主よ、みもとに近づかん。

植松眞人

 上野恩寵公園の北の端には大噴水があり、その脇を抜けて木立の中へ入っていくと、たくさんの人々が寒空の下でじっと行列を作っていた。
 百人近い人のほとんどは男性で、みんな地味な色合いの防寒具を着て、ときおり吹く風から顔をそらしながら時間が来るのを待っている。列は二十人程度ずつで折り返していて湿気た布団が折り重なっているように見えた。
 近くの教会の名前が書かれた小さなボードが行列の周辺にいくつか置かれていて、用意された長テーブルの上では湯気を立てたスープの準備が進んでいる。湯気のほうから行列する男たちを見ると、彼らは施しを受ける可哀想な人々だが、男たちから湯気を見ると鼻持ちならない施しを覆い隠す技巧の一つのようで興味深く見えるのだった。
 立花はそんな行列の中程に車椅子で並んでいた。たまたま孫の美由紀に車椅子を押してもらい、公園を散歩している最中に、大きなナベでスープを運び込みカセットコンロで温め直そうとしている若い男女を見かけたのだった。立花が「おいしそうなスープだね」と話しかけると、若い男女は一瞬怪訝な表情を浮かべたのだが、立花の車椅子を見ると、今度は驚くほど屈託のない笑顔を浮かべた。
「近所の教会からの配給です。どなたでも楽しんでいただけますので、ご希望ならこの列の最後尾にお並びください」
 その言葉に、立花がうなずくと、若い男女は再びスープを温め直す準備を始めた。立花は孫の美由紀に「ここでスープをもらっていくから、お前は近くのコーヒーショップでお茶でも飲んでなさい」と財布を預けると、美由紀は中学生らしいわかりやすさで、車椅子を列の最後尾に付けながら、立花のお守りから解放されるうれしさを表情に浮かべた
 立花が並び始めると、その後ろにもたくさんの男たちが並び始め、あっという間に最後尾だった場所はちょうど真ん中くらいの位置になった。二十人程度で列は折り返しているため、立花は百人近い男たちの集団の真ん中あたりに囲まれているのだった。周囲の男たちは、車椅子でならんでいる立花に一瞬目を止めるのだが、スープを作っている男女のように怪訝な顔をすることも微笑みかけてくることもなかった。ただ、スープが配られる時間をじっと待っているのだという潔い目的のために彼らは列に並んでいるのだった。
 立花の車椅子に座った低い位置からは、前後の男たちの息づかいは聞こえてはこない。そのかわりに、湿気を失って荒れた革靴を履いた足元や、毛玉でいっぱいになった厚手のセーターや、ほんの少し足踏みするズボンの裾から見える靴下をはいていないくるぶしのあたりから立ち上ってくる男たちの憤怒と絶望のようなものが、立花の車椅子を包み込むような感覚に襲われたのだった。
 キーン!という甲高い大きな音が響いた。さっきまでいなかった髭を生やしたダウンジャケットを着た男性が、ラッパのような形をしたハンドマイクを握っていた。調子が悪いのか、男性が話そうとスイッチを入れるとハウリングが起こり甲高い音が響くのだった。男性はそのたびに、唇の端を歪めて舌打ちをした。その一瞬見せる下卑た表情をおそらくスープの施しを待つ男たちのほとんどは見逃していないのだろうと立花は思った。
 やがて、ハンドマイクを通して男性の声が響く。ハンドマイクの調子が戻ったことが嬉しいのか、男性は唇の端を歪めることも舌打ちをすることもなく、神父としての言葉を一つ二つ吐く。その言葉を合図に、神父の隣に立っていた厚手のコートを着た初老の男が手にしていたアコーディオンを弾き始める。
 スープの用意をしていた若い男女が小さなカードを列の前と後ろから配布する。中程に並んでいた立花には一番最後にカードが届けられた。立花がそのカードに目を通そうとしたちょうどその時に、アコーディオンによる演奏が一通り終わり、みんなが一斉に歌い始めた。

主よ、みもとに近づかん
のぼるみちは十字架に
ありともなど悲しむべき
主よ、みもとに近づかん
さすらうまに日は暮れ
石のうえのかりねの夢にも
なお天を望み

 男たちはおそらく何度も何度も歌ってきたこの賛美歌をいつもと同じように歌っているのだろう。つまることなく歌っている。意外にもちゃんと歌っている男が多く、その声の張り具合からみんなそれほど歳を取ってないことを知るのだった。伸びた髪や暗い色の防寒具からなんとなくみんな自分と同じくらいの年配者かそれ以上の年齢だと思っていたのだが、改めて歌っている声や顔を注意深く車椅子の位置から見上げていると、みんな自分よりも歳下らしい。

主よ、みもとに近づかん
主のつかいはみ空に
かよう梯のうえより招きぬれば
いざ登りて

 歌が終わりに近づいてくると、若い男女がスープを使い捨ての容器に注ぎ始める。野菜などのたくさんの具材は入っていることがここからでも見て取れる。男たちは歌いながら、そっとその様子を見つめ、生唾を飲み込む。

主よ、みもとに近づかん
うつし世をばはなれて
天がける日きたらば
いよよちかくみもとにゆき
主のみかおをあおぎみん

 歌い終わるとアコーディオンの伴奏を聞きながら、神父がアーメンと大きな声で言う。それにあわせてアーメンと言うと、列は一斉に動き始める。アコーディオンの演奏は終わらない。教会の人たちと、おそらくボランティアの人たちがさっきの賛美歌を繰り返し歌っているが、並んでいた男たちは、もうお努めは澄んだはずだとばかり押し黙ったままで一歩一歩スープが配給されているテーブルへと近づいていく。立花も車椅子の車輪を押して、前の男の間を詰める。途中から、後ろの男が立花の車椅子を押してくれる。立花が後ろを振り返って礼を言うと、男はにこりともせず、スープのほうを見て白い息を吐いた。(了)