さつき 二〇一七年七月 第三回

植松眞人

私が学校に行っている間に、何かが起こったのに違いなかった。今日はずっと家にいるからと笑って送り出してくれた母がいなかった。ただいま、と声をかけても誰も答えてくれないのに玄関の鍵がかけられていなかった。いつも持ち歩いてる父のスマートホンが食卓の上に置きっ放しになっていた。そして、そのスマートホンの周りには、いくつかのお客さん用の湯飲みがあって、父が誰かと話していたことは確かだった。お客さんを見送りに行ったとすると、どこまで見送りに行ったのだろう、と私はものすごく嫌な予感しかしないリビングの真ん中はとても静かで、私には案山子のように突っ立っていた。
「お帰り、さつき」
父の明るい声が聞こえて、私はさらに不安になった。父は普段聞いたことがないくらいの明るい声だった。まるで廊下の白熱球のワット数を間違えたときのように、私はまっすぐに父を見れなかった。
「母さんはもうすぐ帰ってくるから」
父は、とにかく今は何も聞くな。何も心配いらないから、とりあえず今は何も質問しないでくれ、というふうに満面の笑みを浮かべてそう言っているかのようだった。
母が帰ってきたのはそれから二時間くらいしてからだった。
母はぐったりと疲れた顔をしていて、「疲れた」と声に出していうこともできないほどだった。
しばらくの間、父と母は寝室にこもって声を潜めて話をしていた。私はときどき寝室に前にまで行って様子を探ったりしていたのだが、もそもそと話す気配ばかりで気持ちが寂しくなるので、再びリビングに戻ってこの家の中をぼんやりと見回していた。
平成の始まった頃に日本中が浮かれていた
バブル景気があり、その時代に仕事が途切れることがなかった父と母が購入した都内の一戸建てだった。
バブル景気が弾けたと言われていたころ、都内の不動産物件の価格が一斉に下がった。ときどきこの家の前の道を歩いていた母が門扉に『売家』というプレートが掲げられるのを見落とさなかった。
その家は当時、父と母が住んでいた賃貸マンションからすぐの場所にあって、それほど大きくはないけれど小さな庭と井戸があった。
「井戸があれば、おいしい水が飲めるし、夏はスイカが冷やせるじゃない」
母はそう言って、父にその家をまるで自分の家のように紹介したという。もちろん、その頃は別の人が住んでいて、自分たちが本当に住むことになるとは父は思っていなかったらしいけれど、母だけは、きっといつかそこに住むからと、念を送り続けていたらしい。
そこにバブル崩壊である。不動産価格の大幅下落である。母はそれまでにこつこつと貯めたお金と、実家の両親に無心をして頭金を捻出した。母が実家にお金の相談をしたのは、その時が初めてで、祖父母は母をそこまで夢中にする家はどんな家なのかと、下見に来たらしい。そして、そのあまりにも慎ましやかな外観に大笑いして、そんな慎ましさを愛する母に安堵して、お金を貸してくれたのだという。
しかし、実際にはそれでも足りずに、不動産会社に懇願して、家の持ち主に取り次いでもらい、自分がどれほどこの家を気に入っているのか。そして、この家に住むことで、どれほど幸せになれると期待しているのかを話して聞かせた。
その家の持ち主は、とても気の良い年配のご婦人で、子どもたちが巣立ち、ご主人が亡くなり、一人で住むには広すぎるという理由で家を売りに出していたのだった。そして、母の奇妙な申し出に「そんなに気に入ってくれたの」と感動し、自分の子どもたちが「そんな理由で値引きするなんて」というあきれた声を無視して、不動産価格の大幅下落をさらに大幅に上回るような価格調整をしてくれたのだった。
売買契約の日、不動産会社の担当者が「どんな経緯でこんな奇跡が起こるんですか」とため息をついたらしい。もちろん、私はそれがどれほどの奇跡なのかはわからないけれど、奇跡であることには間違いないと思っている。
さて、そんな家から私たちは出て行くことになるのだという発表は父ではなく母の口から発せられた。お金の出所とかいった話は別にして、明らかにこの家は母の家だった。この家を手放すという話をするのであれば、それは母の口からでなければならない。それは父としても同じ気持ちだったに違いない。母の隣に座った父は、どちらかと言えばまるで母の保護者のような顔をして、母を見守っていた。
「つまり、この家を出て行かなくてはならなくなったということね」
私が言うと、母はうなずいた。
「そう。出て行かなくてはならなくなったの」
でも、それはたいした問題じゃないわ、という顔をして答えた。
「出て行くけれど、次に住む家もすぐに見つかるだろうし、そこでかかる家賃も今のうちの収入からすると、なんとかなる、ということなのね」
私も動揺していることを隠すように笑顔で言う。すると、父と母も同じように笑顔でうなずいてくれた。(つづく)