釣り堀の端 その四

植松眞人

 高橋に釣りを教えてもらいながら、耕助はずっと釣り堀の水を眺めていた。循環器の水の流れと釣り堀のそこに仕込んであるいくつかのエアポンプから出る小さな気泡が釣り堀全体に奇妙な波を作っている。自然の池や海とは違ううねるような波は、釣り堀全体が実は緑色の薄いフィルムのような膜で被われているのではないかと耕助には見えるのだった。
 高橋はそれほど熱心というわけでもなく、自分の動きをただ言葉に置き換えるように耕助に釣りの仕掛けの説明をしている。耕助は耕助で釣り堀の水面を眺めながら高橋の言葉にうなずきながら真似をして仕掛けを作る。
「だいたい、ここの仕掛けは雑なんだよ」
 高橋の言葉に耕助はふいをつかれて顔をあげる。
「雑ですか」
「雑だよ。だって、もうウキもオモリも針もばらばらなんだもん」
「ばらばらですか」
「ばらばらだよ。普通はもうちょっと一定というか、さすがに客にバレない程度に同じような仕掛けにするんだけどさ。ここのは、付いてりゃいいでしょ、ぐらいの感じで、ほら、これとこれ見てみなよ。全然違うだろ」
 高橋は耕助の仕掛けと自分の仕掛けを目の前にあげて比べてみせる。
「だから、それを自分で調整するってわけだよ。まあ、先代の時からずっとこうだけどな」
「でしょうね。僕は置いてあったやつを真似して作ってるから」
 耕助がそう言って笑うと、高橋は少し呆れ顔で笑う。
「ま、それがここのいいとこだよ」
 そう言って、高橋は手先を動かしながら、美幸たちのいる小屋を眺める。
「しかし、耕助くんは羨ましいよ。奥さんがあんなにきれいなんだから」
 そう言われて、耕助も顔をあげる。小屋の窓の中で美幸と三浦が笑いながらこっちを見ている。
「きれいですか?」
「きれいだよ」
「そうかなあ。ブスじゃないと思うけど」
 高橋は笑う。
「ブスじゃなきゃ可愛いかきれいなんだよ」
 高橋の言葉に耕助はじっと美幸を見つめる。美幸はそれに気付いて高橋に手を振ろうと片手を高く上げようとした。すると、身体全体のバランスがくずれ、なぜか三浦くんの身体が美幸のほうに引っ張られたのだった。ほんの僅かではあったが、それが耕助にはわかった。なるほど、いままで、美幸と三浦くんは身体の後ろの見えないところで手をつないでいたのだな、ということが耕助にはわかったのだった。高橋はそれにはまったく気付かずにいる。
「可愛いときれいなら、どっちかというときれいだよ、美幸ちゃんは」
 高橋はそう言うと、針を釣り堀に沈めた。
 しばらく耕助は高橋の竿の先の糸が釣り堀の水の中に沈んでいる部分を眺めているふりをしながら時間をおいてから、もう一度小屋を見た。美幸はまだ手を振っていた。三浦くんはさっき美幸に引っ張られた手をかすかにさすりながら小さく眉間に皺を寄せていた。耕助はため息をつきながら自分の竿を持ち、エサを確かめてから釣り堀に針を沈めた。そして、ため息をついて笑った。
「馬鹿だなあ」
 耕助は知らず知らずに小さく声に出した。高橋が隣で、誰が、とこれも反射的に声に出した。しかし、耕助が答えるよりも先に、高橋は問わず語りのように、言うのだった。
「ほんと、三浦くんは馬鹿だよ」
 耕助が目の端で高橋の表情を読もうとしていると、高橋はしっかりと耕助のほうを向いて、
「おれもああいう馬鹿は嫌いじゃないけど、女は好きだからね。ああいう馬鹿が」
「おれも嫌いじゃないっす」
 耕助が答えると高橋は声に出して笑う。
「困ったね、こりゃ」
 耕助も笑い出す。
「困りましたね」
 二人の笑い声は互いに響き合ってだんだんと大きくなって住宅街に響き始める。やがてその声は小屋にいる美幸と三浦くんにも届く。二人は耕助と高橋が笑っているのを眺める。
「なに笑ってるんだろ」
 美幸が楽しそうに言う。
「おれたちのこと笑ってるんじゃないですか」
 三浦くんがそういうと、さっきまで笑っていた美幸が急に真顔になる。そして、もう一度、三浦くんの手を握る。三浦くんは一瞬とまどい手を引こうとするが、美幸がその手を意外に強い力で戻す。そして、外からは見えない古びたデスクの上に、美幸は三浦くんの手を抑え付ける。三浦くんは抑え付けられた手を暫く眺めたあと、笑っている耕助と高橋に視線を向ける。二人はまだ笑っている。こっちを見て笑っている。
「ねえ、三浦くんって、意外に勘が良いよね」
 そう言って、美幸は楽しそうに微笑みを浮かべて、三浦くんの手をなで回す。三浦くんは居心地の悪そうな笑顔を浮かべ、身動きせずにこっちを見て笑っている耕助と高橋に笑顔を送っている。
 耕助たちの笑い声が聞こえたからだろうか。釣り堀のすぐ隣にある二階建ての住宅の二階の窓が相手、丸坊主の中学生がパジャマ姿のまま顔を出して釣り堀をのぞき込んだ。中学生は耕助を見て、高橋を見た。そして、視線を小屋へ移す。二階からだと小屋のなかで三浦くんが手を押さえられているのがよく見えた。手を押さえつけられたまま三浦くんが困ったような顔をしているのを中学生はしばらく眺めていた。中学生はやがてこの大人たちの関係を一瞬にして理解して大笑いして窓を閉めた。(了)