まぶた裏読み

管啓次郎

文字なき午後だった
電車に乗ってついウトウトしていた
閑散とした車内だ
みんな外出しなくなったので
ガラガラなのも当然
空いた席にはピンク色の恐竜や
黒装束の死神が二、三人
ゆったりすわっているばかり
昔とは違う時代になったけれど
昔もよい時代ではなかったので別に
気にもならない
明治のある時期なら
電車はなくて軌道上を馬が曳いていた
路上には馬糞がふくよかに匂い
人々に安心を与えていた
ブエノスアイレスの地下鉄なら
木製の製造後七十年は経過した車両が
電線の継ぎ目ごとに暗闇を吹きかけてきた
それはそれで情緒があるもの
記憶のフェティッシュだ
いま線路は空中を走り
完璧な水平をもって水もこぼさない
そんな車両に存在も時間もゆだねながら
いつものことでぼくは
内にこもっている
公共交通機関であればあるほど
交感を拒否している
ただ目をつぶって
周囲の乗客にも
窓の外の景色にも
気がつかないふりをしている
きみはよく「世界」というが
世界を見たことがあったら教えてください
よく見るためには目を閉じて
周囲を流れる音をよく聞き取るべきだ
鉄道や自動車の機械音も
風が木の葉を楽器として使って立てる自然音も
動物たちのやかましいほどの発声も
ごまかしようのない世界の断面
目をつぶる
耳をひらく
何かをつぶやく
何かが帰ってくる
ひとりでそんな遊びをしているうちに
車窓がどんどん暗くなって
昼下がりの街がまるで
無人のリスボンのように思えてくる
外壕線から甲武線へ
気がつくと街のどこにも文字がない
さっと血の気が引く
乗客はすべて消え
水の中のような光があたりをみたしている
いったいどういうことかと思ってまた目を閉じると
とたんに閃光のように文字が走った
「新しいギターが」
目を開けると目の前の座席にギターがある
その青いギターを鳴らしてみようか
また目を閉じるとまた文字が走った
「夕方のサロマ湖には」
目を開けると窓の外は灰色のみずうみだ
あの水に足を濡らしたい
また目を閉じるとまた文字が走った
「時事はただ天のみぞ知る」
目を開けると何かの通信がラジオのように
車内放送を通じて流れてくる
また目を閉じるとまた文字が走った
「インド亜大陸のベンヤミン」
カルカッタの場末のレストランで
白いゆったりとした服を着たヴァルターが
おいしそうにミールズを食べている
あいつにもあんな一面があったのか
「オルガン演奏とタイプ打ち」
一九五〇年代のようなアメリカ人タイピストが
ハンナ・アレントのように煙草を吸いながら
炸裂するマシンガンの速さでキーを叩きつづけると
それはそのままシンセサイザー音楽となって
空から降ってくるようだ
「一生分の唐辛子を背負って」
アンデスの民族衣装を着た小柄な中年女性が
大きな籠の荷物を背負って電車に乗ってきた
どうやらぼくが目を閉じるたび
まぶたの裏側に文字が浮かんで
目を開けるたびその文字が記すことが
目の前で実体化している
どんなメカニズムでこれが可能になるのだろう
電車はいつしか路面電車
軌道と店先と民家と歩道の区別なく
街が実現されてゆく
人のかたちをした実体のわからないモノたちが
踊るように歩いている
犬のかたちをした実体のわからないモノたちが
ふざけるように遊びまわっている
そうしているあいだも目を閉じるたび
文字が走り
目を開くたび
文字がしめしたことが現実し
あたりはどんどんにぎやかになる
電車を降りるときがきたようだ
だんだん目を閉じるのも開くのも
怖くなってきた
いや恐怖ではなく
億劫になってきた
世界がどんどん充満する
「めざまし時計のぜんまいが壊れた」
「不信感が悪霊のように漂って」
「夫はアルコール依存症」
「宝石くらいいやらしいものはない」
「原子ができたことで光が直進する」
「サウナにはロシア式とフィンランド式がある」
「ほら、ロシアの山が大好物」
「現金取引なんてやめてよ」
「見られたことのない蝶が見つかって」
「いま休憩中です」
それからぼくは意識を集中して
あの文字をなんとか呼び出そうとした
するとまぶたの裏側に現れたのは
もっとも必要としていた文字
天佑のように
「たそがれ」
「黄昏」
「誰そ彼」
歩くぼくの視界が仄暗くなり
足元も覚束ないが不安はない
歩いてゆくだけだ
かつて太陽がなく
夜と昼の区別がなかったころ
蛍たちが小さな太陽であり
光の存在証明だった
しずかな時空に蛍たちが散らばり
われわれの世界に明るみをしめしていた
人称なく所有なく
時間なく好悪のない世界で
われわれは我なく汝なく
薄明の意識としてさまようばかりだった
こんなときのためにぼくはいつも
音叉をひとつ携帯している
A=440 のこの音叉を叩き
耳に当てながら歩いてゆけばいい
音にみちびかれ
音にあざむかれ
音にさまよい
道にさまよう
恐ることなく
迷うことなく
こうして生きることの実験に
初めてたどりついたのだ
文字なき読みの世界へ