足をとめる

若松恵子

伊勢真一監督の『いのちのかたち』を下高井戸シネマで見た。絵本作家いせひでこを描いた、2016年のドキュメンタリー映画だ。

宮城県亘理町の吉田浜。いせひでこは、津波で倒れた1本のクロマツに出会う。東日本大震災で被災した友人を伊勢監督が訪ねた私的ロードムービー『傍(かたわら)』の撮影に同行していた彼女は「そこにいなかったこと」の意味の大きさ、深さを感じてスケッチ帳は持っていたけれど、歩く以外何もできなかったという。そんな時、無人の荒野に倒れて横たわる1本のクロマツに呼び止められる。「描きなさい、わたしを」というクロマツのピアニッシモの声を受けとめて、「えんぴつでそのいのちの姿を記憶すること」に取り組む。横たわるクロマツに雪が降り積もる映像と、いせひでこが想像の中で描いた雪のなかのクロマツの絵が同じ存在感を持って登場する。クロマツとの出会いから4年にわたる画家の旅を描いた映画は、絵本のような余韻を残した。

多くの人が通り過ぎ、見過ごしてしまうものたちに、静かなまなざしが向けられる。いせひでこが足をとめて見つめるものを伊勢監督もまた傍らで見つめている。倒れて横たわるクロマツは、いせにとっては「いのちのかたち」そのものに見えてくる。そのかたちをスケッチすることで、クロマツを自分のなかに刻み込む、記憶しようとする。記憶するという事は、そのものの存在を大切にするということ、愛するという事だからだ。

銘木でも何でもない、倒れてしまった木に足をとめる。通り過ぎることができないという思いを抱く、その姿に心を打たれた。そんな感想を持ったのは、『永山則夫―封印された鑑定記録』(堀川恵子 2013年岩波書店)を読んだばかりだったせいかもしれない。

堀川恵子もまた、忘れ去られようとする永山則夫に足をとめた人だった。この本は、永山則夫の遺品の日記を丁寧に読むなかから、精神鑑定に際して録音されたテープの存在に気づき、278日間にわたる対話を聞くことで、その封印された鑑定記録に光をあてた作品だ。カウンセリングの手法により永山に寄り添い、彼といっしょに幼い日々に戻り、事件に至るつらい日々をたどることで、連続射殺事件に至る真の理由をみつめようとした石川医師もまた、永山の声なき声(ピアニッシモの声)に足をとめた人であった。

石川医師に対して永山が語ったことは犯行直後の供述と矛盾し、石川鑑定自体の信憑性が疑問視される。そして裁判で取り上げられず、封印された鑑定記録となったのだった。しかし、子どもの虐待や貧困が問題となっている今、石川医師と永山則夫の対話から考えさせられることはとても多い。

映画の中で、いせひでこが語っていたことが印象に残った。「根っこもいいけど、津波で倒れた木の根っこがガラスを突き破って入ってきてたくさんのものを流していったんだよ」と言われたことがあって、その時に、彼女は、被災した人たちがどういう思いで自分の絵を見ていたんだろうと考える。でも「言葉もなく、絵もなく記憶もなく、見もせず、通り過ぎて、通り過ぎた事さえ自分が気づかず・・・ていうくり返しだったら、一人の人にも伝えることはできないってことなんですよね」「だから、そんな何百人、何千人に伝えようなんては思ってない。一人でも・・って思ったら、やっぱりどこかで足を止めるんだなって、それをやってきたんだな、とは思ってますけど」(『いのちのかたち』パンフレット映画採録より)絵の傍らで彼女はこう語るのだ。

いせひでこのこの言葉には、堀川恵子の仕事、石川義博の仕事にも共通するものを感じた。足を止める人が居ること。そのかけがえのなさを想う。たとえそれぞれは、ひそやかな行為であったとしても。