『スリ・パモソ』作品と復曲の背景

冨岡三智

このエッセイを書いている今日(10/31)、 オンラインイベントで舞踊『スリ・パモソ』の再演を見た。正直なところ、作品調査や解釈が足りないと感じた。この作品は2003年に復曲されたものだが、実は私はその調査の最初の段階から知っていて、しかもその再演公演の後に出資して曲も録音している。さらに、私自身も数度、日本で生演奏で上演している。それなのに、この作品についてまとまった文を書いていなかったことに、今さらながら気がついた。というわけで、今回はこの作品を紹介したい。

舞踊作品『スリ・パモソ Sri Pamoso』が復曲上演されたのは、2003年2月1日(1月31日リハーサル)、ジョコ・トゥトゥコ氏(以下ジョコ氏)のインドネシア国立芸術大学スラカルタ校大学院修了制作公演においてである。彼自身は踊らず、古い作品の調査・復曲、新しい振付、それらを含む公演制作を手掛けた。このリハーサル映像を私はジョコ氏の許可を得てyoutubeに公開しているので、あわせて見てもらえると幸いである(https://www.youtube.com/watch?v=tYsC_yH88BA&t=2400s 17:10過ぎ~)。なお、『水牛』先月号に寄稿したように、ジョコ氏はこの9月28日に急逝した。

まず、この公演全体については『水牛』2003年3月号~4月号で書いている。以下は4月号の記事「ジャワでの舞踊公演(2)」の抜粋。なお、3がJ作となっているが、このJがジョコ氏のこと。私はこのジョコ氏の作品に出演していた。

 公演プログラム

1「ルトノ・パムディヨ」(Retna Pamudya)  クスモケソウォ作(完全版)
2「スリ・パモソ」 (Sri Pamoso)   クスモケソウォ作(復曲)
3「ダルマニン・シウィ」(Dharmaning Siwi) J作

1は女性戦士・スリカンディが敵のビスモを倒すまでを描いた女性単独舞踊である。1954年に中国への芸術使節(misi kesenian)の演目として作られ、J女史が初演した。その後はスラカルタ舞踊の基本的な演目として一般に定着している。…中略…

2は1969年頃の作品で、廃れていたものを今回復曲させた。クスモケソウォの弟子が海外で踊るため男性単独舞踊の作品を師に依頼してできたものである。今回は舞踊譜を保存していたクスモケソウォの弟子・S.T氏によって上演された。
1と2の演目は両者とも単独舞踊であり、海外公演のために作られたことが共通する。これは海外では1人で踊らざるを得ないことが多いが、本来の宮廷舞踊の演目では男女を問わず単独舞踊は存在しないためである。また両者ともコンドマニュロ(Ldr.Kandhamanyura)を伴奏曲としていることが興味深い。多分クスモケソウォが舞踊を通して表現したいものを一番表現できた曲だったのではなかろうかと思う。

『スリ・パモソ』は男性優形の単独舞踊で、宮廷舞踊の動きだけを使って作られた舞踊作品である。「コンドマニュロ」というスレンドロ音階マニュロ調の曲を使う。「コンドマニュロ」には普通の演奏方法以外に、ブダヤンという斉唱を伴う演奏方法がある。後者は宮廷女性舞踊用の演奏方法である。上の公演では『スリ・パモソ』はブダヤンで上演された。それはクスモケソウォの意図ではなく、同じ曲で伴奏する舞踊曲を2曲続けて上演するという大胆な公演構成の中で変化をつけるためである。

復曲の経緯だが、これはジョコ氏が公演のテーマとして祖父でスラカルタ宮廷舞踊家のクスモケソウォから自身に至る三代の系譜を表現する上で、祖父の作品を復曲したいという想いがあったからなのだ。スラカルタを代表する舞踊家といえばガリマンとマリディが双璧だが、この2人はクスモケソウォの下の世代で、活躍したのが1970年代以降だから、多くの作品がカセット化されている。一方、クスモケソウォは1972年没で、『ルトノ・パムディヨ』ともう1曲ぐらいしかカセット化されていない。ジョコ氏がクスモケソウォの弟子にインタビューしていく中、スリスティヨ氏(上の『水牛』記事ではS.T氏になっている)が同作品の振付をメモしていたノートを見つけたので、それを元に復曲することにしたのである。

実は、ジョコ氏がクスモケソウォの弟子であるスリスティヨ氏をインタビューするときに私も同行して、その時にその記譜を見せてもらった。しかし、昔の記譜というのは現在の芸大で使っているような動きやフォーメーションを緻密に書いたものではなくて、スカランと呼ばれる動きの名前を書いてあるだけである。それも、1ゴンガンごとに1つのメインのスカラン名しかない。ゴンガンというのはガムラン音楽の周期で、この曲の場合は32拍ある。伝統的な舞踊の場合は動きのつなげ方などに法則や習慣があるから、舞踊を相当知っている人はそこから作品を組み立てていけるのである。

振付記譜を持っていたのはスリスティヨ氏だが、実はこの作品はトゥンジュン・スハルソ氏のために作られた。スハルソ氏は1962年に始まった大型観光舞踊劇『ラーマーヤナ・バレエ』の初代ラーマ王子役の人で、スリスティヨ氏は2代目ラーマ王子役、どちらもクスモケソウォの弟子である。そして、クスモケソウォは初演以来『ラーマーヤナ・バレエ』の総合振付家を務めていた。スハルソ氏は1969年頃から留学のためラーマ役を辞することになり、海外でも踊れるような男性単独舞踊の作品を師匠に作ってもらったのだった。

『スリ・パモソ』の振付は、ガリマン作の『パムンカス』に雰囲気が似ている。どちらも男性優形の単独舞踊で、宮廷舞踊の動きしか使わず、使用する曲が1曲のみである。また、同じ作者による同じ曲を使った『ルトノ・パムディヨ』にも似ている。宮廷舞踊のテーマは究極的には自己との葛藤を経て三昧の境地に達する過程を描くため、振付の流れが似たようなものになるからだ。

戦い――それは内面の葛藤のメタファでもある――のあと座って瞑想するシーンで、合掌する手を徐々に上げながら空を仰ぎ、肘を付け、まるで蓮の花が開くように肘から先を開く動きがある。これは、元にした記譜にはない動きである。というか一連のシーンは単に「semedi(瞑想、三昧)」としか書かれていなかった。実はこの動きは『ラーマーヤナ・バレエ』にあったシーンである。(『ラーマーヤナ・バレエ』は現在でも続いているが、この動きがまだ残っているかどうかは知らない。)実は『ルトノ・パムディヨ』の完全版振付でも『ラーマーヤナ・バレエ』にあったクスモケソウォのオリジナルの祈りの型が使われており(そのことを私はジョコ女史=ジョコ氏の母から教えてもらっていた)、クスモケソウォの作品を考える上で非常に重要な要素だと私は思っている。

その後立ち上がり、マングルンという風に上体がそよぐような動きをする。これは記譜に書かれている。この動きは宮廷女性舞踊に使われる型で、普通は男性舞踊に取り入れられることはない。しかし、クスモケソウォは女性舞踊の方が男性舞踊よりも型が豊富で複雑なものが多いことから、女性舞踊の動きを男性風にして取り入れようとする傾向があったようである。戦いを経て立ち上がりマングルンに至る流れは、女性舞踊の『ルトノ・パムディヨ』とも共通する。

この舞踊作品の中で最も緊張感をはらむのが、戦いの場面(1人で剣を振る)の最後で突然無音になる場面で、その中で剣でしばらく虚空を突いた後、音楽が戻る。実は、舞踊曲が途中で止まって無音になるという演出は、クスモケソウォが活躍した1960年代以前の宮廷舞踊ではありえない。現在ではあまり違和感が感じられないかもしれないが…。あの変更は公演本番の数日前の練習で急に決まり、そのため議論沸騰したことを覚えている。当初はもっと普通の復曲だったのである。ただ、当時なかった演出だとしても、あの緊張感は宮廷舞踊が目指す本質を突き付けてくる…気がする。