誰も読んじゃいない。

植松眞人

 『映画とは何か』
   昇華芸術大学映像学科三年 千原達明

 映画とはベース面に塗られたエマルジョンに明滅する光と影を焼き付け、多くの(または少数の)観客に向けて投影する映像体験である。
 と、定義できたのはエジソンがキネトスコープを開発した一八八九年からついこの間まで。百年以上脈々と続いてきた「フィルム」による映画の歴史はすでに(ほぼ)絶たれている。
 いま現在、映画と言えば、本来三十コマであったビデオの機構を擬似的に二十四コマに置き換えて撮影されるフィルムルックのビデオ作品を指す。
 そんな大きな変革期を迎えた時期に映画制作を志す者として、「映画とは何か」というテーマでレポートを記述するのはとても困難なことだと思われる。しかし、私は自分が心惹かれる映画作品の内容を改めて分析するところからこの壮大なテーマに挑んでみようと考えている。
 これまで通算すると三百本程度の映画を観た。様々な角度から検討すると、どの映画がいちばん心惹かれた映画なのか、ということを決めることはできない。しかし、たった一度しか観ていないのに、私の心の奥底に、ずっと留まっているワンシーンを有する作品があり、私はこの作品を紐解くところから、「映画とは何か」ということを考えようと思う。
 私が………

 とここまで、上原先生の授業・映像研究の前期最終課題『映画とは何か』を書き始めてみた。しかし、『映画とは何か』という壮大で尊大なテーマを掲げるくらいのレポート改題である。どうせ、誰も読んじゃいない。最初の書き出しの段落と、最後の段落辺りを適当に書いておけば、後は上原君が規定の枚数を書いてあるかどうか、途中でラクガキをしたり、悪口を書いたり、改行改行でズルをしていないか、ということを確かめるくらいだ。あとは学生一人一人の顔と名前さえ一致しないインチキ非常勤講師が出席と日頃の贔屓目でAからCまでの成績を振り分ける。そして、出席が足りない学生はD判定を下して、単位を渡さない。だから、このレポートの『原稿用紙五枚以上』という規定は、「とりあえず、そこそこの枚数を書きやがれ」という適当な気持ちでの規定に違いない。
 どうせ誰も読んじゃいない。そう思いながら書かれる文章というものは、いったい何をモチベーションに書かれるべきなのだろう。誰も見ていなくても、丁寧に書くことが、きっと自分自身の未来に繋がるんだよ、という説教臭い話を信じながら、教会で祈るような気持ちで書けばいいのか。それとも、誰かに呪いを掛けるような、これから先も生きていけるかどうか分からないのに人生相談に答えているかのように書けばいいのか。
 ただ、とても小さなことだと思うし、逆に自分の不甲斐なさを露呈するようではあるが、「誰も読んじゃいないだろう」という気持ちで、読み手である非常勤講師の裏をかくようなこの行為は、少し緊張感があって面白い。久しぶりに、ほんの少しだけれど、「ああ、書いている」という気持ちになっているし、これがもしバレて単位を落としたとしても、それはそれで構わないという程度に興に乗っている。
 どちらにしても、俺はこの非常勤講師の授業がそれほど好きではない。自分の語りやすい映画作品を選び、適当に分析し、適当に学生を脅してみたりする。「この作品のこの場面に心が震えないようでは、映画など撮れないよ」などと言い、自分はいかに繊細で物わかりがいいのかを俺たちに売り込もうとする。あんたのそういうところが、俺は苦手だ。黙って優れた映画作品を見せてくれてばそれでいい。しかも、それはハリウッドのヒット作じゃなくていいんだ。あんた以外の確かな映画人や映画評論家の基準で名画だと判定された映画を見せてくれればそれでいい。
 あ、でも、一度だけ、あんたが見せてくれた映画に心震えた瞬間があった。あれは何だったんだろう。タイトルを思い出すことができないよ。と、ここまで脱線してきたけれど、ここらで改行を二回ほどくり返してレポートを締めくくらないと。
 つまり、私自身が「映画」だと確信をもって言える映画作品に共通しているのは、主人公や登場人物に対して、過度に感情移入ができない、という点である。
 それが何を意味しているのか、と考えるにつれて浮かび上がってくるのは、映画は私自身の感情に沿っていれば良い、と言うのではなく、私の気持ちとは別の感情をもった人がいると気付かせてくれることであり、同時に私自身がスクリーンの中にいると気付かせてくれることなのかもしれない。
 映画とは何か、というテーマの答えを乱暴に導くと、私には「私」という言葉しかない。それが正解であるとは思えない。しかし、間違っているとも思えない。そして、この答えが映画と何かという問いかけから遠く離れた場所にポツンとあるような気がしてしまう。
二千十九年九月三十日

映像学科三年 千原達明
単位認定 合格
レポート評価 A