手を振る陸上選手

植松眞人

 その男は見るからに陸上選手だった。昨今のアスリートのように機能性の高い身体に貼りつくようなウェアではなく、一九六〇年代のオリンピック出場選手のような木綿製の体操着姿だった。白い半袖のシャツと白い短パンはどちらもゆったりとしていて、心地よさそうだった。
 男を見てすぐに陸上選手だと思ったのは、その姿もあるが足の太ももの筋肉がとても美しかったからだ。細すぎず太すぎず、いかにも走るために付いた筋肉という感じがした。そんな美しい太ももを露わにしながら、その筋肉の持つ力の一割も使わずに男は立っていた。陸上選手には似つかわしくない朝市の真ん中に立っていた。
 この朝市は昔からの歴史ある朝市ではなく、地方都市の町おこしのために都心の代理店が企画した『朝マルシェ』と名付けられた朝市だった。最初のうちはカフェを営む若い夫婦がスコーンを焼いて販売したり、大きな声で挨拶をする元気な女がアクセサリーを売ったりしていたのだが、かけ声ばかりでさほど人が集まらず、集まってもそれほど物を買わないとわかってからは潮が引くように彼らは去っていった。しかし、自治体が絡んで始めた以上、そう簡単にやめるわけにもいかず、周辺の市場で商売をしている店主に声をかけたところ、年寄り連中が駆り出され、結果、各地でいまも活況を呈している朝市のように、常日頃から必要な食品などを扱う露店が多くなり、逆に客も増えた。
 しかし、そんな朝市に露店を出している女たち、主に年配の女性たちだが、彼女たちは男をまったく気にせずに商売を続けていた。男もまるで自分の衣服を気にせず、一時間後にはスタートの号砲が鳴る競技場を下見するように、朝市の中を歩いていた。
 客はもちろん競技場に集まる客ではなく、朝市に集まる客たちで、地元の住人もいれば、少し遠くから休日の遠足のようにやってくる家族連れもいた。彼らは男のことはまったく気にせずに女たちを冷やかしながら、必要なものを買ったり、時に必要のないものを笑顔で買ったりした。
 母親に手を引かれていたまだ三歳くらいの女の子が露店の小さなカレイの一夜干しに気を惹かれて立ち止まった。母親はしばらく一緒にその露店の前に立っていたが、女の子がいつまで経っても興味を失わず、ついに座り込んでしまったので、勝手にあっちこっち行っちゃだめよ、という声を残して少し先の露店に向かった。じっとカレイを見ている女の子に向かって女が言った。
「カレイが好きなの?」
 聞かれた女の子は、目の前のものがカレイという名前なのだということに初めて気付き答えられずにいた。
「カレイが好きなの?」
 と女がもう一度聞き直すと、女の子は元気に「はい」と答えた。
 その返事に、女は重ねて聞いた。
「食べるのが好き? 見るのが好き?」
 女の子は答えられなかったが懸命に考えていた。しかし、考えても考えても答えがわからなかった。食べるのも好きだが、その姿形に惹かれている自分もいる。この場合、どう答えればいいのだろう。迷っているうちに、だんだんと目の前の女から攻められている気がした。そして、早くここから立ち去ってしまいたいと思うのだが、そんなことをすれば、目の前の女が何をするかわからない、という思いが強くなり余計に身動きできなくなった。困ってしまった女の子は、母親を探したが人出が知らないうちに増していて、しゃがみ込んだままの位置からは探せなかった。その代わりにまっすぐに目に入ったのが陸上選手の男だった。
 女の子から視線を受けて、男は迷いなく女の子がしゃがんでいる露店へと歩み寄った。その歩みは大半の客たちの動線に逆らうものだったのだが、男は誰にもぶつからず、誰の進路も一瞬でも妨害しないものだった。その迅速さと滑らかさは、女の子にとっては最も好ましいものだったので、女の子はすっかり安心して男のそばに立つのだった。
 男は背が少し高く、周りに年配者が多かったせいで周囲から彼を見つけることがたやすかった。女の子の母親はすぐに男を見て、その足元に立つ我が娘を見つけて走り寄ってきた。
「ありがとうございます」
 と母親は礼を言うのだが、男には状況が掴めなかった。しかし、礼を言われているのだから、いいことをしたのかも知れないと笑顔を浮かべた。
 女の子はもう少し男と一緒にいたかったのだが、一緒にいて何をすればいいのかわからなかったので、あまり男に興味がないふりをしていた。すると、母親が女の子の手を引いて去ろうとした。女の子もそれに従った。しかし、少し後ろ髪を引かれる思いがしたので、時々、男を振り返った。男は白い体操着を着たままこちらに手を振っていた。
 この男が本当に陸上選手なのかどうか。そして、なんのために朝市に現れたのか。数年後に女の子は何度も彼のことを思い出したのだが、彼が何者なのかはよくわからなかった。けれど、振り返ったときに手を振っていたぎこちない笑顔だけは忘れることができず、思春期を過ぎる頃まで彼女を悩ませ続けた。(了)