絵コンテとシナリオ

三橋圭介

アントニオーニのスクリプト(台本)やシナリオについて前に書いた。それは設計図のようなものであり、映画が完成された後、映された意図通りに説明を加えてシナリオとして完成を迎える。もうひとつこれとは別に絵コンテという方法もある。これも映画の完成にむけたより具体的な設計図である。というのも何をどのように撮影するかかが詳細に書かれている。当然、カメラアングルも分かるし、カットのコマ割りも分かる。黒澤明の絵コンテは展覧会もするくらいなので非常に有名だが、今回2つの絵コンテを手に入れた。ひとつは宮崎駿のアニメ映画「風の谷のナウシカ」(スタジオジブリ絵コンテ全集1:徳間書店 2021)、もうひとつはポン・ジュノの「パラサイト」(A Graphic Novel in Storyboards PARASAITE : Grand Central Pub 2019)である。

「ナウシカ」はほぼ映画を見ているようにカメラアングル、コマ割りが正確だが、シナリオはなく、核となるセリフのほんの一部がだけがある。できあがった物語の内容に沿ってコマ割りを描き、核となるセリフだけ入れて時間を作りだしていく。何度も見ている人はこの絵コンテだけで物語の世界に入ることもできる。一方、実写の「パラサイト」は絵コンテにシナリオとカメラの動きなどが付属し、本のタイトルにあるようにグラフィック・ノベルとして読むことができる。構成は一場面(たとえば冒頭の半地下の家族の様子など)をひとまとまりとし、それを積み重ねていく方法を取っている。そのため部分間の繋ぎでシナリオの言葉が多少変わっている。また削除部分はたとえば、第2部分のピザの社長とのありとりの後、きょうだいがスーパーで泥棒をするシーン(第3部分)が絵コンテには描かれている。おそらく、社長をやりこめ、お金をもらったこともあり、続けての泥棒シーンは効果がないと判断したのかもしれない。

絵コンテとは何か?  ホン・ジュノ自身が本の序文に書いているので、ここで全文訳してみよう。

「わたしは絵コンテなしで作られた、たくさんの素晴らしい映画があることを知っている。偉大なスティーブン・スピルバーグがしばしば絵コンテなしで映画を撮っていることもきいている。この本の目的は絵コンテがよい映画を作るための近道である、ということではない。実際、わたしは自分の苦悩を鎮めるために絵コンテを書いている。手の内に、その日撮るべき絵コンテがあることに安堵する。絵コンテなしでセットに向かうときはいつも、混雑する場所に下着姿でたたずんでいるように落ち着かない。だが、絵コンテだけが私を正気に保つというのも間違いだろう。絵コンテは細かくショットがいかに構成されるかを示すものである。それらは描かれたような正確なショットとなり、撮影クルーにとって価値ある青写真を提供する。撮影された映画は絵コンテから決してかけ離れることはなく、さらにクルーたちにその撮影プロセスに信頼を与えてくれる。過去に一緒に仕事をしたクルーのメンバーたちは、特にこのことを熟知している。朝、クルー全員はその日の絵コンテをもらうのを楽しみにしている。絵コンテによって、かれらはその日のゴールに向かって集中できるし、その日撮るショットについて話し合うこともできる。その時、絵コンテはクルーだけでなく、わたしの恐れも和らげてくれるのだ。しかしもうひとつの恐れがわたしの内部にある。カメラフレームのなかにある絵コンテのフレームが、マンネリズムに陥らないかと恐れはじめるのだ。その日のセットに漂う沸き立つ活気を取り損なうのではないかという恐怖である。こうしたすべての詳細なプロセスがこの本にある。しかし絵コンテと映画の間の小さな違い、つまり絶えず生じる絵コンテのシーンに存在する恐れとカメラフレームのなかの自発性との刺激的な瞬間があることもじゅうぶん承知しているのである。」

アントニオーニにとってスクリプトからシナリオへの変化は映画の完成と共にある。プレイボーイ誌のインタビューで「スクリプトは出発点だ。固定したものではない。私が紙に書いたものが正しいか正しくないを理解するために、カメラを通して見なければならない」と述べる。役者が目の前にいて、動き始める。それをカメラが見ている。表面的な部分、それは即興的ということもできるが、そうではなく、それ自体が映画を撮るということなのだと。スクリプトから始める映画と絵コンテから始める映画では、前者のほうが予定外のふり幅が大きいだろう。ポン・ジュノの絵コンテとカメラにまたがる「マンネリズム」への恐怖は、アントニーニには存在しない。彼の最後の映画「愛のめぐりあい」の共同監督のヴェンダースが撮影日誌で書いているが、取るはずの場所をその場で変更するのは日常茶飯事のようだ。ポン・ジュノが絵コンテで撮影クルーを安心させるのとはちがい、アントニオーニの撮影クルーは未完成のシナリオにいつも振り回されている。リアルに意味(象徴作用)を積み重ねて強度の時間を構築するポン・ジュノのリアリズム的な映画と、リアルではない表現でリアルを求めるアントニオーニの意味するものを開いていく映画、どちらも繊細な配慮の上でなされている。個人的にはアントニオーニのリアルなものへの懐疑、ゆるさを許すその用心深さが見るものをその視線の欲望へと誘い込むように思える。