スマホ、柚木香澄の場合

植松眞人

 柚木という名字の人に会ったことがない。ゆずの木と書いて「ゆき」と読む。電話で名前を伝えると、半分くらいの確率で「名字は」と聞き返される。「ゆずの木と書くんです」と言っても、すんなり伝わることはほとんどない。香澄という名前には時々会う。いま通っている大学のゼミにも同じ字を書くカスミちゃんはいるし、字は違うけれどカスミと読む友だちはいる。
 最近はみんながスマホを持っているので、「ゆき」と入力すると、たまに賢い変換だと「柚木」という字が現れる。スマホは便利だ。辞書にもなるし、目覚まし時計にもなる。大学に入学して実家を出てからは、少し時間があるとLINEをしたり、SNSを見たり、簡単なパズルゲームをしたりすることもある。友だちとの写真も全部スマホに入っている。まだ彼氏はいないけれど、同じゼミのカスミちゃんは、彼氏とのキス写真までアップしてリア充ぶりをアピールする。でも、本当はその彼氏とはとっくに別れていて、新しい彼氏もいるんだけどアップした写真は削除していない。なんで、と聞いたら、前の彼氏のほうがかっこよかったしあの写真の自分の顔は彼氏の影に隠れてわかりにくいし、ウラ垢だから新しい彼氏にはばれっこないから、とカスミちゃんは、やばいかなあ、を連発しながら私に笑って言う。
 カスミちゃんのことは馬鹿だなあとは思うけれど、その気持ちはまったくわからないわけではなくて、私はカスミちゃんのことを心からは馬鹿に出来ない。
 だけど、そんな話をしているときに、私はカスミちゃんと一緒にカスミちゃんの昔の彼氏とのキス写真を眺めていたのだけれど、ウラのアカウントを使っているカスミちゃんのほうが、オモテのアカウントのカスミちゃんよりも本物のような気がして、だんだんと気持ちが悪くなってきた。やっぱりこの写真削除したほうがいいんじゃないの、と私が言うと、カスミちゃんは一瞬、真顔になってものすごく私を見下した顔をした。見下した顔というのは、いくら私が何を説明しても決して受け入れないよ、だってあんたは馬鹿だからという顔で、私の友だちのほとんどがその顔を持っていて、時々、互いに見下した顔を向け合っているように思える。私ももしかしたら、人を見下すような顔を持っているのかもしれないけれど、よくはわからない。
 わからないけれど、私はなんだか、そのとき気持ちが昂ぶってしまって、「カスミちゃんてさ」と言ってから、私は自分の名前が目の前のカスミちゃんと同じ字面で同じ読み方なのだということに気付いて、急に吐き気がしてしまって、ごめん、と言って一緒にいたコーヒーショップを出たのだった。
 平日午後の表参道を歩いている人たちはみんなカスミちゃんと同じくらいにはオシャレで、私はこの人たちがみんなウラ垢を持っているんじゃないかと考えてしまい、みんなの輪郭が二重に見え始めて、道行く人たちの人数が急に倍になって道を埋め尽くした。
 私はなるべく人の少ない脇道へと入っていく。オシャレなショップがどんどんと減っていくにしたがって、私は気分は落ち着いていった。小さな路地を見つけては曲がり、小さな路地を見つけては曲がりしているうちに、私は表参道から大きくそれていって、道に迷ってしまったのだった。
 古いビルがあり、その階段に腰を下ろして、私はしばらくぼんやりと汗が引くのを待っていた。路地の奥から風が吹いてきて、私の頬を撫でた。風が私とカスミちゃんを断ち切ったような感覚があった。カスミちゃんと私。表参道と私。SNSと私。大学のゼミ仲間と私。東京と私。さっきの風が、いろんなものと私を断ち切ったように思えたのだ。断ち切ったとまでいかないまでも、なにかクールダウンさせてくれたような感覚があった。

 私は、いま自分がどこにいるのかを確認しようとスマホをバッグから取り出した。するとまた気持ちが悪くなったのだ。SNSとまたつながってしまうような気持ち。またカスミちゃんと連絡を取り合って遊びに行かなければいけないような気持ちがざわざわと私の周囲にわき上がって、私を包み込もうとしているようか気がした。
 私は自分がどこにいるのか、確認するのを諦めて、ゆっくりと知らない路地を歩いた。坂道を上がったり下がったり、また平坦な道を右に曲がり左に曲がった。その間、私はずっとポケットの中にあるスマホをずっと握りしめていた。いままでこうすると私は心細さを隠すことが出来た。なんとなく、スマホのなかにあるいろんな情報が私をこの世の中につなぎ止めてくれているような気がするのだ。
 でも、いま、スマホは冷たいままだった。私はスマホを取り上げて、思い切って電源を入れた。そして、「設定」というボタンをおして、そこから「一般」という項目を選択した。「初期化」という文字が見えて、私は私のスマホを初期化した。個人情報がなにも残らない状態にした。
 私のスマホは、私のスマホではなくなり、私が持っている誰のものでもないスマホになった気がした。
 ちょうど表参道に出たので、私はスマホをコンビニのゴミ箱に捨てた。なにも気にせず、なにも迷わず、私はゴミ箱の中にスマホを投げ入れた。私がそのまま行こうとするとスマホに着信があり、コンビニのゴミ箱の中で着信音を鳴らせ始めた。初期化した直後だったので、私は驚いて立ち尽くした。スマホのなかのアドレス帳を初期化してしまったので、スマホの画面には電話番号だけが明滅していた。はっきりとは覚えていないのだけれど、末尾の四桁がカスミちゃんの番号のようにも思えた。私はしばらく、その番号を眺めていたけれど、スマホの向こうにカスミちゃんが本当にいるとは思えなくなっていた。いままでスマホを通じてやりとりしていたカスミちゃんや大学の友だちやアルバイト先の人たちも、もしかしたらスマホの中にしかいないのではないかと思い始めていた。
 私はコンビニのゴミ箱で鳴っているスマホから逃げるように、駅のほうへと歩いた。すぐ目の前にあった東京メトロの看板の誘導に従って、私は階段を駈け降り、改札へと足早に近づき、スイカを使おうとポケットに手を突っ込んでスマホを……。(了)