夢での対話

冨岡三智

亡くなった人が夢に出てくるのは、今までだいたいお盆やお彼岸頃、あるいは何かの前ぶれだったのだが、昨年の冬至に続けて父と妹の夢を見た。父の夢を見るのは初めてで、妹の夢も5年ぶりくらいだが、冬至に亡き人の夢を見るのは初めてだ。冬至は陰極極まって陽に転じる日で、一陽来復とも言う。これらの夢は私に陽に転じよというメッセージなのかも知れない。

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父は昨年1月に亡くなったのだが、余り長患いもせず、また父の仲の良かった友達(悪ガキ3人組)も前後して亡くなったので、あの世で楽しくやって、私の夢にはきっと出てこないだろうと思っていた。夢の中で、私は父の蔵書を処分しようと家の表でまとめている。町内会の人が、近所で付け火が続いているから気をつけてと言いに来る。すると急に父が現れて、危ないから早くごみ処分場に運んだらどうや、と言う。父は鼠男と母に言われるくらい物をためこむ人だったのに、夢では正反対の性格なのが可笑しい。父が一足先に陽に転じたのかもしれない。

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妹は15年前に私が最初の留学から帰国後に亡くなっているが、ときどき夢に出てくる。長くなるけど全部紹介しておきたい。妹は8月に亡くなり、次の春のお彼岸に出てきたのが初めてだ。夢の中で、私は以前住んでいた家で母の鏡台に向かっている。幼い妹と私はよくこの鏡台の前で遊んだものだ。鏡に妹が映って、私は「帰ってきてくれたんやね」と声をかける。妹は無表情で無言。

14年前、初盆かその後のお彼岸頃に見た夢。妹は顔も全身も包帯でミイラみたいにぐるぐる巻きになって目だけが出ている状態で、病院の窓から外を無言で眺めている。私は妹を救い出そうと、そこに向かっているところで映像が切れる。

13年前、私は河合隼雄の『明恵 夢を生きる』1冊を手荷物に入れてインドネシアに再留学する。妹のことでいろいろと後悔することがあって、私は毎晩毎晩この本を読み返した。石化していたものが生きた姿に還るというテーマは、古来から多くの神話や昔話に生じてきたことだと言う。私もミイラの活性化に向き合わなくてはならないのだろう。そして、ミイラを救い出そうとしている私は、逆に、救いを求めていたのかもしれない。

11、2年前の夢。開店前のイタリアン・レストランで、妹が店内の掃除をしている。太陽光が入る明るい店内に、赤と白のギンガムチェックのテーブルクロス、中央に白いローマ風彫刻。奥から出てきた店のオーナーの顔は…、私のジャワ舞踊の師匠だ!オーナーと妹は楽しく会話しているが、私の存在には気づかない。急にオーナーは私の肩にスーッと指を滑らせ、「ホコリ払っとけよ」と指摘する。妹は「はい」と明るく返事して、私にハタキをかける。どうやら私はこの白い彫刻で、道理で2人とも私に気づいてくれないわけだ。妹が夢で声を出したのはこの時が初めてだ。笑顔だったことといい、未知の人ではなく私のよく知っている人と話していることといい、夢がカラ―だったことといい、私の中の妹が活性化してきている。もっともこの夢では私の方が石像になっていて、妹と対話できるのはもうちょっと先になりそうだ…。

10年前、留学を終えて帰国する(2月)直前の夢。私は大阪のツインビルにいる。その中は巨大な吹き抜けホールになっていて、地上からエスカレーターがはるか高くまで伸びている。それに乗ろうとする人の列が渦巻状に続いてホールを埋め尽くし、その末端に私もいる。ふと見上げると、エスカレーターに妹が乗り、笑顔で手を振りながら私に「先に行くね」というジェスチャーを送っている。妹は幸せに、ぶじ昇天したのだと私は感じた。私の順番はまだ当分来ない。私が行くまで待っていてねと手を振りつつ、妹はもう夢でこの世には現れないだろうなと思う。

帰国して私は大学院に入った。その夏にインドネシアに行き、お盆頃に見た夢。院生室のドアを開けた私は、中に妹が座って他の学生と談笑しているのを見つけて驚く。思わず名前を呼ぶと、妹はにっこり笑いつつ、無言で自分の胸元の名札を指差す。と、そこには違う名字が書かれていた。別の家に生まれ変わってきたのかもしれない。新たな家族と一緒なら、今度こそ妹は私の夢に現れてこないだろう…。

7年前の夢。私と妹は白いポロシャツを着て、新緑の山をダムを目指してサイクリングしていた。途中で自転車から降りて休憩していると、妹がだしぬけに「みっちゃん(妹は私のことをそう呼んでいた)、プロジェクトしようよ」と言う。妹が私に語りかけてきたのはこれが最初だが、私の背中を押してくれたのかも知れない。実はその夢を見た前後にAPIFellowship採用の内定通知が来ていた。プロジェクトとはAPIのことだったのかもしれない。その年の夏から1年、私は再度インドネシアに滞在する。

5年前、APIの事業も終わり、レポートも書き終えた。プロジェクトでは何だかんだあり、ふと気づけば、妹が亡くなってもう10年も経っていた。そんな頃に見た夢。私は、妹がまだ生きていて遠くの病院にいることを知る。待ってて!私が迎えに行くから!と私は慌てふためいて、車を運転する。けれど、病院に至る道は車幅よりも狭く、道路の端はペンペン草だらけの土手。さらには目の前に丸木を渡した橋が現れ、この橋も車幅より狭い。それでも私は必死で運転するのに、どうしても目的地に近づけない。病院の窓のそばには、この時も包帯で全身ぐるぐる巻になった妹が立っていて、眼下の病院の入口を眺めている…。14年前の夢に逆戻りした感があるが、それよりも状況がひどくて私は相当行き詰まっていたみたいだ。

たぶんその頃の、別の夢。妹は女優で、私は監督。時代劇で、ある民家で妹が病気あるいは死に瀕して1人で布団に寝ている場面を撮っている。私はいきなり天井の汚れが気になって撮影を中断、アシスタントか誰かに掃除を命じる。彼は、妹が寝ている布団の横に高い三脚を置いて上り、天井を拭きはじめる。その布団に寝たままスタンバイしている妹の上に、時々天井からホコリが落ちてくる。私と妹は全然しゃべらない。妹も布団を深くかぶっているので、姿が見えない。

以来、ずっと妹の夢を見ないままに時が過ぎた。5年前に生じた行き詰まりは、不良債権のように塩漬けになったまま、進展がなかったということだろうか。それが、先日の冬至の父の夢の後に妹の夢を見た、しかも2日続けて。初日の夢では、父が亡くなって私と妹が残されていると(現実には妹が先に逝っているのに。それに母がどうなったかも不明)、可哀想で可愛いい妹のために親戚知人がこぞって学校での仕事(事務職?)を斡旋しにやってくるという話。一方、皆からしっかり者と思われている私は全然構ってもらえず、むくれている。これは、小さい頃の私と妹の様子そのまんまで、夢から覚めた後も、大人気ない自分にがっくりくる。2日目の夢では、妹は私に「やっぱり、リンゴのお菓子の店を出したい」と言ってくる。妹はケーキを焼くのが得意だった。前日の夢の続きかどうかは不明。そのセリフの前後の文脈も不明。夢の中で妹が私に話しかけてくれるのは、「プロジェクトしようよ」以来2度目である。私は、誰かを助けてリンゴのお菓子の店(に象徴される何か)をやりなさいと言われている気がする。それで一陽来復に繋げなさいということなんだろうか。