丑年がはじまった

さとうまき

年末に、年賀状を発売してみたら、これが意外と売れた。インターネット時代に年賀状など書かない人も多い。500枚くらい売って、わずか数百ドルでも収益をシリアの青年の治療費にあてようと思った。新聞が取り上げてくれるとインターネットなど使わないというお年寄りが電話をしてきてくれ、気が付くと18000枚が売れたことになり、てんてこ舞いの配送作業。気が付くと年が明けてしまい、水牛の原稿も描けなかったという有様だった。

さて、シリアの内戦が始まって間もなく10年がたつが、戦争の傷跡はいまだにくっきりと残っているのだ。

2011年3月。シリアの革命はダラアという町から始まった。10代前半の子どもたちが学校の壁にふざけて落書きをした。「ドクター、今度はあなたの番だ」
確かに、壁に落書きをするとはとんでもないガキどもだ。そこで、シリアの治安警察(秘密警察)は子どもたちを取り調べのために連行したという。たかが落書きだけで?

このドクターとはバッシャール大統領のことを指しており、チェニジアやエジプトのように革命が起きて転覆するぞ!という意味らしい。

子どもたちが帰ってこないことを心配した親たちが抗議すると、当局側は「あんな子どものことは忘れろ。子どもがほしければ新たに作れ。子作りのやり方を知らないなら、おれたちが教えてやる」といわれたという話は繰り返し引用されて報道されているが、元情報があいまいになっている。

3月18日、ダラアで住民を巻き込んで大規模なデモがおきた。子どもたちは、その後解放されたが、天井からつるされ拷問を受けて傷だらけで戻ってきたという。もう、ダラアの市民たちの怒りは収まらず、ついに武装蜂起が起きて自由シリア軍が結成され、政府軍との内戦へと突入してしまった。

2013年から14年ごろは、ひどい戦争だった。兵士と民間人の区別があいまいだったので、子どもたちも戦争に巻き込まれ、手足をもぎ取られて、国境を越えてヨルダンに治療に来るシリア人が絶えなかったのだ。子どもたちは自分が怪我した時の映像を持っていて、誇らしげに見せてくれる。「革命のために僕も犠牲になったんだ」と言いたげだった。

ダラアは、長く反体制派の拠点となっていたが、2018年に政府が奪還した。そのころには、「革命」に希望を見出す人たちはほとんどいなくなり、憎しみだけを抱えて、再びシリア政府の支配へと甘んじていった。

昨年「僕のこと、覚えている?」というメッセージが届いた。青年は20歳になっていたが、13歳の時に迫撃砲を受けて左腕を失い、内臓も破裂してしまった。気丈なお母さんがヨルダンまで青年を連れてきた。いろいろ面倒見てやった子供の一人である。ダラアに戻ったとは聞いていた。

「体が痛むんだ。ヨーロッパで手術を受けに行きたいだ。戦いが続いて安心して暮らせないシリアにはいたくない。お金が欲しい」という。
「申し訳ないけど、僕はもう仕事辞めてしまったので支援はできないよ。そもそもコロナで海外に行くのはあきらめた方がいいよ」といわざるを得なかった。
「この前、病院に行ったら、張り紙が貼って会って腎臓を買ってくれるっていうんだよ! いい話だと思わないかい?」という。
「いくらで買ってくれるんだ?」
「3500ドルから4000ドルだって。治療費はこの範囲内で収まると思うんだ」
「君の体は、爆撃で内臓かなりやられているけど、大丈夫なのかい? そもそも、腎臓を買うっていうやつは信頼できるのか?」
「ほかに手はないよ。(ジャーナリストの)兄さんは殺されてしまったし、父さんは高齢で働けやしない。ぼくは片腕がないから力仕事もできないし。今のシリアじゃ、仕事はないし、物価は上がってきて大変なんだ!」

アメリカやヨーロッパは、アサド大統領の退陣なくして復興支援はあり得ないとし、経済制裁を課している。ガソリンや、灯油が高騰しており、停電もたびたび起こるようで彼らの暮らしは日増しに苦しくなってきていた。
「わかった、絵を描いて送ってくれ。それを使って何か作って売ってみる。猫とか鳥とか、ダラアにいる動物がいいかな」

数日後彼が書いてきたのは、ディズニーに出てくるネコのコピーだった。
「コピーはダメだ。ダラアに牛はいるのかい?」
「ああ、いるよ。じゃあ、牛がオリーブ加えているなんて言うのはどうだい?」
といって僕は見本にこんな風に描いたらいいというスケッチを送ったのだ。すると青年は、
「これは、君が書いたの? 僕はもっとうまく書けるよ」といって、やっぱりかわいくない牛の絵を送ってきた。
「いやーこういうのではなくて、もう少し、こんな感じかなあ」と添削して返す。そんなやりくりをしてできた牛で年賀状をつくったのだ。

最近連絡が途絶えていると思ったら、16歳の弟が警察に捕まったという。
「検問で、秘密警察に連れていかれたんだ!」
「拷問されているのか?」
「ああ、殴られているらしい」それでも以前とは異なり面会には行けるそうで、お母さんが頻繁に会いに行っているらしい。

結局70日間尋問されて無事に釈放されたらしいが、タバコの火を押し付けられたり電気ショックを加えられたりしたという。20キロ痩せて、ストレスで皮膚が炎症しているという。急に涙が出てきたりするらしい。政治的な事件ではなく、怨恨関係がこじれたのか隣人が何者かに殺されたらしく、殺人の容疑がかけられたとのことだった。

「10年経つけど、夢とか希望はあるの?」
「ヨーロッパに行ってテレコミュニケーションの勉強をして、会社を立ち上げる。それでシリアに戻ってきて多くの若者を雇用するんだ! シリアのために。それが僕の夢なんだ。ヨルダンにいたときにスエーデンのNGOが、ソフトウェアの学習コースを作ってくれて、そこを僕は終了したんだ」
「今10年前に戻ったとしたら、君は、デモに行って世の中を変えようとするだろうか?」
「いや、戦争が起こる前は幸せだったと思う。そのまま健康で、腕を失うこともなかった。お兄さんも殺されなかったし、幸せな家族でいられたんだ。」
「つまり、デモにはいかないと?」
「僕は(革命を)共有しようとはしない。ただ家族とだけ共有すればいいと思っている」
「憎んでいる?」
「兄を殺した奴と僕の腕をもぎ取ったやつ、友人を殺した連中。そして、少年時代を奪ったやつを許せない」
「それはアサド?」
「アサドは、自分で武器を運んで、ロケットを発射で出できないでしょう。悪いやつは実際に引き金を引いたやつなんだ。そいつらを許せない」

青年は、年賀状の収益で治療を続けている。同じ時期にヨルダンで治療を受けていた別の青年はカナダに移住。毎月1000ドルほどの治療費は、カナダ政府が全額を負担しているという。