1960 年代のインドネシアを視た人

冨岡三智

11月、ベネディクト・アンダーソンの講演、「革命後のジャカルタ-アクセス可能な都市」を聞きに行く。アンダーソン(長い名前なので、失礼ながらこの後は彼と呼ぶことにする)は政治学、東南アジア学の専門家で、あの「想像の共同体」の著者である。タイトルの「革命後」というのはインドネシアが独立した1950年代から1960年代半ばまでの、スカルノ時代を指している。彼は1960年代前半にインドネシアで調査していて、今回の講演は、1960年代の都市ジャカルタが、さまざまな文脈においてアクセスしやすい都市だったことについて語るものだった。

アクセスのしやすさというのは、ジャカルタのメイン通りでさえべチャ(輪タク)や自転車がまだ走っていて、車が少なかったこと、だから今のように都市は暑くなかったこと、今のように高い壁と守衛によって守られた高級住宅コミュニティーは存在せず、主人と召使の居住空間を分ける外と内を分けるエアコンもなかったこと、大統領宮殿で催されるワヤン劇は民衆に開放されていて、政治家も、大学、学校も近づきやすかったこと、売春婦や狂人らも特定地区に閉じ込められていなかったこと、ストリート・カルチャーが生きていたこと、敬語をもたないインドネシア語が日常的に話されていたこと、などを言っている。

現在のメトロポリス・ジャカルタしか知らない私にとっては、信じられない光景だ。けれど60年代のジャカルタを懐かしげに語る彼の口調を聞いていると、私の留学していたソロ(=スラカルタ)の町の、90年代後半の雰囲気とあまり変わらない気もする…。ソロではいまだにべチャが走っている。高い壁で区切られた空間といえば、王宮があるけれど、逆にそれしかない。それに今ではだいぶ崩れてきたとはいえ、王宮より高い建物を建ててはいけないという不文律があったから、市内には高いビルもなかった。ストリート・カルチャーだって生きているから、夜ごはんを食べに屋台に行くと、流しのミュージシャンに出会える…。

この講演に強烈に惹かれたのは、実は1960年代という点にある。いろんな芸術家にインタビューしていても、1960年代の状況というのが一番分かりにくい。それは、1960年代末で政治や世代が大きく断絶しているからなのだ。インドネシアでは、1965年9月30日の事件でスカルノ大統領が失脚し、1968年にスハルトが正式に第2代大統領となるまで政治的混乱が続いた。その間に共産党が非合法化され、大粛清されている。

ソロで活躍する舞踊家には、1940年代後半から1950年代前半の生まれの人が少ない。それ以前の生まれの人達は、現在の芸術学校の基礎を築いたり、スタンダードナンバーの作品を残したりした世代の人々である。そして、芸術大学の教員に多いのは、1950年代後半から1960年代前半の生まれの人たちである。彼らは、1970年代の、スハルト大統領の経済開発政策に伴う伝統芸術復興の気運に乗って、芸術高校から芸術大学に進学し、そのまま芸大教員になったという、恵まれた世代である。そして、両世代の谷間の世代というのは、1960年代にソロで芸術高校を卒業したものの、就職先がなくてジャカルタに出て行った人達が多い世代なのである。そんな谷間の時代の1960年代というのは、どんな雰囲気だったのだろう。そして、そんな谷間の世代が集まったジャカルタが、現在のようにメトロポリスとして発展するのは1970年代以降のことである。

ここで、彼(アンダーソン)のことに話は戻る。彼の講演を聞きたかったのは、そんな1960年代の様子を知っているという以上に、その頃にソロの王宮に入っているからなのだ。そのことで、1つ彼に直接聞いてみたい質問があったのである。彼は当時コーネル大学の大学院生で、1963年にティルトアミジョヨという、コーネル大のインドネシア人留学生と一緒に、ソロの王宮の即位記念日の式典を調査している。ちなみに、このティルトアミジョヨは、バティック作家として有名なイワン・ティルタのことである。ジャワの宮廷舞踊として有名な秘舞「ブドヨ・クタワン」は、この即位記念日のときだけ上演されるのだが、その内容が一般に知られるようになったのは、この調査報告を通してだと言っていい。ついでに言えば、コーネル大学の東南アジアプログラムが出版する雑誌「インドネシア」の第3号(1967年)に、彼とティルトアミジョヨのレポートがそれぞれ掲載されている。

私が王宮の人々にインタビューしていたところによると、1960年代が宮廷舞踊の一番の危機だったという。王宮の女性の踊り手は、かつては幼少から後宮に住み、長じては王の側室になる人が多いのだが、1960年代にはそんな踊り手ももうほとんどおらず、必要な9人の踊り手を揃えるために、年長者が踊ったり、外部から踊りの上手な人を招いたりもしていた。現在ジャカルタで活躍するレトノ・マルティ女史もその1人である。宮廷で最も重要な儀礼舞踊「ブドヨ・クタワン」を踊るのは穢れなき処女でなければならず、花嫁の衣装を着て、花嫁のように額に剃り込みをし鉄漿を施して踊るのだが、鉄漿をしなくなるのも1960年代のことらしい。多くの招待客を迎えて華々しく行われ、宮廷の威信を振りまいている「ブドヨ・クタワン」が1960年代には廃れかけていた、というのも現在となっては信じがたい。

けれど彼も、1960年代のソロの王宮は、メランコリックな気分に満ち満ちていたと言う。「ブドヨ・クタワン」は、いま見ておかねば、いつ廃止になってもおかしくない、という雰囲気だったと言う。人数が足りないため、すでに盛りを過ぎた踊り手が踊り、当時すでに王は王宮には住んでおらず、ジャカルタからやってくるだけになっていた、と語る彼の口調は、ソロの王宮の人々の誰よりも苦悩に満ちていた。現在の王宮の人たちは、再び隆盛した現在の王宮の状況を知っている。けれど彼は、1972年に政治的な理由でインドネシア入国を禁止されて以来、スハルトが退陣する1998年まで彼の地に足を踏み入れることがなかった。彼の記憶は、1960年代始めの宮廷の空気をそのまま冷凍保存しているように見えた。

私がこのソロのことについて彼に聞いたのは、講演会が終わって懇親会になってからのことなのだが、その語り口を聞いて、彼に思い切って聞いてみて良かった、とつくづく思った。その時代の空気を「彼」がどのように体験したのかということは、いくら彼の文を読んでみても分からない。論文とか調査レポートというのは、そんな「私」を入れ込まずに客観的に書かれてしまうからなのだ。

また、彼はきれいなインドネシア語で話してくれたのだが(私が英語でなくてインドネシア語で話して良いかと断ったもので…)、その話す姿には、思わず「バパッ(インドネシア語/ジャワ語で年長の男性に用いる尊称)」と呼びかけたくなる何かが彼にはあった。谷間の世代以前の、私の舞踊の師のジョコ女史なんかが持っていたような佇まいに似ている。70年代より以前の時代を知っている人の佇まい、なのかも知れない。