ふんどし校長へのオマージュ

冨岡三智

川村たかし(故)著の児童文学『ふんどし校長』(1974年)をご存知だろうか。いまどき――と言っても1970年代のことだけれど――ふんどし姿でプールに現れる校長先生の話が、ひよわな男の子の視点を通して描かれる。確か、こんな話だった。実はストーリーについては全然覚えていなくて、ネットでこの本の書評を検索しているうちに、思い出してきた次第。しかし、私にとっては、この主人公の男の子の設定や物語の展開は実はどうでも良いことで、ふんどし校長の存在こそがなによりも重要だった。というのも、このふんどし校長のモデルは、実は私の大おじなのである。

その大おじが10月20日に亡くなった。享年94歳。長田(おさだ)先生といったその人は、若い時から校長という職業が本当に似つかわしい人だった。私が小学校に入学したときの校長がこの大おじで、大おじは、自分の住んでいる地域に久しぶりに転任してきたときに、親戚の子(私)がそこに入学したというので、ずいぶん可愛がってくれた。

ふんどし姿でプールに現れるというのは本当の話で、夏のプールの時間に、突然校長先生がその恰好で現れることがあった。ふんどしというものを生で見たことがない子供たちは、その姿を生で見ただけで大騒ぎする。そこに、校長先生がプールの中に入っていって仁王立ちとなり、子供たちにその股下を潜ってみろ!と挑発したりするものだから、子供たちは嬉々として挑戦する。そんな風に子供に体当たりして、子供の気持ちをぐっとつかむ先生で、”熱中先生〜校長編〜”を地で行くような人だった。

通夜と葬式の会場の一隅には、古い家族アルバムが展示されていたのだが、そこには学校での生活の写真が多く貼られている。児童が糠ぞうきんで一斉に廊下を拭いている様子、校庭で体操をしている様子、歴史の授業中の様子、児童が味噌玉を丸めている様子…。おそらく戦前か戦後間もなくのものだろう。構図がうまいから、写真家が撮影したように見えるのだが、あるいは、大おじの写真の腕前は玄人はだしだったのだろうか。風俗写真としても貴重なものに違いない。そこには、町中の知識人として尊敬されていた、古き良き時代の教師のまなざしが写し出されている。

母が小さい頃、この大おじは同じ地区に住んでいた他の先生たちと3人で、毎週土曜の夜に通称「クラブ」というのを開いて、勉強の場を設けていたらしい。子供たちは自主学習し、分からない点を先生たちがそれぞれ教えてくれるというシステムで、勉強の遅れがちな田舎の子供たちの学力を上げるために先生たちがボランティアで教えていたそうだ。それ以外にもキャンプなどの活動もあり、校長先生のボーイスカウト活動の人脈を生かして他地域の子供たちと交流をしていたらしい。そんな活動の一環だろうか、児童たちの演劇発表会の写真などもアルバムに収められている。

そういう先生としての写真以外に、ちょっと硬派だったらしい男子学生の面目躍如という写真もある。大おじは高校生の頃にカメラを入手したのか、その頃に級友を撮った、あるいは撮ってもらった写真が多い。級友(男ばっかり!)を10人以上も写していて、それぞれにあだ名が書き込んである。また「吾輩」というタイトルの下に、撮影者の級友の名前(全部違う)を記して、自分は何かになりきってポーズをつけた写真が並んでいる…。こんなナルシストの一面があったとは! それに、川で級友たちとふんどし姿で撮った写真が多い。ふんどし校長のルーツはここにあったのだ!引き締まった肉体で、やっぱり恰好良い。

この大おじの夫婦は、毎年写真館に行って家族写真を撮ることにしていた。アルバムには、良き父、良き母、良き二男一女の子供たちが、一張羅を着て、お澄ましした顔で並んでいる。遺影の写真も、そんな家族写真のうちの一つから撮られている。それは今から50年くらい前の写真なので、大おじはえらく若すぎる顔で笑っている。ふんどし校長の時代よりもっと前の写真だ。けれど、そんなに違和感がない。イメージの中の校長先生は、いつもこんな顔で笑っていた。それに、たぶん昔から老成した顔だったのだ。

この校長先生は、母親を早くに亡くし、父親も師範学校を出る頃に亡くし、さらに肋膜炎にもかかり、出征していた間に継母が新妻(先妻)を実家に返してしまい…と恵まれないことも多かったのだと母は言うが、そんなことはみじんも感じさせず、私の頭の中でも、このアルバムの中でも笑顔で写っている。同居していた娘も今年学校を定年退職し、孫娘ともども介護してくれたそうだ。そしてその子供、つまり校長先生のひ孫も今年高校1年になる。校長先生は満を持して逝ったのかもしれない。友達に恵まれ、児童に恵まれ、子孫に恵まれて、ふんどし校長の名前を残して…。