言葉の花束を……。

若松恵子

『いまだから読みたい本―3.11後の日本』(坂本龍一+編纂チーム選/小学館)という新刊を本屋でみかけた。ふと横を見ると『ろうそくの炎がささやく言葉』(管啓次郎・野崎歓編/勁草書房)という新刊も並んでいて、本屋が並べたわけだけれど、震災後の同じような時期に出版された2冊のアンソロジーに興味を覚え、両方とも買って帰ることにした。ついでに最近書評で知った『通勤電車でよむ詩集』(小池昌代[編著]/NHK出版)も棚からみつけ出し、3冊のアンソロジーを手に入れたのだった。

『いまだから読みたい本―』の前書きのなかで、坂本龍一は、「3・11以降だからこそ胸にひびいてきた言葉」があると書いている。インターネット上に誰かがポストした言葉や文章に刺激されて、自分でもいろいろな本を再読するなかで、こうした非常時だからこそ思い出した、あるいは胸にひびいてきた本がたくさんあったというのだ。「友人たちとFaceBook上でたくさんの文章や本を挙げていくなかで、それを本にしようという話が起こり、であるならば、ただ個人の関心を追及するばかりではなく、もっと多くの人に共感してもらえるような読書案内にしよう」、「こういうときだからこそ、心にひびくたくさんの言葉を集めて、少しでもだれかの役に立てばと願って」編んだのが、この本であるという事だった。

『ろうそくの炎がささやく言葉』のあとがきで編者は、「人間のひとりひとりはあまりにも弱いので、私たちは感情をも言葉にして分かち合い、そこから力を汲み上げる工夫をしなくてはなりません。その作業に直接役に立つ本を作ろう。たとえば、しずかな夜にろうそくの炎を囲んで、肉声で読まれる言葉をみんなで体験するための本を。それがこの企画の出発点でした。」と述べている。「言葉だけでは復興は不可能だとしても、復興は言葉の広がりの中で勢いを得るはず。」「復活を希求する言葉の広がりに、新たな響きを少しでもくわえられたらと願って」「ただ言葉の花束を編もうと決め」つくったのがこの本だという。

坂本氏も管氏も、3・11の震災以降、言葉を失って呆然とする体験をし、災害を報道するマスメディアの言葉にむなしさを感じ、しかし、一方で言葉によって再生をしたと語っている。

アンソロジーとは何か。まず、心に響き、忘れないようにと書きとめた言葉があり、やがて、それを誰かに贈りたいと思う。あの人なら受け取ってくれるはずたという期待、この言葉を受け取ってくれる人を広い世の中から探したいという思い。受け手にとっては、その言葉を選んだ人を通して、新たな言葉と出会うというおもしろさ。

『いまだから読みたい本―』の冒頭には茨木のり子の「大男のための子守唄」が掲げられている。この詩に触発されて、『茨木のり子集 言の葉2』を読み返す。金子光晴について語ったエッセイは、「無造作に投げ出されている金子光晴の言葉は、出土品の玉のように美しい。手作りで、磨き抜かれていて、とろっとしている。時の風化に耐えてきた、これからも耐え抜くであろう底光りがある。私はこれらを見つけるたび、ほくほくしながら、だいぶひろってきたのだった。」という魅力的な文章からはじまる。そして、ひろってきた玉の、水晶だけ拾って貫けば「抒情詩人」、トルコ石だけ連ねれば「水の詩人」と、金子光晴の多様な魅力について、鮮やかなイメージで描き出している。

ほくほくしながらひろってきて、自分だけの首飾りをつくる。このイメージはアンソロジーを編むこととそのまま重なる。選ばれた言葉が唯一無二なら、それを見つけ出した人も唯一無二という感じだ。見たてと配列の妙によって、作品の魅力もさらにひきたつというものだ。

そして管氏は、アンソロジーを、肉声によって届けたいと言っている。しかも、電燈ではなく、ろうそくの灯りのもとで。直接声が届く距離で伝える大切さ。肉声で読まれる言葉をみんなで体験する大切さ。朗読には時に手拍子や、共感の合いの手(イエーィなんての)が入るかもしれない。言葉の合間に、楽器が鳴らされれば、もうそれは音楽だ。

そういえば、夏フェスで、リスペクトに満ちたカバーを聴いて感動したのも、このアンソロジーとおなじようなことだったのだと気づく。