君を嫌いになった理由(2)

植松眞人

 毎朝、ひょうたん坂と呼ばれていた坂を通って通学していた。その坂がなぜひょうたん坂と呼ばれていたのかは知らないし、それが正式な名前なのかどうかもしらない。その坂を見た瞬間に確かにひょうたんのようだ、と思える形だったのかどうかもまったく覚えてない。ただ、その少し急な坂道を上り、登り切る前に右手に折れると学校の正門が目に飛び込んでくると言う流れが大好きだった。

 ひょうたん坂を後にして、学校の正門をくぐろうとした時に、後ろから鈴木君の声がした。

「おはようございます」

「おはよう」

 鈴木君が少しだけ走って僕と肩を並べた。

「おはようでいいよ」

 僕が言う。

「え?」

 鈴木君が聞き返す。

「だって、同級生なんだから。おはようございますって言わなくても、おはようでいいよ」

「あ、そうやね」

 鈴木君は嬉しそうに笑った。

「仲がええな」

 そう声をかけながら自転車で通り過ぎたのは、中山だった。

 その中山の走り去る背中を鈴木君は視線で追った。

「えっと」

「中山」

「あ、中山くんか」

「覚えることないよ」

「どうして覚えなくていいの」

「ろくでもない奴だから」

「ろくでもないの」

「中村の腰巾着のように引っ付いていて、自分ではなにもできない。そのくせ、自分の立場を守るためには、平気で先生に告げ口したり、友だちのことを不良グループに言いつけたりする。あいつのおかげで苦労した奴がクラスにもたくさんいる」

「きみも?」

「僕は関係ない」

 僕は強く言って鈴木君よりも半歩前を歩いた。そのすぐ脇を中村の自転車が通り過ぎた。

「今日帰りに、うちに寄らない」

「鈴木君の家に?」

「うん。昨日、藤村くんの話をしたら、遊びに来てもらったらって母さんが」

 僕はしばらく迷っていた。友だちと外で会ったり遊んだりした流れで、友だちの家に行ったことはあるが、こんなふうに誘われたことがいままでになかったからだ。

「引っ越してきて、最初に丁寧に接してくれた友だちは大事にしないといけないからって、母さんが言うんだ」

「わかった。行くよ。学校帰りに、そのまま行けばいいんだよね」

「うん」

 僕は中学生になって初めて、友だちらしい友だちが出来そうな予感に身震いがした。

 鈴木君の家は、ひょうたん坂を学校に曲がるほうではない逆側に曲がったところを真っ直ぐに十五分ほど歩いたところにあった。

 平屋の三軒長屋の右端で、木造のとても古くて小さな家だった。表札が立派でその家には不釣り合いだった。もっと大きな家についていても不思議ではない石で出来た表札がもんも何もない引き戸の玄関の脇に付けられていた。もしかしたら、この表札のせいで家が傾くことだってあるかもしれない、と僕は本気で考えた。

 鈴木君は玄関を開ける前に大きな声で

「ただいま!」と言った。

「お帰り」

 鈴木君の家の中からお母さんらしき人の声がした。そして、すぐ後に、隣の入口の中からおじさんぽい声でも、お帰り、という声が聞こえた。

「あれは隣のおじさん」

 そう言って鈴木君は笑った。僕は笑えずに、鈴木君が勢いよく開けた家の中を立ち尽くしたまま見ていた。

「入って」

 学校での転校生らしいおどおどした様子がまったくない堂々とした鈴木君だった。鈴木君はお母さんに学生鞄を手渡した。お母さんはまるでテレビドラマに出てくる勤め帰りのお父さんの鞄を受け取るお母さんのように、鈴木君の鞄を受け取ると家の奥へと持っていた。鈴木君は帽子を脱ぎ、学生服の上着を脱いでハンガーに掛けて、部屋の隅のかけた。

「遠慮せずにあがってください」

 いつの間にか玄関に戻ってきていたお母さんに声をかけられ、僕は靴を脱いだ。

「まあ、藤村くんは大きな靴をはくのねえ」

 お母さんはとても上品に言うと、笑った。その笑い声に誘われるように奥から幼稚園くらいの女の子が、お母さんと同じように笑いながら出てきた。

「ほら、チーちゃん。見てご覧なさい。お兄ちゃんのお友だちの藤村くんのお靴よ。こんなに大きいの」

 チーちゃんと呼ばれた妹は、僕の靴を見てコロコロと笑った。

「ほら、ケーキがあるの。さあ、あがって」

 お母さんにそう言われて僕は家の中に上がり込む。鈴木君の家は入るとすぐに台所だった。そして、六畳くらいの部屋と、その奥にも同じくらいの部屋があるようだった。

 初めての部屋で、初めて会う鈴木君のお母さんと妹と一緒に囲む食卓はとても居心地が悪かった。ケーキを食べながら、鈴木君とお母さんが話をして、それを僕と妹のチーちゃんが笑うということが何度かくり返された。  何を話していたのか僕はまったく覚えていなかった。ただ、鈴木君の家は鈴木君のにおいがした。少し臭かった。トイレがくみ取り式だったせいもあるかもしれない。家の中は湿気た空気に満たされていて、かび臭さとトイレの臭さが混ざっていた。そのにおいは学校でときどき、鈴木君からしてくるにおいと同じだった。(続く)

 ひょうたん坂を後にして、学校の正門をくぐろうとした時に、後ろから鈴木君の声がした。

「おはようございます」

「おはよう」

 鈴木君が少しだけ走って僕と肩を並べた。

「おはようでいいよ」

 僕が言う。

「え?」

 鈴木君が聞き返す。

「だって、同級生なんだから。おはようございますって言わなくても、おはようでいいよ」

「あ、そうやね」

 鈴木君は嬉しそうに笑った。

「仲がええな」

 そう声をかけながら自転車で通り過ぎたのは、中山だった。

 その中山の走り去る背中を鈴木君は視線で追った。

「えっと」

「中山」

「あ、中山くんか」

「覚えることないよ」

「どうして覚えなくていいの」

「ろくでもない奴だから」

「ろくでもないの」

「中村の腰巾着のように引っ付いていて、自分ではなにもできない。そのくせ、自分の立場を守るためには、平気で先生に告げ口したり、友だちのことを不良グループに言いつけたりする。あいつのおかげで苦労した奴がクラスにもたくさんいる」

「きみも?」

「僕は関係ない」

 僕は強く言って鈴木君よりも半歩前を歩いた。そのすぐ脇を中村の自転車が通り過ぎた。

「今日帰りに、うちに寄らない」

「鈴木君の家に?」

「うん。昨日、藤村くんの話をしたら、遊びに来てもらったらって母さんが」

 僕はしばらく迷っていた。友だちと外で会ったり遊んだりした流れで、友だちの家に行ったことはあるが、こんなふうに誘われたことがいままでになかったからだ。

「引っ越してきて、最初に丁寧に接してくれた友だちは大事にしないといけないからって、母さんが言うんだ」

「わかった。行くよ。学校帰りに、そのまま行けばいいんだよね」

「うん」

 僕は中学生になって初めて、友だちらしい友だちが出来そうな予感に身震いがした。

 鈴木君の家は、ひょうたん坂を学校に曲がるほうではない逆側に曲がったところを真っ直ぐに十五分ほど歩いたところにあった。

 平屋の三軒長屋の右端で、木造のとても古くて小さな家だった。表札が立派でその家には不釣り合いだった。もっと大きな家についていても不思議ではない石で出来た表札がもんも何もない引き戸の玄関の脇に付けられていた。もしかしたら、この表札のせいで家が傾くことだってあるかもしれない、と僕は本気で考えた。

 鈴木君は玄関を開ける前に大きな声で

「ただいま!」と言った。

「お帰り」

 鈴木君の家の中からお母さんらしき人の声がした。そして、すぐ後に、隣の入口の中からおじさんぽい声でも、お帰り、という声が聞こえた。

「あれは隣のおじさん」

 そう言って鈴木君は笑った。僕は笑えずに、鈴木君が勢いよく開けた家の中を立ち尽くしたまま見ていた。

「入って」

 学校での転校生らしいおどおどした様子がまったくない堂々とした鈴木君だった。鈴木君はお母さんに学生鞄を手渡した。お母さんはまるでテレビドラマに出てくる勤め帰りのお父さんの鞄を受け取るお母さんのように、鈴木君の鞄を受け取ると家の奥へと持っていた。鈴木君は帽子を脱ぎ、学生服の上着を脱いでハンガーに掛けて、部屋の隅のかけた。

「遠慮せずにあがってください」

 いつの間にか玄関に戻ってきていたお母さんに声をかけられ、僕は靴を脱いだ。

「まあ、藤村くんは大きな靴をはくのねえ」

 お母さんはとても上品に言うと、笑った。その笑い声に誘われるように奥から幼稚園くらいの女の子が、お母さんと同じように笑いながら出てきた。

「ほら、チーちゃん。見てご覧なさい。お兄ちゃんのお友だちの藤村くんのお靴よ。こんなに大きいの」

 チーちゃんと呼ばれた妹は、僕の靴を見てコロコロと笑った。

「ほら、ケーキがあるの。さあ、あがって」

 お母さんにそう言われて僕は家の中に上がり込む。鈴木君の家は入るとすぐに台所だった。そして、六畳くらいの部屋と、その奥にも同じくらいの部屋があるようだった。

 初めての部屋で、初めて会う鈴木君のお母さんと妹と一緒に囲む食卓はとても居心地が悪かった。ケーキを食べながら、鈴木君とお母さんが話をして、それを僕と妹のチーちゃんが笑うということが何度かくり返された。

 何を話していたのか僕はまったく覚えていなかった。ただ、鈴木君の家は鈴木君のにおいがした。少し臭かった。トイレがくみ取り式だったせいもあるかもしれない。家の中は湿気た空気に満たされていて、かび臭さとトイレの臭さが混ざっていた。そのにおいは学校でときどき、鈴木君からしてくるにおいと同じだった。(続く)