非常事態宣言の夜

植松眞人

 オリンピックイヤーを迎え、安倍晋三は華々しく有終の美を飾るはずだった。しかし、二〇二〇年は前年からの不穏な未知のウイルスの世界的な蔓延によってオリンピックどころではなくなってしまった。

ロックダウンはしない。
外出、通勤の自粛を国民にお願いする。
効果があると言われ始めているアビガンという薬を早急に用意する。
PCR検査を二万件にまで増やす。
各家庭に何度でも洗って使用できる布製のマスクを二枚ずつ配布する。

 テレビの前で身構えながら、じっと安倍晋三の言葉を聞いていた美樹は「布製のマスクを二枚ずつ」というところでスッと力が抜けていくのを感じた。結局、この国難もこの首相にとってはスタンドプレイのネタでしかないのだということがよくわかったからだ。
 ここしばらく、中国武漢から始まった未知のウイルスが静かに広がっているという状況を知っておこうとテレビのニュースを見る時間が増えた。そんな中で、手洗いとマスクが最も有効だと聞かされながら、どこへ行ってもマスクが手に入れられない苛立ちを感じていた。しかも、それを甲高い声で叫ぶようにアピールする安倍晋三は、自らマスクなどしていない。そのことに強い違和感を抱いていたのである。
 しかし、数日前から急に安倍晋三がマスクをするようになり、美樹の違和感はさらに高まった。それて、いまテレビの中の安倍晋三が「布製のマスクを各家庭に二枚ずつ配る」という声を聞いて、ふいに「あれが配られるのか」と息が詰まってしまったのである。
 一国のトップのあごまで覆うことができないような無様なマスクを私たちに配ろうと言うのか。そして、一度決めたら勇気ある撤退など考えもしない安倍晋三はどんなことがあろうと、いかにもこの小さそうな、そして、洗えばすぐに縮んでしまいそうなマスクを送ってくるのだろう。
 生活が苦しい中で実施された消費税の増税や、勤めていた小さな会社の社長を苦しめる税務署の対応や、どう考えても弱い者いじめにしか見えない法改正など、これまでにも何度もこの国やこの国のトップを恨んだり嫉んだりしたことはあった。
 でも、と美樹は思うのだった。安倍晋三の顔も覆えないほど小さなマスクをこの国は私たちに配ろうというのだ、と。しかも、家族の人数分ではなく、何人家族であろうとたった二枚だけを。
 美樹はテレビを消し、玄関脇に届いていた宅配の小さい箱を手にしてテレビの前に戻ってきた。東京で一人暮らしをする娘を心配して、母が送ってきたものだった。電話では聞いていたが、箱の中身は何枚かの布とゴム紐が入っていて、その他に電話では聞いていなかったレトルトのご飯とカレーが入っていた。
 布とゴム紐はジプロックに入れられていて、開けるとほんのりアルコール消毒の臭いがした。ジプロックの中にはメモが入っていて、そこにはマスクを手作りする方法が書かれていた。美樹はさっそく母が送ってくれた布を手に取り、マスクを作る準備を始めた。自分の裁縫道具も用意して、まず布を一枚、自分の口元に当ててみた。安倍晋三のマスクよりも一回り大きなマスクになるように、母が裁断してくれていた。美樹はその布を二枚重ねにして、まずは上下を縫い合わせようと考えた。上を縫ったあと、今度は下の方の布をほんの少し折り込んでサイズを調整する。その時、美樹は一度折り込んだ布を改めて広げてみた。そして、さっきよりも大きく折り込んで、自分の口元へと当ててみたのだった。
 美樹の口元の布は少し小さく、美樹のあごが丸見えになっていた。ちょうど、安倍晋三がしていた小さな布製のマスクくらいに。同時に美樹は思ったのだ。もしかしたら、安倍晋三よりも大きなマスクをしてはいけないのではないかと。安倍晋三のマスクよりも大きなマスクをする国民など、いてはいけないのではないか。美樹はふいにそう思い手が止まってしまった。
 もちろん、東京都知事だって安倍晋三よりも大きなマスクをしているのだから、作ったところで罰せられることはないだろうが、そんなことよりも、作ろうだなんてことは思ってはいけないのだと美樹は思ったのだった。その時、美樹が思い浮かべていたのは、安倍晋三の顔ではなく、大学入学のために上京し、バイト先で知り合い、すぐに付き合い出した隆史のことだった。
 二人はとても仲が良かった。周囲の誰もが美樹は隆史と結婚するものだと思っていた。美樹自身もそう思っていたのだが、付き合い始めて七年ほど、働き始めて三年ほどしたある日、二人の気持ちは離れた。大きなきっかけがあったわけではない。その日、ひどい風邪を引いていた美樹は、マスクをしていた。マスクをしたまま隆史の心ない言葉を聞き、美樹は美樹で心にもない言葉を返して、二人の関係は終わった。
 美樹は母が送ってきた布を口元に当てたまま、身体の中から力が抜けていくのを感じた。力が抜けていくのを感じながら、美樹は安倍晋三のマスクよりも一回り小さなマスクを縫い始めた。縫い始めた瞬間、美樹は何もかも忘れて、マスクを繕うことに集中した。ものの数分でマスクは出来上がった。
 美樹はしばらく出来上がったマスクを手にしたままじっとしていたのだが、やがて和ばさみを手にすると、糸を切り、マスクをほどき始めた。そして、最初に母が採寸していた通りのサイズで、マスクを縫い直し始めた。(了)