千枚通し

植松眞人

 日暮里の駅を降りて、谷中のほうへ向かう。JRや京成の線路をまたぐように歩道橋が架けられていて、その上に立って振り返るとスカイツリーがやけに大きく見えた。もちろん、歩いて行くとなると、躊躇してしまうほどの距離があるのだが、冬の寒空で晴れ渡っているからか、こんなに近くに見えるのか、としばらく見入ってしまうほどだった。
 そんな晴れた冬の青空を見ていると、忠士はいつも五十年近く前の八月の入道雲を思い出すのである。不思議な話だが、夏の入道雲を見てもあの時のことを思い出すことはないのに、冬の晴れ渡った空で思い出すのだ。
 あの夏、忠士はまだ小学校の六年生だった。
 やたらと入道雲が多い八月だった。山の向こうからもくもくとわき上がるような入道雲が毎日のように姿を表していた。入道雲は他の雲と違い、厚みがあって広がるだけではなく、こちら側に向かってくるように見えて、忠士は大好きだった。
「入道雲が出てくると、夏も終わりやな」
 忠士の三つ上の兄、孝史は父親の真似をして入道雲を見る度にそう言った。
 そんな兄の言葉を聞くと、忠士は小学校生活最後の夏休みが終わるのかと思い、やるせない気持ちになり、大好きな入道雲を少し憎らしく思ったりもした。
「たこ焼き買いにいこ」
 孝史が忠士に声をかけた。孝史がそう言うときは、新聞配達のアルバイト料が入ったときなのだった。アルバイト料が入ると、いつもは節約家の兄が、忠士に気前よくたこ焼きをおごってくれるのだった。
 川沿いの家からすぐのところにあるたこ焼き屋は、近江屋という屋号で、母の節子の弟夫婦が営んでいた。忠士からすれば、叔父さん夫婦の店ということになる。店主は叔父の三郎だが、実質的に店を切り盛りしているのは奥さんの弥生だった。弥生は明るく気丈で、近所の悪たれが店にやってきても歓迎するのだが、少しでも生意気な口をきくと、たこ焼きを渡すことなく叱りつけて帰らせてしまう。それでも、そんな弥生を慕って、悪たれどもは次の日に謝りながらたこ焼きを買いに来るのだった。
 叔父の三郎は人は良いのだが気が弱いので、叔父だけの時は悪たれどもも横柄で、高校生くらいになると、三郎に煙草をせがんだりする輩もいる始末だ。
 忠士や孝史が近江屋に出かける時間は早い時間なので、いつも客はいない。そこで、忠士はポケットに忍ばせた十円玉一枚で、小さな舟に乗せてくれる三つのたこ焼きを買う。すると三郎は、一つおまけして四つのたこ焼きを「おまけやで」と少しやぶにらみの目で笑いながら入れてくれるのだった。
 しかし、忠直のアルバイト料が入ったときは違う。百円で四十個のたこ焼きを買うのだ。大きな大きな薄い木の舟にソース味のたこ焼きを二十個、醤油味のたこ焼きを二十個、一緒に乗せてもらう。そして、それをたこ焼き屋の隅っこにあるビールケースに二人並んで腰掛けて半分ずつ食べるのである。
「そんなぎょうさん食べて、晩ご飯食べられへんなったら、怒られるで」
 三郎は、たこ焼きをひっくり返す千枚通しをくるくると手の中で回しながら笑う。すると、兄の忠直は、自慢げに笑い返して、
「おっちゃんとこのたこ焼きくらいで、晩ご飯が食べられへんようになるほど、やわな子どもやないで」
 と、たこ焼きを口に放り込むのだった。忠士はいつも、そんな兄を見て、とても楽しい気持ちになった。確かに、たこ焼きを食べても晩ご飯はちゃんと食べられるし、なによりも忠士は孝史と一緒に食べるたこ焼きが大好きだったのだ。
「そやけど、孝史も忠士もようこのくそ暑い時に、たこ焼きをぱくぱく食べてるなあ。おっちゃん、焼いてるだけで汗だくや。たこ焼きなんか見とうもないわ」
 そう言うと、三郎はたこ焼きの鉄板の下のガスの量を調整して、忠士たちの座っているビールケースの隣のビールケースに腰を下ろした。
「ほら、おっちゃんのおごりや」
 そう言って、ラムネを二本くれるのだった。ラムネの栓を抜く栓抜きがぶら下がっている軒先の柱の所まで行き、最初に孝史が栓を抜いた。思いきり泡があふれて、孝史が慌てて瓶の口をくわえた。くわえながら笑って、栓抜きを忠士に渡す。
「ラムネの栓抜きだけは兄ちゃんに負けへんねん」
 そう言って、忠士はぐっとラムネの口に栓抜きを押しつけ、注意深く押し込んだ。シュッという音がして、中身があふれることなくビー玉が瓶の中に落ちた。
「ほんまやなあ。兄ちゃんよりうまいわ」
 三郎はそう言うと、忠士の頭を撫でた。兄の孝史もそんな様子を見て嬉しそうに笑った。
「ほな、今日は特別に、おっちゃんがたこ焼きの焼き方教えたろ」
「えっ。ほんまに? ほんまに教えてくれるんか?」
 忠士はそう叫ぶように問うと、勢いよく立ち上がった。
「そないに慌てんでもええがな。その代わり、おばちゃんに内緒やで。子どもに火を使わせたなんてばれたら、おっちゃんが怒られるからな」
「言わへん。絶対言わへんで」
 そう答えたのは兄の孝史のほうだった。
 それから、しばらく、三郎は二人のためにビールケースをたこ焼きの鉄板の前に置いて、そこに二人を立たせた。油を引き、円形のくぼみがいくつも並んだ鉄板の上に、特性のだし汁とたっぷりの卵で溶いた粉を流し込んだ。「うちのたこ焼きは出汁がきいてるからうまいんや」といつか三郎が話してくれたことがあった。
 ジュッという音がして、粉もの特有の香りが立ち上った。孝史と忠士は、その煙の行方を追って天井に顔を向けた。
「よそ見してたらあかんで。ほら、まずタコを入れるんや」
 孝史は右側から、忠士は左側から、順番にタコの切れ端を入れていく。その後から、三郎が紅ショウガや桜エビ、天かすなどを次々と手際よくばらまいていく。
「よう見るんやで。鉄板の隅っこの粉が固まってきて、ぐつぐつ音を立て始めたやろ。もうちょっと待ったら、表面が乾いてくる。そのくらいがちょうどクルクルタイムの始まりや」
「クルクルタイムってなに?」
 忠士はそう聞くと、おっちゃんは手にしていた千枚通しをクルクルと回しながら、右の二列目の真ん中あたりの一つの円形に千枚通しを差し入れ、くるりと返した。流し込まれた粉はきれいな球体になって、二人の前に現れた。
「すごい。おっちゃんは天才や」
 忠士はそう言うと、僕にもやらせて、とせがんだ。
「わかったわかった。やらせたる」
 そう言うと、三郎は孝史の手に千枚通しを持たせ、その手を上から包み込むようにして、いま返した隣の円形に千枚通しを差し入れてくるりと返した。二つ目の球体が現れた。
「わあ。たこ焼きや!」
 と忠士は叫び、次は一人でやらせてくれと、おっちゃんの手をふりほどいた。ふりほどかれた三郎は、バランスを崩してしまい後ずさった。そして、とっさに目の前にいた忠士の着ていたランニングシャツを掴んでしまったのだった。シャツを掴まれた忠士はビールケースから落ちそうになり鉄板に手をついてしまった。
「熱い!」
 忠士が叫んだ。隣にいた孝史が、忠士の手を鉄板から放そうと、自分の手を鉄板と忠士の手の間に無理矢理にねじ込んだ。忠士は、三郎と一緒に後ろにひっくり返り、孝史は鉄板の側へ倒れ込んだ。
 そばにあった溶かれた粉の入ったボールが鉄板の上にこぼれ水煙がもうもうと立ちこめた。
 騒ぎに気付いた弥生が奥の部屋から出てきた。水蒸気で煙る店先を見て一瞬呆然とした節子はふいに気を取り直して叫んだ。
「なんや、これは。あんた、どないしたんや。大丈夫か!」
 そして、倒れている忠士を店の表へと引きずり出し、自分の夫に「外に出て!」と叫んだ。そして、たこ焼き器に覆い被さるようにしている孝史を見つけたのだった。
「何をしてるんや、この子は!」
 悲鳴に近い声で叫びながら、弥生は孝史の脇から手を入れて抱き起こして、店の外に仰向けに連れ出した。それから、弥生は水道の栓をひねって、勢いよく水を出して三人にかけ続けた。
 救急車がやってきたのは十五分ほどたってからだった。向かいの駄菓子屋のばあさんが、騒ぎを見て一一九番に電話をかけてくれたのだった。
 病院での診察の結果、三郎と忠士はそれぞれの手に軽いやけどをしただけだったが、孝史は顔にやけどをしてしまった。ただ、幸いなことに鉄板をたこ焼きの具材が覆っていたことで、直接鉄板に焼かれてはいなかったのだ。
「これが直接鉄板の上に顔を付けてたら、こんなもんですみませんよ」
 救急病院の若い医者が怒ったような顔でそういうのを見て、忠士は泣き出してしまった。
 駆けつけてきた母の節子は、弥生から事情を聞くと
「こんな子どもにたこ焼き焼かすやなんて、聞いたこともないわ。どんなつもりか知らんけど、けがが治るまで、きっちり責任取ってもらうよ」
 と自分の弟である三郎を怒鳴りつけた。そして、怒鳴ってしまったことで緊張が解けたのか、腕に包帯を巻いている忠士を抱き、背中をさすりながら声をあげて泣いた。
 結局、孝史の顔のやけどは、弥生が直後に水道水を大量にかけたことが功を奏して、皮が癒着するわけでもなく、ただ水ぶくれになって、しばらくするとそれが破れ、きれいな皮膚が再生した。夏の終わりなのに日焼けしていない白っぽい色と日焼けした真っ黒な部分が妙な具合になっていたが、それも冬の始まる前までだった。
 不思議なことに、三人の右手首の同じような場所に同じような火傷の跡が残った。
 近江屋はしばらく店を休み、秋になると隣町に引っ越して店を再開した。盆暮れには三郎や弥生とは顔を合わせたが、あの日の話はしなかった。ただ、互いに右の手首の火傷の跡を見やるのだった。(了)