犬の詩9篇(大館のために)

管啓次郎

1 ついてくる
犬がついてくる
どこまでもついてくる
きみが行くところならどこだって
山も川も越えて
森を抜け町をさまよって
よろこんでついてくる
何も求めず
文句もいわず
ついてくるのがうれしくて
きみと歩くのが楽しくて
立ち止まって匂いをかぐ
耳をすます
また歩き出してどんどん進む
行き先にこだわらない
困難にひるまない
あらゆる瞬間が発見
すべての道が冒険
犬がついてくる
いつまでもついてくる
この地上での
きみの旅を
見届けるために


2 持来
帰ったらランドセルを投げ出すぞ
ピートと野原に行くんだ
古いテニスボールをひとつもって
草が枯れきった秋にむかって
遠近法が壊れた
一面の灰色世界に入ってゆく
それからまず大きな声で「持来!」と叫ぶ
ピートはあふれるほどうれしくて
ちぎれそうなくらい尻尾を振っている
それからボールを投げる
光を飛ばす
ピートも稲妻のようにかけだす
何も恐れることなく一瞬先の
未来へと飛びこむように
汚れた緑色のボールを捕まえたよ
ピートは自慢げに見える顔をして
ぼくのところに帰ってくる
「持来」とはもってこいという命令の言葉
でもそれは命令というより合言葉
ピートが待ち望んでいる合言葉
ピートは百回でもボールを拾いたい
ぼくはピートのための
専用の投球マシーン
けっして文句をいわない
永久の投球マシーンだ


3 Fetch!
河原は広く砂が溜まっていて
住民たちはそこをビーチと呼んでいた
海も湖も遠いけれど
たしかに砂浜というのがいちばん近いかも
走れば足をとられそうになる
くるぶしまで埋まって
足はどんどん重くなる
ぼくとぺぺは毎日砂浜にゆく
古い野球の硬球をひとつもって
夏の紫色の夕方
こうもりの群れがそろそろ飛び始める時間だ
ぺぺはそわそわしながら待ちかまえている
ぼくがその言葉をいうのを待っているんだ
午後の熱がこもった砂は
まだほてるように温かいが
ぺぺは気にしない
ぼくは空にむかって宣言する
「宣誓。ぼくとぺぺは正々堂々
地球の重力に対して戦うことを誓います」
それから長く引きずるような声でいう
F-E-T-C-H!
ボールは高く飛んでまっすぐ夕焼け空にむかう
ボールにむかって飛び出すぺぺの動きが
まるで誇張されたスローモーションのように
はっきりと見える
それはぺぺとぼくとの合言葉
一日を楽しく終えるための秘密の儀式


4 ブーメラン
ドッグランでしか遊べないのは
都会で暮らす犬のさびしさ
サッカーコートの半分しかない広場だけど
ここでは好きなだけ駆け回っていい
いろんな犬種が集まってきたね
オールドイングリッシュシープドッグから
ジャックラッセルテリアまで
ローデシアンリッジバックから
ビションフリゼまで
みんなそれぞれ独特な姿をして
それぞれ比べようのない魅力がある
ぼくの犬は中型日本犬の雑種です
名前は「さいとうくん」です
ドッグランに来てもさいとうくんは
他の犬とはあまり遊ばない
ただ
ぼくがその言葉をいうのを待ちかまえている
それがぼくにはわかるのだ
ぼくはさいとうくんにむかって
「ブーメラン!」と声をかける
さいとうくんが突然駆け出した
25メートル先のフェンスまでゆくと
180度、方向転換して急いで帰ってくる
戻るとハーハーいいながらこっちを見て
また待っている
ぼくはまた声をかけるだろう
ブーメラン!
さいとうくんが走り出し
こんどは他の犬たちもついてゆく
むこうのフェンスまで行き
あの、犬独特の不格好な方向転換をして
一斉に戻ってくるのだ
二頭、三頭、四頭の他の犬たちが
次々にそれに加わる
ブーメラン!
ぼくの声を合図にして
犬の群れがみんなで駆け出す
メキシカンヘアレスドッグから
カレリアンベアドッグまで
ニューファウンドランドから
フレンチブルドッグまで
先頭を切って走るのは
中型日本犬の雑種のさいとうくん
嬉々として
はれやかに
元気よく
まっすぐに
仲間たちに遊びのルールを教えるようにして
おなじ掛け声を何度も何度も待ちかまえている
さいとうくんとぼくがいつのまにか一緒に考え出した遊びだ
犬のブーメラン


5 春の庭
四月のうららかな日曜日に
庭が沈んでゆく
お誕生日を祝う少女たちのグループの
笑い声が二階から聞こえてくる
倒れたシェパードの目は
もう何も見ようとしない
さわやかな風が吹いている
やわらかい日の光が降り注いでいる
空にひとすじの飛行機雲が引かれて
天国が近くなる
ロック、ロック
舌を出して力なく呼吸するロックが
尻尾をもういちどだけ振ろうとする
気がつくと
近所の二匹の猫が
塀の上にすわってこちらを見ているのだ
猫と猫とぼくが
空間に作る三角形が
倒れたシェパードのための
目に見えない小舟になる


6 空の犬
空にも犬が住んでいる
にぎりめしを作って空に投げてやれ
風のように犬が降りてきて
ぱくりと捉えるだろう
風の犬は敏捷だ
木立を抜け
屋根をかすめ
草原を吹きわたり
波を立てて
なんでも食べられるものを探す
元気にかけまわる空の犬のために
デュエイン・オールマンの霊がスライドギターを鳴らす
うねるような上下動でしょう
ゆったりとした、あるいは機敏な、旋回でしょう
荒々しく、でもやさしい旋律でしょう
まるで雷神の口笛のように
Skydogが音をあやつる
にぎりめしと鶏の頭を
空に投げてやれ
天の狗が笑うような
大音響で答えるだろう


7 耳をすまして
物置で30年間ねむっていた
レコードプレーヤーを出してきた
おなじく30年間ねむっていた
LPレコードも何枚か
まず聴くのはラヴィンスプーンフルとか
ジュディ・コリンズの『鯨とナイチンゲール』なんかだね
するとすぐ犬がやってくる
白い体に黒い耳をした
His Master’s Voiceの有名なNipperがやってきて
グラモフォンのらっぱにむかって
首をかしげている
5センチほどの小さな体で
ぼくのテーブルの上にちょこんとすわっている
「ほら、聞かせてよ、あの昔の歌を」と
ニッパーが言葉を使わずに伝えてくるのだ
レコードを取り替えて聴かせてやると
ニッパーは満足して舌舐めずりをする
犬は餌のみにて生くるものにあらず
犬にも音楽が必要だ
というわけで5センチほどの小さな犬たちが
何十匹もやってくる
やってきてぼくのテーブルをみたし
みんなで首をかしげている
今夜のぼくはかれらのために
LPレコードをかけつづけるので精一杯だ


8 氷河にむかって
地平線があるから
そのむこうに行こうと思ったんだろう
生き延びるための土地を求めて
遠くまで行こうと思ったんだろう
アリューシャン列島からベーリンジア、つまり
氷河期で陸地になったベーリング海峡を超えて
どこまでもどこまでも人間たちが歩いてゆく
それでね、特に頼まれたわけじゃないが
おれたちも一緒に歩くことにしたのさ
だいたい人間の行くところには
ついてゆくことにしてたんだ
やつら火を使うから
寒い時期には便利だよ
餌も気まぐれにくれるので
何かと助かるんだよ
人間というのはレストラン+焚き火つきのキャンプかも
おれたちにとってはね
叩かれたり蹴られたり
ときには食われることもあるけれど
全体として見ると都合がいいと思うよ
だからまた、これから
1万年の冒険だ
それでまた、これから
1万年の共生だ
人間たちをなつかせて


9 旅した子犬
このごろトラのことをときどき考える
六十年以上前の子犬時代
大館から鉄道に乗せられ
たぶん二昼夜をかけて
大分県南部の佐伯まで旅をした
黒味の強い虎毛の秋田いぬ
幼児のぼくにとっては
虎のように巨大な体だった
やさしい獣
縁側から足をさしだすと
やってきておとなしくぺろぺろと舐める
祖父の自慢の犬だった
そのころの祖父の年齢に
自分がいつのまにか近づいてしまった
夕方の散歩にはぼくもついてゆく
日豊本線の蒸気機関車が
延岡のほうへと力強く走ってゆく
老人と幼児と秋田犬が並んで
夕焼けを全身で浴びている
トラの吠え声は一度も聞いたことがない
祖父が語った言葉もほとんど忘れてしまった
それなのにあの夕方を
なんのためにぼくは覚えているのだろう