犬の名を呼ぶ(3)

植松眞人

散歩に出かけようとして、ドアを開けた瞬間だった。ブリオッシュが駆けた。ずっと以前から、いつか逃げ出してやろうと虎視眈々と狙っていた、という感じではない。ただ、ドアの隙間が自分の通り抜lけられるぎりぎりの広さになった時にまるでスイッチが入ったかのように駆け出してしまった。そんなふうに、ブリオッシュは高原の目の前から消えた。

いつもなら、きちんとリードを付けて、スニーカーを履き、糞の始末をするための道具を入れた小さなショルダーバッグを持ってから、ドアを開けているのに。なぜ、今日に限って半年間も毎日行っている手順の通りにしなかったのだろう。

ブリオッシュが逃げ出したことよりも、そのことの方が気になり高原はしばらくの間立ち尽くしていた。天気が気になってドアを開けたのだったか、何かの物音を確かめようとしたのだったか。なんにせよ、いつもと違う手順のせいで高原はブリオッシュを見失っている。

すぐに後を追いかける気にもなれず、高原は玄関のあがりかまちに腰掛けて小さく息をついた。どこを探せばブリオッシュに会えるのだろう。とにかくいつもの散歩道をたどってみようと高原は思った。あれだけ大きな犬なのだから、すぐに見つかるはずだと思い、そのすぐ後から大きい犬が町をうろつく姿を思った。

この家に連れて来られた時には、まだ小さな子犬だったゴールデンレトリバーも半年ですっかり大きくなった。年々、体力の衰えを肌で感じている自分への当て付けかと思うほどに、すくすくという音が本当に聞こえそうなほどに、順調に育った。大きさだけなら、もう立派な成犬だ。しかし、その内にはまだ未成熟な甘えがあり、道行く見知らぬ人にも唐突にじゃれついたりすることがあった。そんな情景を思い浮かべた途端、高原は立ち上がった。世の中は犬が好きな人ばかりじゃない。そんな人にあんな大きな犬がじゃれついたら騒動が起こってしまう。もしかしたら、驚いて怪我でもさせたら大変だ。

高原はドアを開けて外に出た。いつもの散歩道をいつもよりも、ほんの少しだけ速く歩いた。歩き始めてすぐに、高原の息は切れた。息が切れて初めて、高原は、自分がブリオッシュの速さで毎日歩かされていたのだということに気付いて苦く笑う。

「うちはマンションだから飼えないんだけど、私も聡子もこの子が気に入っちゃって」
と、無責任きわまりない言い訳をしながら、まだヨタヨタとしか歩けないゴールデンレトリバーの仔犬を、娘がこの家に持ち込んだ日のことを高原は思い出していた。

金魚さえ飼ったことのない俺に犬なんて飼えるか!という一言が可愛い孫娘の前では出てこない。こちらが黙っているのをいいことに、娘は亭主への愚痴と、犬を飼うためのあれやこれや一式を残して、あっと言う間に帰っていった。可愛い孫娘は車の助手席の窓を開けて、「おじいちゃん、元気でね」とでも言うのかと思っていたら「ブリオッシュをいじめないでね」と念押しする始末。

「ブリオッシュ…」

高原はほとんど初めてブリオッシュの名前をまともに呼んでみた。それでも恥ずかしくて大きな声では呼べない。何度も何度も小さな声で「ブリオッシュ、ブリオッシュ」と繰り返しながら歩く。ブリオッシュとならすぐにたどり着くはずの小さな公園がやっと今頃になって目に入ってきた。少し小高くなった公園へのほんの数段しかない階段を、手すりをたぐるように上がる。一人で歩いてみて初めて、ここまでの道のりが案外遠かったのだと気付く。本当に小さな公園だがその真ん中に一人で立って見ると、いつもより広く感じられる。

公園には二人がけのベンチがぽつんと置いてあり、他には水飲み場があるだけだ。時折、ブリオッシュにここで水を飲ませたりしていた。そんなことを思いながら、高原は勢いよく水を出して顔を洗った。最初は生ぬるかった水が少し冷たくなり、それを口に含んでみる。濡れた顔を拭こうとポケットのハンカチを探すが見つからない。水滴が頬を伝う。高原はその水滴を払うために首を左右に振ってみた。まるで、ブリオッシュのように首を振ってみると、ほんの一瞬、犬の喜びのようなものを感じられた気がした。自分で起こした風が気持ちよかった。ブリオッシュになった気持ちで公園の真ん中で足を踏ん張り、これから行く道を見すえた。公園の向こうは二手に別れていて、いつも行く道が右側に伸びていく。もう一方の道は左へぐいっと逸れている。

高原は思った。きっと今日、ブリオッシュはいつもとは違う左側の道を選んだのだろう、と。そして、この道をたどりもう少しだけ歩けば、きっとブリオッシュがいて俺の方をすまなさそうな顔をして見ているのだろう、と。もし、本当にそうなったら、俺はその犬の名をいつもよりも大きな声で呼んでやろう。高原はそう思いながら公園を出て左側の道へと歩き出した。