方、今回サンチャゴに来たらどうしても見ておきたい場所がありました。それはビクトル・ハラが殺されたスタジアムでした。地下鉄のエスタシオン・セントラルから歩いて5分のところにそのスタジアムは「エスタディオ・ビクトル・ハラ」と名前をかえて建っていました。そしてここの館長のルイス・カルデナス・キンターナさんに中を案内してもらいました。椅子席が4000という広さのこのスタジアムに、クーデター当時5000人が拘束されたそうです。柔和なお顔できれいなスペイン語を話されるルイスさんは52歳、彼も当時ここにビクトル・ハラとともに押し込められたひとりだそうで、ビクトル・ハラが坐っていた椅子、暴行を受けた場所、息をひきとったところなどを指し示しながら、ハラが9月11日に閉じ込められてから虐殺される16日までの6日間の様子を詳しく話してくださいました。ここでは800人から1000人が殺されたそうで、ハラの最期についても今までいろいろな本を読んではいましたが、実際にその現場を前にして、あまりにも悲惨すぎる生々しい映像が頭の中をめぐり、思わず顔をおおってしまいました。

そのあともルイスさんとチリの新しい歌の運動のことなどをいろいろ話しながら、私がハラの代表曲「耕す者への祈り」が大好きで、日本語で歌っていたというと、ぜひ聞かせてほしいといわれ、事務所のみんなの前で歌いました。ルイスさんは「日本語はわからないが、とても美しい言葉だと思う。あなたの歌もすばらしい」とほめてくださいました。そして「もう一度サンチャゴに来て、今度はスペイン語でも聞かせてください」といわれ、帰ったばかりにもかかわらず、また行きたくなり、次は南の方も回ってみようかな、などと考えている私です。