追い出されてシリアにたどり着く

さとうまき

自分でも訳が分からないままことは進んでいく。15年以上イラクにかかわってきたが、終わりは突然やってきた。「潔くやめてほしい」と言われれば、はいそうですかという以外の選択肢はないのがサラリーマンの世界だ。それで25年ぶりにシリアに戻ることにした。それで当時のことを思い出してみたのだ。

私が働いていたのは工業省の工業試験研究所というところだ。車はダマスカス市内を通りすぎて石灰質の荒れた土地へ入る。右へ曲がればベイルートへ通じている。私たちの車は左へ曲がる。その道はベイルート街道とは裏腹でセンターラインも引かれておらず、車の運転には全く秩序がなかった。乱暴な運転手は対向車を見つけると、クラクションをならして車をよけていく。右手には軍の飛行場が広がっており、入り口では、だらしのない私服を着た兵隊が警備に当たっていた。

向かい側には兵隊の家族らが住む公営住宅があった。そしてどこからか流れ込んできた避難民らしき人達が住宅の切れ目のところに粗末な家を建てて暮らしていたのでちょっとした町ができつつあった。街道沿いにはほったて小屋がならび、ちょっとしたものが売られている。外国製のたばこ、酒類などだ。原子力研究所があって、その隣が工業試験所である。シリアは核兵器を保有していると言う噂が聞こえたりすることもある。この建物でウランの濃縮の研究をしているのかもしれないが、そういうことに関心を持つとひどい目に合うらしい。ただの工業試験所とは言え実に危険な場所に設立したものである。イスラエルの攻撃対象なっていることは間違いないだろう。

所長に挨拶をする。ナビル・アウンと言ってラタキアの出身者だった。なんでも大統領と同じアラウィ派らしく、バース党内では相当の権力者だと聞く。政治的な活動が忙しく殆ど顔を見せることはない。従って事務的な連絡やミーティングは副所長のマンドーヘ氏が代行していた。 

私が配属されたのは、特定工業試験課と言うセクションだった。工業製品の物理検査をやっている。灌漑用のビニルシートの引っ張り強度試験とか、灌漑用パイプの強度を計るのが彼らの日課になっている。ともかく私の印象は、やる気のない人たちの集まりだった。

このセンターの連中と来たら仕事をやめることばかり考えていた。理由は簡単だ。給料が安い。これも湾岸戦争の影響(シリアはアメリカ主導の多国籍軍に参加)なのだろうが、最近市場が解放されて、民間の割の良い仕事が入ってくるようになった。人々はそちらのほうに目が向いていた。つまり、彼らは政治的なことに関心はなく、玉ねぎやトマトをいかに安く買えるかを毎日考えていたのだった。そんな彼らが革命を唱えるなんてなかなか信じがたかった。

最近21歳のシリア人の女性と話す機会があった。内戦が始まったころは13歳だ。当時の少し上の若者たちが命を懸けて戦った革命の意味が分からないという。戦火の中でただ安全を求め、普通に勉強したいというのが彼女たちの願いだった。友人たちは、普通に勉強し、普通に青春を謳歌したくて国を脱出していった。

政権に異を唱え、革命に燃えた少し上の先輩たちは青春時代を普通に過ごし勉強して成長した。ある意味もっと自由があり、さらに自由を唱えた。21歳の女の子は、不自由な青春を送らなければならなかった。英文科に通う彼女はさらに英語の言語学を学ぶべく修士課程に進学するという。

一方で、難民となった同じ世代の若者たちは、避難先でNGOや人道支援団体にやとわれ、英語を覚えて高級とりになっていたのだ。そういう世代が戻ってきてともに新しいシリアを作っていくことに期待したい。