オーネット・コールマン、ハーモロディックな夢(2)

三橋圭介

ジョージ・ラッセルのリディアン・クロマティック・コンセプトの考え方からすれば、コールマンはコードに対して水平的な攻撃を加え、垂直的な攻撃を加えたのがコルトレーンだ。コールマンがメロディを重視し、一方、コルトレーンは「ジャイアント・ステップス」などで細かいコード変化で音を埋め尽くすシーツ・オブ・サウンドを生み出した。そして共にフリーに向かった。しかし、コールマンの音楽が、フリー・ジャズなのかは議論の余地がある。

一般にフリー・ジャズといえば、コルトレーンの集団即興のアルバム「アセッション」(1966)がよく知られている。参加しているメンバーはモードを共有しながら(テーマは一応ある)、それぞれの自発的な声が混沌のエネルギーを生み出していく問題作だ。一方、コールマンはそれより5年前に「フリー・ジャズ」というアルバムを発表している。左右に振り分けたピアノレスのダブル・カルテットで、コールマンによると「いかなる終着点もなくはじめた」ために、瞬間的なそれぞれの対応がその音楽を決定している。その意味で各プレーヤーはフリーだったといえるが、伝統的なビート(ポリリズミックではある)に加え、テーマ・即興・テーマという従来のジャズの伝統的な型からはずれてはいない。

テーマ→即興というジャズの枠組みは、基本的にテーマのもつコード進行に準じるという暗黙の了解がある(代理コードやテンション・コードなど変更可能だが)。ベースやピアノがコード進行をキープしながら、その上でソリストが即興するという役割があるからだ。しかしコールマンの場合、テーマのコード進行は即興で使われるコード進行とは無関係に進む(アトランティック時代、コード楽器であるピアノを使わなかった)。どうやって合わせているのかというと、ベースのチャーリー・ヘイデンがコールマンの音を注意深くきいて反応するが、これはコールマンを含む他のメンバーも同じように、他人の音を注意深く聴きながら時間を重ねていくことを意味する。ヘイデンは「これまでの人生で誰かに学んだ以上に、私はオーネットと演奏しながら聴くことを学んだ。なぜならいっしょにやるには、かれが演奏するすべての音を聴かなければならないからだ」と述べている。。

一般的に人がある曲を聴くとき、最初の一音からつづくもう一つの音というように順に音を積み重ねながら知覚していく。建物なら見渡せば全体像を大まかに理解できるかもしれない。しかし音楽は時間とともにある。心理学者のエドマンド・ガーニーは、曲の理解は形式の分析ではなく、瞬時に生起する音(フレーズからフレーズへの局所的な動き、パラグラフなど)を最初から最後まで関連させながら把握することにあると主張した。さらに説得力とはその音の断片や移り変わりで提示される連続性に関する満足度に関わっているともいう(cogency of sequence)。美学者のジェラルド・レヴィンソンは、このガーニーの説を「連鎖主義concatenationism」という言葉を使って再評価しているが、構成的な全体の把握は知的産物であり、聴くことの快感は瞬間の連続のなかにあると述べている。コールマンのフリー・ジャズはこの「連鎖主義」を連想させる。というのも一般的なジャズの伝統のなかで、かれのジャズは、先のヘイデンのことばのように「聴くこと」が「弾くこと」にダイレクトに繋がって音楽の形式を決定しているからだ。

1962年、ガンサー・シュラーはソニー・ロリンズの「スリー・セヴン」(アルバム「サクソフォン・コロッサス」)を「テーマに基づく即興」と分析した(1950年代後半の演奏に顕著であり、おそらく、スティーブ・レイシーがロリンズを評価したのもこの時期の即興だろう)。テーマから動機的な素材を引き出しながら即興に応用するもので、「テーマに基づく即興」ということばは、クラシックの分析ではたびたび目にするが、ジャズでは稀だ。通常、テーマのコード進行に沿いながら、即興部分ではテーマ自体から自由に離れていくが、基本にあるコード進行だけがテーマとの関連性を保証しているともいえる。そしてテーマの再現で曲の終わりを感じる。

テーマ・即興・テーマという形は同じだが、コールマンはロリンズとは違い、テーマのコードとは無関係にテーマの形を模倣、変形させながら、さらに新しい動機も生み出して発展していく。「Free Jazz」(1974)の著者Ekkehard Jostは、コールマンの即興をテーマとの関連から分析し、ことばの連想ゲームにひっかけて「連想のネットワーク(Chain of Assosiation)」と説明した。「連鎖主義」と近い考え方だが、そこではフレーズの形態的な類似性を拾い上げ、いかにコールマンの即興が、テーマの各フレーズや動機と結びついているかを具体的に述べているが、このことはいいかえるなら、コールマンが何を拠りどころに即興に向かっているかを示している。つまり、テーマに付随するコードによる即興ではなく、テーマを多様な素材として、その音程・リズムを音の身振りとして発展させていく独自の方法である。

Jostの分析はクラシックの作曲家でやるような作品の統合性や形式論を誘発するが、対象となる音楽は書かれたものではなく、即興演奏である。クラシックの世界でも、かつて作曲家=演奏家の伝統のなかで即興演奏が行われていたが、ジャズの世界ではおそらくコールマンがはじめてだろう。そこでは互いに聴き合いながら、動機的な関係を連鎖的に共有することで、それぞれが独立しながら説得力(cogency of sequence)ある時間を創りだしていく。この点で、コールマンのバンドが生み出す音楽は、クラシカルな音楽をきいているような錯覚を与える(「アセッション」は、メンバーが動機的、リズム的な関連性をもたないために、それぞれがばらばらに共存しているようにきこえる)。いうまでもなく、あらかじめ素材を吟味した見せかけの即興ではなく、聴くということと弾くということが分かちがたく結び着いた瞬間的な時間の積み重ねの結実である。

コールマンは代表作のオーケストラのための組曲「アメリカの空」をはじめ、初期の頃から室内楽やオーケストラへの関心があった。かれの耳で捉え、素早く有機的に構成していく能力は、仲間のジャズ・マンに「あらゆる音を聴く」ことを学ぶよう強いた。コールマンのフリー・ジャズは、妥協なしに誰とでも共演できるわけではなく、実際にはこれまで数例を除いて仲間としか演奏していない。かれは一緒に演奏するミュージシャンを選別し、そして教育する。自由を得るためにはおおきな努力が必要だった。それゆえ、自己の能力を即興しないクラシカルな室内楽やオーケストラに向けたのも当然のことだったのかもしれない。ただ、それはもはやフリー・ジャズとは呼べない。(つづく)