走る犬、うずくまる人。(2)

植松眞人

 岐阜羽島に降り立ったときに僕が心に決めていたことは、時間がかかってもちゃんと大阪に行こうということだった。仕事を途中で投げ出して岐阜羽島に降り立ったわけでも、何かに絶望していたわけでもない。ただ、のどが渇いてお茶を買いにホームに降りたら成り行きでこういうことになっただけで、達観を経てこうなったわけではない、ということはいま岐阜羽島の駅前のロータリーで青白い水銀灯に照らされて、寂しそうにも、気楽そうにも見えるだろう僕をきっとどこかで見守っている八百万の神様たちに伝えておきたいと思う。
 神様を思うという気持ちはそれほど長続きはしなかったのだが、神様を思うのよ、とことあるごとに教えてくれた祖父母の存在をふいに思い出して、それはそれで十一月の寒空の下で少しは温かな気持ちにはなる出来事であり、岐阜羽島という新幹線の通過駅としてしか認識していなかった土地を、改めていま僕がいる場所なのだと突きつけられているようでもあった。
 それで僕は立ち上がり、さっきよれっとした犬が歩いて行った方へと歩き出した。よれっと犬は、別によたよたと歩いて行ったわけではなく、ときどき身体の中心を見失ったようにふいに左右に揺れるのであり、その具合がどこかで中心の狂った自転車の車輪のようでもあって、それなら随時よれよれしてくれていれば、よたよたでいいのだけれど、まっすぐに歩いているように見える時間がそれなりにあって、しゃくるように一定のリズムではなくよれるムードが、やはりどう見てもよたよた歩きではなく、よれっとした犬なのだった。
 僕はよれっとした犬について歩き始めたのだが、すぐに車道は等間隔に設置された街灯だけになり、その街灯も車のためのものだからか間隔がとても広くてしばらく暗い中を歩くと、すっと明るくなるというふうで、言い換えれば、暗い車道をまっすぐに見つめると、点々と光のステーションが連なっているようにも見える。見えるのだけれど、寒い夜風の下ではどうしようもないほどに光のステーションも貧弱で、古いSF映画を見ているように粒子が粗く浮き出している。
 よれっとした犬が、そんな光の中に浮かび、すっと消えていき、またふっと浮かぶ。僕はおそらく同じようにすっと消えて、ふっと浮かびながらよれっとした犬を追っていく。僕とよれっとした犬は、同じような速度で歩く。というよりも、僕がよれっとした犬においていかれないように少し早足で歩いている。よれっとした犬はよれっとした外観によらずそれなりに精悍に歩いていく。僕は犬の精悍を思う。おそらくいろんな犬の雑種なのだろう。中型くらいのサイズで、毛足が少しだけ長く、かといって全体のイメージは洋犬ではなく昔ながらの日本の犬の雰囲気と言えばいいのか。いかにも日本人と言った体型なのに、髪の毛だけがくるくるとカールして、しかもちょっと茶色がかった、ハーフなのに日本人のお父さんのほうに似ちゃったのね、と言われる感じと言えばいいのか。なんだかアンバランスな感じがよれっとした犬の魅力だ。よれっとはしていても、それなりに精悍に見えるのは、彼がまだ若いからだろう。年老いてよれっとしているのではなく、かつて事故に遭ったのか、もしかしたら生まれつきの不虞なのか、どちらにしてもその動きの奥底、体幹のような部分にまだ彼の身体を上回る力があり、黙っていても身体を前に進めている。僕はと言えば、長年の不摂生と仕事への意欲のなさ、そして、馬鹿は馬鹿なりに寄り添って仕事をしてきた仲間との別れなどが重なってしまったことが気力のようなものを静かに奪っていったのだろうか、いまよれっとした犬よりも精気を欠き、まだ小一時間ほど歩いただけで息が上がり始めているのだった。
 そんな僕を見透かしたかのように、光のステーションと光のステーションの間に現れた別の光の塊、よく見るとそれは自動販売機が五台ほど置かれた場所で、その自動販売機の発する光のなかで、よれっとした犬は立ち止まり、捨て置かれていた段ボールの上に一度腹ばいになってこちらを見ているのだった。
 僕は少し遅れてその光の中に入り、小銭を出してあたたかい缶コーヒーを買い、飲む前に両手で包み込んで暖を取る。それから犬に水を買ってやり、鼻先のコンクリートの上に少し垂れ流してやる。すると犬は水がコンクリートにしみこんでしまう前にと、ぺろぺろと忙しく舌を動かしてのどを潤している。もう一度、水をやろうとペットボトルを傾けると、今度は水が垂れる前に、ペットボトルの口に直接口を持ってきて、ぺろぺろとなめ始める。僕はいっぺんに水が出てしまわないように、ゆっくりと水を流し込んでやる。
 何度かそんなことを繰り返していると、もういいです、というふうにさっきまでよれっとしていた犬が、なんだかきっぱりと言った気がしたので手を止める。そして、この犬に名前をつけようと思い立ったのである。どこまで歩くのかわからないのだけれど、このまま一緒に行くのなら名前があったほうがいいのではないかと思ったのだが、同時に名前なんてないほうが十一月の寒空の岐阜羽島には似合うような気もして、僕はしばらく迷ったあとに『ポチはどうだろう』と思ったのだった。幼稚園の頃、近所にポチという犬がいて、仲良く一緒に遊んでいたのだが、ある日、ポチに追いかけられてしまい、それから犬が大の苦手になったのだった。それなのに気がつけば、いま僕はこの犬の後をずっと歩いていて、こうして水までやって名前までつけようとしている。それなら、ポチでいいじゃないかと僕は思ったのだった。そして、さっき知り合ったばかりの犬にポチと名付けた瞬間に、幼稚園の頃に僕を追いかけたポチは、きっと僕と遊んでいるつもりだったのだなと気付くのだった。
 ポチ、と小さな声で呼ぶと、よれっとした犬は迷惑そうにこちらを向き、腹ばいになっていた段ボールの上で、はいそれでかまいませんよ、というふうにすくっと立ち上がり、よれっとした犬からポチになったのだった。(続く)