帰ってきた安田純平

さとうまき

安田純平が帰ってきた。

彼とは、信濃毎日新聞に勤務していた2002年に知り合った。イラク戦争が始まろうとしていた時。その後、「会社からイラク行きの許可が下りない。フリーランスでイラクに行きます」と連絡をもらった。イラク戦争がはじまったとき、ヨルダン国境からなかなかイラクに入国できなくて苦労している姿を見かけた。大手メディアは、イラクのビザを取っていたが、会社が危険だからといって許可をださない。

現場の記者はイライラしていた。大手メディアは、フリーランスと契約して前線からの記事を出そうとしていた。しかし、フリーランスだとイラク大使館がなかなかビザを出さなかった。僕はといえば、人道支援ということでビザを出してもらったが、やっぱり戦争がはじまると、なんでも自分でやらなきゃいけない。寝袋とか、発電機とか使ったこともないし、そういうサバイバル系は苦手だったので躊躇していたけど、大手メディアが声をかけてきた。「ビザ持ってますよね?(イラク)いかれたら一分●●円で衛星電話でレポートしてください」とか言ってくる。

結局安田さんたちは、サダム政権が、もう崩壊しちゃうと判断したイラク大使館が、お金を出せば、ビザを出すとバーゲンセールしてしまったために、無事にビザをゲットしてイラクへ入っていった。

大手メディアは、そのころまだもたもたしていて、僕らと一緒にご飯食べて酒を飲んでいた。「日本のNGOがイラクに入れば、(それを取材するといえば)さすがに本社の方から許可がでるので、行かれるときはぜひ、ご一緒させてください」という。しかし、数日後にはサダム政権が崩壊し、各社とも、一斉にバグダッドを目指して僕は置いてけぼりを食ってしまった。まあ、そういう風にメディアは苦労して、ホットな情報を伝えてきた。

2012年7月、僕はダマスカスにいて、彼はアレッポにいた。同じ国なのに見ているものは全く違った。シリアにどう向き合えばいいのか。アサド政権に惨殺される子どもたちを目の当たりにした彼。でも、アサドを倒したところで、平和が来るとは思えなかった。ダマスカスはアサド政権のおかげで治安が保たれていた。「ダマスカスは、予想に反して普通に人々が暮らしている」というのを、電話で話したのを思い出した。

2015年、シリアの取材がだめなら、イラクに来たいというので、アルビル事務所の地下室を自由に使っていいよっていったら、「ありがたい」という返事が来た。アルビル事務所の地下室といえば、泣く子も黙る地下室として、仲間内では有名である。

夏は50℃近くまで気温が上がるが、地下に降りるとひんやりしている。しかし、みんな近寄りたがらない理由はたまにゴキブリがでるからだ。僕は、それでもくそ暑い日は地下室で仕事をする。自分の部屋にしてもよかったが、ゴキブリ男みたいに言われるのは少し抵抗があった(大体日本人はゴキブリに騒ぎすぎる)。そしてその後連絡がなくどうしているのかなと連絡を取ろうと思ったら、菅官房長官が、安田さんがシリアで拘束されたと発表したのだった。あれから3年以上がたち、安田さんのために開けておいた地下室はゴキブリの巣窟になった。

前々から不思議なことにゴキブリが地化室で死んでいく。餌もないのに台所ではなく地下室で死んでいく。気温も快適なのになぜ死んでいくんだ?最初は一匹死んだだけでも、大騒ぎして処理していたが、次第に放置しておくようになり、気がつくと50匹くらいのゴキブリがカサカサにないって死んでいた。その家も結局10月頭に引き払った。

そして帰国すると、いきなり、新聞社が、安田さんが解放されたことに関するコメントを求めてきた。「よかった! うれしい!」それしか思い当たらない。しかし、案の定、「退避勧告を無視して危険なところに行くなんていかがなものか」という話をメディアが真剣に議論している。いやー、それを言うなら、ジャーナリズムはいらないっていう話をジャーナリストたちがしているわけで、危機的なものを感じてしまった。

今から14年前の自己責任論は、自衛隊の撤退を武装勢力が人質解放の条件にしたから日本政府も必死になって、自己責任論を流布した。しかし今回は違う。政府も、助かってよかったと。問題は、意地悪な市民だ。ありもしないことまでネットで拡散して楽しんでいる。そして、メディアも視聴率が上がるからそういうネタを報道している。新聞も最近はインターネットで読めるようになり、各記事のアクセス数が簡単に出るから、やっぱりそういうありもしないようなゴシップを平気で垂れ流す。

有名なジャーナリストがかつて言った。
「戦争の最大の犠牲者は「真実」である。」
真実なんてどっちでもいい。アクセス数がすべてだ。これがネット社会の恐ろしさだ。