犬の名を呼ぶ(7)

植松眞人

 幼稚園から帰ると、ときどき聡子は犬の背中に顔をうずめる。そして、自分の息をひそめて耳をすませている。ブリオッシュはまるでそうされている意味を理解しているかのように、じっと身動ぎせずにいる。
 その様子を見ると高原は、いつも聡子という子の優しさに不憫なものを感じてしまうのだった。いつか聡子が言った、
「おじいちゃんとブリオッシュは、どっちが長生きするの」
 という言葉にも、この子の生きるということに対する畏れのようなものを感じてしまうのだった。
「なにか聞こえるのか」
 高原が聞くと、聡子はシーッと人差し指を立てる。そして、どう説明すればいいのだろう、という顔をした後で聡子は答える。
「何も聞こえないよ」
「何も聞こえないのか」
「うん、何も聞こえないのよ」
「それじゃ、何を聞いているんだ」
「歌」
「歌?」
「そう、聡子がブリオッシュの背中に向かって歌うでしょ。そうすると、歌がブリオッシュの身体の中に響いていって、もう一回返ってくるの」
 どうやら聡子は本当に小さな声で、ブリオッシュの背中に耳をつけながら歌っているらしい。聡子の声はブリオッシュを温かな共鳴板にして、再び聡子の耳へと返ってくる。聡子がブリオッシュの身体の音を聞き取ろうとしているのだと思っていた高原は驚いた。
「聡子の歌はどんなふうに聞こえるのかな」
 高原が聞くと、聡子は少し恥ずかしそうな顔をして答える。
「普通に歌っているよりもちょっとうまくなったみたいに聞こえるの。でも、あんまり大きな声で歌うと、私の声が大きすぎてブリオッシュの身体から返ってくる声が聞こえなくなるの。だからって、小さすぎると何聞こえなくなるから難しいんだ」
 聡子がそう言い終わった瞬間に玄関のチャイムが鳴って、菜穂子がやってきた。そして、いつものように菜穂子と聡子は、高原たちと一緒に夕食をとると自分たちのマンションに帰っていった。
 高原は部屋の隅にうずくまっているブリオッシュをぼんやりと眺めている。その背中を眺めているうちに高原は聡子と同じように歌を聴いてみたいと思うのだった。
 立ち上がり、少しずつブリオッシュに近付いていく。気配を察して、ブリオッシュは背中越しに高原を振り返る。別に気にしていないふりをして高原は立ち止まる。ブリオッシュがまたゆっくりと前脚と前脚の間にあごをつけ、目を閉じると、高原は再び歩みを進める。そして、丸めた背中の曲線に沿うように、自分の身体を並べてみる。輝くような毛並みが息遣いと共にゆっくりと揺れている。
 高原は聡子がしていたように、ブリオッシュの背中に顔を埋めてみる。聡子よりも高原の顔がごつごつしているからだろう。ブリオッシュの背中がビクッと波打つ。高原自身も少し緊張して動きを止める。やがて、たがいが落ち着き、たがいを受け入れるかのように、静かな時間がやってくる。本当の静かさは音のない世界ではなく、小さな小さな音を聞き取れる世界なんだということを思い知らされる。
 高原は輝く毛並みに鼻先をくすぐられながら、耳を背中につけてみる。かさかさという音が静まると、高原にはブリオッシュの鼓動のようなものが聞こえた気がした。その鼓動もそのままじっとしていると聞こえなくなった。
 高原は聡子のように歌を聞きたいと思う。しかし、そのためには高原がブリオッシュの背中に歌ってみせなくてはならない。高原は困ってしまう。この歳になるまで、歌など歌ったことがない。いつの間にか当たり前のようになったカラオケというものに興じたこともない。
 何を歌えばいいのだろう。ブリオッシュの鼓動に合わせて、小さくリズムを取りながら高原は自分が歌える歌がないのかと、頭の中をたぐっている。
 やがて、高原は自分に歌えそうな歌などないことに気付く。そして、仕方なくブリオッシュの背中に耳を付けたままじっと耳をすませる。すると、何かがかすかに聞こえた気がした。それはブリオッシュの鼓動ではなく、高原の遠い記憶の歌でもなかった。もちろん、ブリオッシュの毛並みがこすれ合う音でもない。
 聡子の歌だ、と高原は思う。
 ブリオッシュに聡子が聞かせた歌が、いま高原の耳に届けられた。そう思えて仕方がなかった。