シンジャールを忘れない

さとうまき

1月13日、ナブラスの家族を訪ねた。ちょっと寄り道をしていて、ナブラスの家についたときは、日が暮れていた。
「昨年、同じ日にナブラスは亡くなったんですよ」母親が出迎えてくれた。
一年前、父親が電話をくれたのを覚えている。なくなる数日前に訪れたナブルスは、薄暗いコンクリートブロックを積んだ建てかけの家で、痛みに悶えていた。

シンジャールの村を追われたのは2014年の8月3日だ。突然、治安を担当していたペシュメルガといわれるクルド政府軍が撤退してしまった。ナブラスの家族たちはドホークにのがれ、建設途中の建物にとりあえず落ち着いたが、キャンプもまだなく、逃げてきた人たちは、ドホーク市内の学校や、同じように建てかけのビルなど、住めそうなところに寝泊まりしていた。逃げ遅れた人たちは連れ去られ、殺され、レイプされたという。

亡くなる前、ナブラスは、「シンジャールにもどって学校に行きたい」といっていたのを思い出す。
「ナブラスは、その日、割と調子よさそうでしたが、急に容態が悪化しました。とても冷静で、モニターを見ながら、『私は死んでいくのね』といっていました。」

お母さんは、ナブラスが元気だったころの写真をたくさん見せてくれた。ほとんどの写真は、逃げてきてから写したものだ。ともかく、逃げることを考えていたから、写真などもほとんど持ち出せなかったのだろう。

モスル解放作戦が進み、「イスラム国」の支配地域は、狭まっている。
「シンジャールにそろそろ戻るつもりなのですか」と聞くと、「シンジャールに戻る気はありません。私たちはここで暮らしていきます」という。

翌朝、クルド政府の職員らとシンジャールに行くことになった。夜明け前にホテルで待ち合わせる。検問所からは、ペシュメルガの兵士がエスコートしてくれるという。なんと兵士は2人とも女性であった。

まず、最初に我々が向かったのは、シャファディーンというシンジャール山のふもとの村だった。カースミシャーシというヤジディ教徒のリーダーに挨拶しに行くという。「イスラム国」が襲ってきた時、彼の部隊は、ひるむことなく、村を守った。ヤジディ教徒の中では伝説ヒーローである。

いかにも、親分といういでたちで、兵士たちは、敵が攻めて来たらいつでも応戦できる体制で配備されていた。検問で働くイラク警察官が3人ほど呼ばれ、何か口論していた。カースミシャーシの部隊は、ペシュメルガに参加している。クルドとアラブで内戦が始めってもおかしくないような緊張した雰囲気だった。なんでも、イラク警察に失礼な態度があったとのことで、叱られていたそうだ。今、シンジャールは、「イスラム国」はいなくなったものの、クルドのKDP、PUK、シリア系のYPG、トルコからPKKなどが入り、勢力争いの渦中にある。イラク中央政府は今一つプレゼンスを示せていないようだ。

その日は、カースミ・シャーシュの息のかかった地域を案内してもらうことになった。
検問を超えてシンジャールに入る。村の入り口のあたりには、人が戻り始めている。サッカー場もあり、そこは激しく壊されていた。町中の治安部隊本部の周辺にはちょっとした雑貨屋さんが開いていたが、町中を回ると、激しく破壊され、がれきだらけだった。シンジャールは、モスルやファルージャと違う。もっと小さな町。歴史の名から完全に忘れ去られるのだろうか。と思わせるくらいの破壊のされかたである。

2014年8月から、シンジャールから避難してきたヤジッド教徒の人たちと出会い、時にはレイプされた女の人の話を聞いた。時には、ナブラスのようにがんの子どもたちに寄り添った。シンジャールが忘れ去られないように、子ども達が描いてくれた絵を展示する。

2月10日―15日 ギャラリー日比谷にて 「イラク、シリアの子ども達へ、バレンタイン展」を開催します。
詳しくはhttp://jim-net.org/blog/event/2017/01/210215.php