化け物屋敷

植松眞人

 病室を見舞うと、父が周りのナースたちを一瞥したあと、談話室へ行こうと目配せをした。
 まだ、夕方までに時間のある午後。談話室には誰もいない。点滴のパックがぶら下げられた背の高い器具を引きずりながらソファの脇に立った父は、まだ入院して三日目だと言うのに、すっかり手慣れた動きで、ソファの前に回り込んで、座ると言うよりは落ちるようにソファに身体を沈めた。
「調子はどうなの?」
 私がそう聞くと父は、
「調子は悪いやろ。調子がよかったらこんなとこにはおらんやろ」
 と、怒るでもなく笑うでもなく、当たり前のことを当たり前に説明するかのように話す。その醒めた表情は、昨日の夜、ナースを相手に騒ぎを起こした患者には見えない。
 昨日の深夜というよりも今日の明け方、父は巡回に来たナースを相手に騒ぎを起こした。痛み止めの薬のせいで幻覚を見た父が、その幻覚についてナースに説明しようとしたらしい。しかし、ナースは聞く耳を持たなかった。
「あいつらは、僕を子ども扱いしとるんや」
 と憤る父だが、多くの患者を相手にするナースにとっては、父も数多い患者のひとりに過ぎないということはよく理解できる。ただ、この病院のナースは、父でなくても思わず首をひねってしまうような言動を患者やその家族に投げかけたりしてしまう。それが病院の方針なのかナース個人の資質なのか、まだ入院して日が浅いので計れないところがある。
 例えば、夜に病室を訪れると、あるナースが私に、
「今日は泊まっていかれますか」
 と聞いて来たりする。
「いえ、泊まりません。というか、完全看護の病院ですよね」
 と私が問いかけると、そうですか、と私の問いには答えずに立ち去ってしまったりする。そんなやり取りが日に幾度かあり、私自身はなんとなくではあるが、この病院に対して、不信感のようなものを抱きはじめていた。そこへ来て、昨日の夕方の主治医からの話だ。
 話がある、というので主治医と一緒にナースステーションの脇にある小さな部屋へ出向いた。主治医はいかにも時間がない、というようにチラリと時計に目をやってから、「どうぞ」と私に着席を促した。まだ三十代の真ん中くらいだろうか。どうしても、この若造がと思ってしまう。
 その若造が、ポケットからメモ用紙を取り出して、真ん中に画を描き始める。それが父の病気を説明するための画であることはすぐに理解できた。それにしても、下手な画を描くものだ。胃から大腸への流れを描いているのだが、どう見てもすき焼きの鍋の中で豆腐とシラタキが絡み合っているようにしか見えない。
 主治医はその画を描くと、なんども話を行きつ戻りつさえながら、つまりは、余命半年だと思っていた病状だが、どうも今日明日もわからないほど切迫したものだった、ということを私に伝えたのだった。
「年齢が年齢なので、誤診とかなんとか言うつもりはありませんが、最初にわからなかったものなんでしょうか」
 私がそう聞くと、主治医はメモ紙の端っこを折ったり伸ばしたりしながら、胃カメラを飲んで初めてわかるものなので、決して誤診ではない、という部分だけを強調した。
「放射線治療をするにしても、痛みを抑えてからでないと無理だと思われます。そのために、痛み止めをもう少し増やしてもいいかと思うのですが」
「その判断は素人の私にはできないので、お任せします」
 私がそう言うと、主治医は深くうなずいて、では最善を尽くします、と返事をして立ち上がった。その時、私は父には放射線治療の道も残されていないのだと察したのだった。
 いま目の前にいる父は、まだ今飲んでいる痛み止めさえ効けば、治療が始まると思っている。しかし、そのことはもう話さなくてもいいだろうと私は考えていた。後は父の体力次第だろうと私は妙に開き直った気持ちだった。
「なあ、言うとくけどな」
 父は話し始めた。
「ここは化け物屋敷やぞ」
 少し声を落としてそう言った父は、辺りを見回した。
「とにかく、ここはまともやない。夜中になると三つ目の女が現れる」
「三つ目の女?」
「そう。三つ目の女や」
 父はソファから身を乗り出すと、なるべく私に身体を近づけて、声を落とした。
「夜中に病室のドアが開いて、髪の毛の長い女が入ってくるんや。そんでな、こっちをじっと見ながら笑うとるんや。じっと見られてたら目そらされへんがな。ちゃうか」
「そうやな」
「そうやろ。じっと見とるんやからな。目そらされへんがな。そやから、こっちもじっと見てるとな、おでこのところに、タテに切れ目が出来て、三つ目の目玉が出てくるんや」
「怖いなあ」
「怖いやろ。そやから、このことを看護婦に話ししたったんや。そやのに、はあ、そうですか、でしまいや。あいつら、僕を子ども扱いしとるんや」
「いやまあ、そういうわけやないやろけど」
「いや、そうに違いない。あ、それか…」
「それか、なんや」
「ほんまは、みんな知っとるんや。知っとるけど、病院の評判が悪なったら困ると思て、知らん顔してるんとちゃうか」
「そうかも知れへんなあ」
「よっしゃ、そしたら、お前な。お父ちゃんがいろいろ見といて記録しとくから、後で市の広報誌かなにかに投書してくれ」
 その考えが、よほどの解決策に思えたのか、父はこれ以上ないというくらいに笑みを浮かべて、ナースステーションのほうをうかがうのであった。そして、ここまで話すと、父は急に無口になり、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 普段から父とはほとんど会話のなかった私は、それが三つ目の女の話でも、少し嬉しかった。そして、こんなことでしか話せない父と私との関係をとても不思議に思ってしまうのであった。
 父に何か声をかけたほうがいいのかもしれない。そう思って私は父のほうを見た。すると、父は私の背後をじっと凝視しているのであった。いったい何がいるというのか。私も自分の背後を振り返った。すると、父は人差し指を唇に当て、シーッと言う。
「来てるの?」
 私がそう聞くと、父は満足そうな表情で、何度も小さくうなずく。
「大丈夫やって。僕が怒っておくから」
 私はそう言うと、後ろを振り返ると、言った。
「親父がゆっくりできへんから、もう来んとってくれるか」
 すると、父の視界から三つ目の女が姿を消したようだ。父は満足したようにしばらく三つ目の女が立っていた辺りをぼんやり見ていたが、やがて立ち上がった。私は慌てて父の脇に立つと、軽く父を支え病室へと付き添ったのだった。
 後から来た母に、父の様子を伝えると、痛み止めを使い始めてすぐに幻覚が出たという。しかし、いくら痛みが治まっても、ナースに食ってかかるほどの幻覚が出るのでは本末転倒ではないか。そう思った私はナースステーションへ行き、父を担当してくれている年かさのナースに声をかけた。
「痛み止めが強すぎるということはないでしょうか」
 私が聞くと、ナースは少し戸惑ったように答える。
「いえ、他のみなさんと同じ量なので、おひとりだけ強い幻覚が出るとは思えないんですけどねえ」
「でも、幻覚がかなり強いですよね」
 私がそう言うと、ナースは小さくため息をつきながら続ける。
「あれは、痴呆が始まっているんじゃないかなあと思うんです」
「痴呆ですか?」
 意外な言葉に私が少し大きな声で答えると、ナースはその声を抑えるかのように、今度は間を開けずに話し始める。
「ええ、お父様、もっと穏やかな方だったんじゃないかと思うんですよ。それが、昨日辺りから私たちにも食ってかかるようになって」
「なるほど…」
 そう返事をしながらも私は、痴呆ではない、という核心があった。もともと父は穏やかな性格ではない。神経質で、何かあるとすぐに母に当たってしまう気の弱い人だった。そんな父を見るのが嫌で実家を出たのだから間違いはない。この看護婦は父の何も見てないのだと私は思った。もちろん、そこまで期待していたわけでもないのだが、痴呆のせいにする姿勢には、はっきりと怒りを感じた。それに痴呆による幻覚なら、もっと漠然とした部分があるのではないかと思う。あんなにハッキリと自分が見たものについて、切々と訴えているのは、ただ見てしまった幻覚をきちんと伝えようとしているだけだと私には思えたのだった。

 その日からちょうど十日で父は逝った。途中で緩和ケアを主とする病院へ転院してから一週間目のことだった。この病院の主治医も、父の余命を一ヵ月から二ヵ月と見積もっていのだが、終わりは思いの外早かった。
 結局、最後までうまく話せない親子だったが、仕事の合間にわずかな時間だが父と一緒の時間を持つことも出来た。死に目には会えなかったが、亡くなってすぐに駆けつけることは出来た。
 もっと話せばよかったという気持ちはあるが心残りと言うほどでもない。
 それよりも、最後に聞いてみたかったことがある。何度も聞こうとして、聞けなかったことがある。
「もう、三つ目の女は出てけえへんか」
 そう素直に聞けばよかった。