イラクの匂い

さとうまき

夜明け前、ダマスカスのホテルを出発、するはずであったが、頼んでおいた運転手が寝坊してきたので、日が昇ってしまった。それでも、運転手は、遅れた分を取り返そうと猛スピードで砂漠をつっぱしっていく。なんと3時間で、国境に到着した。国境のゲートをくぐり、パスポートをチェックしてもらう。シリアの国境警察は、イラク警察に電話をして護衛をよんでくれるという。

まもなくして、イラク警察の乗ったトラックがやってきた。彼らは、シリア側の最後の検問で、預けておいた銃を受け取り武装する。運転手は、ハンドルの横にカラシュニコフ銃をたてかけた。助手席にも銃を構えた警官が1人。一番若いのが、荷台にのって銃を構えている。これがイラクのパトカーである。タンクローリーなどで渋滞する緩衝地帯をけたたましくサイレンを鳴らしてパトカーは、一気に駆け抜けた。荷台に乗った警官は振り落とされないようにと銃を構えながらも必死に窓枠にしがみついている。

あっという間に、イラクに着いた。この国境は、ちょうど5年前にくぐったことがある。今では、ぼろぼろになってしまって、土嚢がつまれ、有刺鉄線が巻きつけてある。まるで、基地のなかに入るようだ。それでも、ここはイラクだ。イラクの匂いがするのだ。

警官は、早くビザを出せと、パスポートコントロールの役人に命令した。しかし、役人たちは、そんなの聞いてないという。前回も、内務省の許可を取っていたのだが、現場にファクスが来ていないというのでずいぶんと待たされた。そのたびにシステムが変わるのか、門前払いにあったこともある。国境とはこんなものだ。
「ファクスの調子がわるいのではないでしょうか?」
「そんなことはない。ファクスは日本製だ」と役人は横柄に開き直った。
丁度ベルがなる。
「もしもし。。。誰も出ないな」
またベルがなる
「もしもし。。。おかしいな。いたずら電話だ」
「いや、今のがファクスじゃないかと」
しかし、役人は、私の言うことを聞こうとせず、ベルが鳴るたびに受話器をとる。
「もしもし、、、また、いたずら電話かなあ。日本製だからな、故障するはずがない」
そういうと役人は席をはずしてお祈りに行ってしまった。またベルが鳴る。今度はファックスがカタカタと音を立てて動き始めた。役人は戻ってくると、
「やっぱり、日本製のファックスは調子がいいなあ。こんな辺鄙な国境までとどくんだからなあ」
と御満悦でようやく許可を出してくれた。

今回も数時間待たされるのは覚悟のうえだ。
鎌田實医師を連れていたので、みんなが寄ってきて、オレを見てくれという。
「最近、腹がでてきたのだが何とかしてくれ」
「うーん、それは太りすぎだね」
「最近、屁がでるのだけど」
「それは健康な証拠だ」
「最近いびきがうるさいんだ」
「うーん、それは困ったね」
そんな、相談ばかりだ。もちろん鎌田先生はもう少しちゃんと対応していたが、私が訳すとこうなってしまう。2時間くらい待たされてようやくビザがもらえた。

私達は再びトラックにのって、難民キャンプへむかった。イラクに入って、1〜2km行ったところに村があり、テントが並ぶ。1700人もの難民が暮らしている。キャンプは汚水の処理ができずに悪臭がただよう。水も不足がちだ。そこで暮らすのは、バグダードで迫害を受けて逃げてきたパレスチナ人だという。

彼らは、ちょうど、60年前、イスラエルの建国で祖国を追われた人たちだ。イラクで暮らしていたが、今回の戦争で、またしてもテント生活を送らなければならないはめに。彼らは、廃校となった校舎を再び学校として使っていた。先生たちは、小奇麗な格好をして子どもたちを教えていた。砂埃にまみれたテントに暮らしているとはとても思えない。子どもたちに教えること、それが彼らにとっての人間としての尊厳なのかもしれない。

キャンプでは、知り合いが、わざわざバグダッドから会いに来てくれた。5年前、10歳だった女の子の手紙を持ってきてくれたのだ。

傷ついたイラクから日本のこどもたちへ
最上の挨拶で手紙を書きます。みんなのことが恋しいし、みんなのことをもっと聞きたいです。お元気ですか?
あの楽しかった日々がまた私のところに帰ってくればと思うけど、今のイラクの現状はそれを許しません。もし私に翼があり、たくさんの国を超えて私の兄弟である日本のみんなに会えたらどんなにすばらしいでしょうか?
私の家族や友人からの思いもこめて、皆さんに平安がありますように。
残念なことに、世界中の紙を集めても私の気持ちを書ききることは出来ないでしょう。

スハード・サェッド

イラクに平和を。