ねえ、私に話しかけないで。

植松眞人

 いまどき、こんなアパートがあるのか。訪ねてくる知り合いが口裏を合わせたかのようにそう言うのが面白い。確かに、柴多が住んでいるアパートは普通ではない。築五十年は越えている料亭をそのままアパートに仕立てている。引き戸の玄関があり、廊下がまっすぐに続いていて、その両側に部屋がある。一階に四室、二階に八室。部屋はどれも六畳一間で、全部の部屋に床の間があり、窓は丸く、凝った飾りのある障子がはめてある。料亭だった頃のまま、看板だけをアパートに掛け替えたようだ。そのせいで、便所も台所も共同なのだがやたらと広い。ただ、全体的な印象はアパートというより下宿や寮に近い。
 とはいうものの、さすがに大学に入学したばかりの学生でさえ、ワンルームマンションで一人暮らしを謳歌している時代に、このアパートで暮らそうという物好きはあまりいない。五年前に柴多がここに住みだした時には若いのがやってきたと、わざわざ二階のいちばん奥の部屋まで、当時住んでいた住人たちが代わる代わる様子を見に来た。それもすぐに落ち着いて、声高に騒ぐでもなく、誰かが部屋に上がり込んでくるわけでもなく、時々すれ違う住人たちとはそれとなく挨拶する程度で、みんながそれなりに気を遣いながら静かに生きている。
 柴多は今年三十になる。五年前、ここに来たときには勤めた会社を辞めたばかりで、次の仕事も決まっていなかった。とにかく家賃の安い部屋を、と不動産屋に頼み込んでここを紹介してもらったのだった。最初の二年、生活はかなり困窮を極めた。仕事もなかなか決まらず、付き合っていた女とも別れた。場当たり的なバイトをしながら食いつなぎ、柴多はなんとか暮らしていた。
 その頃から考えると、明日の食い扶持に思いを巡らすことのない今の暮らしは夢のようだ。夢も希望もなかった、なんて陳腐な言葉は使いたくないが、夢とか希望とかいう言葉が目の前をちらつくときほど、その言葉から遠のいているのだということは毎日感じていた。そんな柴多の暮らし向きが変化してきたのは三年前だった。
 いま勤めている小さな貿易会社の社長と偶然知り合って仕事を得たのが三年前。おかげで柴多の暮らしはすっかり安定した。仕事で収入が安定しただけではなく、何かといいことが続く。長い間患っていた父親の病気が完治とはいかないまでも、少しずつ良くなった。妹の結婚が決まった。同じ時期に柴多自身にも恋人ができた。拾ってくれた貿易会社の社長からも信頼され役職を任されるようになった。
 それもこれも、と柴多は思う。毎日のように部屋にやってくる猫のおかげだと。もちろん、最初からそんなふうに思っていたわけではない。ただ、そう思わざるを得ないほど、柴多の運気と猫の登場のタイミングが合致しているのだった。
 社長と知り合った日、柴多は駅前の居酒屋で皿洗いのバイトをしていた。休憩時間に店の裏手の路地で煙草を吸っていたのだが、そこにその猫はいた。柴多が煙草を吸う様子をじっと見ながら、腰を落ち着け、毛繕いをしていたのだった。その場所では何匹かの猫を見ていたのだが、新顔だった。それまで見たことのない猫だったのだが、向こうの方がこっちを品定めするかのような雰囲気を醸し出していた。柴多は小憎たらしい気持ちになり、猫に煙草の煙を吹きかける真似をした。すると、猫は笑ったのである。いや、本当のところはわからないのだが、柴多にはそう見えたのである。その余裕のある笑いは柴多を嫌な気にさせるものではなかった。むしろ、なんとかなるから安心しろと言われているような気持ちにさせた。
 不思議な猫だなあ。と思った瞬間に、裏通りに迷い込んできた男に道を聞かれ、「そこで働いている者ですが」と名乗り、入り口まで案内しただけなのだが、なぜか気に入られた。それが今の会社の社長だ。どこが気に入られたのかわからないまま、翌日には入社が決まっていた。
 バイト先の居酒屋をやめる話も、社長の席に注文を聞きに行った店長との間で勝手に決まっていた。席から戻った店長が「お座敷のお客さま!お通し四つ!生ビール三つ!ウーロンハイ一つ!」と大きな声で厨房に発注した後、柴田に向かって小さな声で言った。
「バイトの柴多くん、お一つお持ち帰り!」
 これで円満に退職と転職が決まったのだ。

 貿易会社といっても、見ただけでは何に使うのかも分からないような部品を、毎日アジアのどこかの国へ輸出し、同じように何に使うのか分からないような部品を同じようにアジアの国から輸入している会社だった。何から何までが地味で、仕事の流れの中の、どこにもとがった部分がなく、その穏やかさが柴多にとっては好ましく、毎日が落ち着いた空気に包まれいていた。安心して仕事に取り組めるようになると、ただ寝泊まりするだけの場所だった自分の部屋も、なんとなく暮らす場所として見えはじめてきて、一日に一度は窓を開け、時には簡単な料理を作ってみたりもした。
 ある日曜日に部屋でぼんやりしていると、隣の住人が田舎から送ってきた里芋をお裾分けしてくれた。柴多はその里芋をさっそく煮物にした。出来合いのだし汁で煮込んだだけなのだが、いい香りがアパート中に立ちこめた。隣人にも少しお返しして、自分の部屋で味見をする。うまい、と小さく声に出した時に、窓の向こうで猫がこちらを見ていることに気付いた。あの日、居酒屋の裏手で柴多を見て笑った猫だった。猫はアパートの隣の家の屋根の上から、柴多の部屋を見下ろしていた。目があった途端にスタスタと屋根の上を歩いて、身軽に柴多の部屋の窓に向かって跳んだ。里芋をくわえたまま柴多が見ていると、猫は部屋の中に入り込み、里芋の皿の匂いをかいで、そのまま小さな床の間に座った。
 そして、猫は三年間、ずっと柴多の部屋に居着いたのだった。ときどき、ふらりと何処かへ行き、またふらりと戻ってきた。二三日いないことがあるかと思うと、何日も床の間で寝ているということもあった。猫は床の間をねぐらに決め込んだのだった。
 柴多は柴多で、この猫がなぜ自分のところへやってきたのか最初の数日こそ不思議に思っていたのだが、やがて慣れてしまい、そんなことも考えなくなった。柴多が何かを食べていれば、近づいてきて食べている何かを少しだけ分け与えた。どんな食べ物でも猫は、とりあえずひとくちは食べた。そのあたりは礼儀をわきまえた猫だ、と柴多は思った。食わず嫌いということをしない。もちろん、ひとくち食べて、露骨に顔をしかめることはあった。また、もうひとくちとねだることもあった。しかし、柴多と猫との関係はその程度のもので、互いにそれほど干渉することなく、距離を置いて暮らしてきた。
 しかし、猫が来てからの三年間で確実に柴多の暮らしは変化した。最初の出会いはいまの仕事に結びつき、猫が床の間に座ってからは父親の持病が快方に向かった。そういえば、あの時にも猫はにやりと笑ったのだった。
 携帯電話に妹からの電話があり、父親の容態が思わしくないと連絡が入った。しばらく妹と話し込んで、実家の様子などを詳しく聞き出していた。そうしながら、何気なく床の間を見ると、猫がこっちを見て笑ったのだ。にやりと訳知り顔で。その笑い方は路地裏で初めてあったときと同じものだった。そう気付いたとき、もしかしたらこの猫の笑いは、何かを自分に伝えているのかも知れないと柴多は考えた。今の仕事に就いたことを考えると、いいことを伝える笑いなのかもしれない。いや、もしかするといいことも悪いことも、どちらもあって、今回もいいことだとは限らないのかもしれない。猫の笑い顔を見てしまったことで、柴多は不安になった。もしかしたら、父親が亡くなるかもしれないとさえ考えた。
 結果は翌日に妹から知らされた。柴多の父親は翌日に退院したのだった。心配された数値がことごとく夕べのうちに標準の値になり、父親はベッドに座れるようになり、自分で立ち上がるようになり、翌日には自分で歩いて帰ったというのだ。電話で妹からそんな話を聞きながら、床の間を見ると、猫はふらりと立ち上がり、窓から隣の屋根へと飛び移っていくのだった。
 数日が経った。猫が戻ってきたとき、柴多は思いきって、いつもより猫との距離を詰めてみた。いつもは一メートル以上は近づかない距離感なのだが、ごろりと寝転がりながらその間合いを半分程度に詰めてみた。すると、猫は怪訝な顔をする。しかし、露骨にそんな顔を向けるのではなく、窓のほうを見ながらすべての神経は柴多に向けられているという感じだった。
「きみはあれか。なにか、わかってるのか?」
 柴多は猫にたずねてみた。
「いや」
 と猫が答えた。
 そうか、やはり偶然なのか、と柴多は思った。それはそうだ。猫が笑う度に何かが起こるとしたら、その猫は予言者か、見事な占い師か、下手をすると神様かということになる。なるほど、そうではないのか。単なる偶然なのか。柴多はこれまでの出来事が偶然なのだということに気を取られ、なぜか安堵していて、猫が「いや」と答えたことに愕然としたのは、それから数日してからのことだった。
 数日後の朝。柴多がいつものように会社に出かけるために、身なりを整えていた。時計代わりにつけているテレビの情報番組が終わりに近づいて、今日の占いのコーナーが始まった。このコーナーが終わったタイミングで部屋を出れば、ちょうどいい時間に会社に到着する。
 占いコーナーは星座によるもので、なぜか毎回ランクが決められている。占いなんて信じない柴多だが、いいことを言われても悪いことを言われても気になることには違いない。上着を羽織りながら、目の端でぼんやりと画面を見ている。今日の柴多の星座はちょうど真ん中ぐらい。占いによると、どうやら異性の友人ができるらしい。そして、その異性の友人が生涯付き合いの続く運命の人になる可能性があるらしい。
「そんなに簡単に運命の人に出会えるもんじゃないって」
 柴多がテレビの画面に向かって思わずつぶやくと、「いやあ、どうかな」と相づちが返ってきた。テレビの中からの声ではない。部屋の中には柴多しかいない。反射的に床の間を見る。猫が寝そべりながらこっちを見ていて、とっさに視線を外す。柴多はしばらく猫をじっと見ているが、猫は動かない。柴多は猫を見つめながら、さっきの声を思い出そうとした。その時、数日前の声を思い出したのだ。あの時、猫は「いや」と返事をしたのだ。ということは今の相づちもきっとこの猫の声に違いない。しかし、不思議なことに柴多は猫が話したということよりも、数日前の猫の返事に今頃気付いたことの方に驚いていた。おそらく、猫が話すことには違和感がなかったのだ。どんな生き物にだって、それなりにちゃんと感情はあるのだろう。柴多にもそれくらいの人道主義的なヒューマニズムはあり、すべての世界にそれを当てはめてみるくらいのユーモアだって持ち合わせていた。
 もちろん、予想通り柴多はその日の内に取引先の事務員をしている若くてかわいい女性と、ハンカチを落としましたよ的な展開でお茶を飲み、話が弾み、次の休日に一緒に映画を見に行くことが決まった。
 それからも、何かの節目に猫は話した。ただの相づちのこともあれば、それなりに文章を話すこともあった。しかし、いつもそれは見事な不意打ちで、柴多が身構えている時には決して話さなかった。列車の窓からいつも気になる造りの家があるのに、いつもその家が通り過ぎてから「あ、見ておけば良かった」と思う、あの感じだ。半年に一度のこともあれば、二日連続で話すこともあった。いずれにしても、柴多がうかっとしてる時にしか、猫は話さないのだ。
 初めてあった日から猫は何度話しただろうかと柴多は思い返していた。五回か。いや、もう少し多かったと思う。それでも十回には達していないはずだ。その数少ない猫の声が確実に柴多の人生の重要なポイントになんらかの影響を与えている。「結婚したら駅前の新しいマンションを買って、そこに住みましょうよ」という彼女の言葉にどうしようか迷っているときに、「それもいいね」と決断をうながしたのも猫の声だった。
 柴多は悩んでいた。来月からその新しいマンションに柴多が先に移り住み、三ヵ月後の結婚に備えておくことになったのだ。そこに、この猫を連れて行くかどうか。彼女は猫と顔を合わせたことがない。何度かこの部屋に彼女を連れてきたことはあるのだが、そのたびに猫はいなかった。気を利かせているのか、それとも女が嫌いなのか。決して、彼女がいる間は部屋に戻ることもなかった。
 かわいらしい猫ではない。野良猫そのものの顔をしているし、そこが柴多は気に入っているのだが、絶対に懐こうとはしない。エサだってどこかで勝手に食べてきている様子で食べ物をねだったこともない。そんな猫を彼女が好きなることはないだろうと、柴多は思った。
 そう思いながら、改めて猫を眺めていると、珍しく猫は柴多をじっと見つめている。そして、おそらく出会ってからの三年間で初めてだと思うのだが、自分の方から柴多に近づいてきたのだ。
 柴多は何気ない表情で言ってみる。
「今日は何か話してくれるのかな」
 猫は小さく鼻で笑う。鼻で笑われたことに柴多は同じように笑ってしまうのだが、猫は動揺することもなく、柴多の真正面ですっと座る。
「ねえ、私に話しかけないで」
 猫は確かにそう言ったのだ。しかも、それは今まで聞いてきた猫の声とは違う声だった。
「私はこの部屋のこの床の間が好きだっただけで、あなたのことは何とも思っていないのよ。だからね。あなたがここを出ていっても、私はここにいるし、次にやってくる人とだって、それなりにやっていくんだから」
 猫に言われて返す言葉がなかった。唯一疑問として頭に浮かんだことを聞いてみた。
「ということは、きみは僕が引っ越してくる前からこの部屋に居着いていたってこと?」
「そう」
「じゃ、居酒屋の裏口で初めてあったのは偶然?」
「あなたが危ないヤツかどうか、どんな仕事をしているのか。そのくらいは調べるものなのよ。野良猫は疑り深いの」
「ところで、きみは女の子なの?」
 柴多が聞くと、猫はくるりときびすを返して床の間に戻っていく。そして、再び床の間に座ると、小さくニャンと鳴く。
「そんなこともわからないで、気安く話しかけるんじゃないわよ」
 猫はそういうと、だんまりを決め込んだ。柴多は彼女と暮らす駅前のマンションのことを思った。