イカの日

璃葉

夜明け前の空の下で、私鉄に揺られながら漁港へ向かう。四角い窓から見える空はまだ暗く、薄雲が広がっている。電車のなかでぬくぬく温まった体は、漁港へ着いてものの数秒ですぐに冷え切ってしまった。

友人Zの誘いによって、やっと実現したイカ釣りは、想像以上に楽しいものとなった。早朝に起きることに慣れさえすれば、漁港には何度でも訪れたい。

海から吹く風のつめたさにすっかり動作が小さくなったが、この日の気候はいつもよりも暖かいようで、集まった釣り師たちは、今日あったかいよねえ、などと呟き合っていた。

乗合の釣り船が沖へ動き出したとき、ようやく地平線から顔を出した太陽がゆっくりと空を昇っていく。太陽は雲の向こうから優しく海面を照らし、波は黄金色に呼応していた。船がスピードを上げるたびに水しぶきがかかり、心身ともに凍る寸前だったが、雲が去り青空が広がると海の色もたちまち碧くなり、体も芯から暖かくなってくるから、世界は太陽の力で動かされているのだと実感する。

私の釣りのセンスが皆無なのか運が悪いのか、なかなか釣れないままおよそ6時間が過ぎたころ、ようやく疑似餌に食いついたイカがゆらゆらと紺碧の水面の奥から浮かび上がってきた。その風貌はエイリアンのような、摩訶不思議なかたちである。このような方々がわんさか漂っていることを考えると、やはり海のなかは宇宙空間と同様なのかもしれない。

釣り上げたイカの透き通った乳白色が美しい。その半透明の体から勢いよく噴き出すイカ墨のどす黒さといったら! バケツのなかで墨を吐き出しながら暴れるアオリイカを眺めながら、一層美味しく食ってやろうと決意する。すっかり上機嫌になり、再び釣り糸を垂らすと、またもや竿が勢いよく曲がり、もう一匹釣れたかと心躍るが、姿を現したのは気味の悪い妖怪のような魚だった。アカヤガラという衝撃的なフォルムをした朱色の細長い魚は、刺身はもちろん、良い出汁が出ることでも有名らしい。周りの釣り師たちがニコニコ笑顔を向けてくる。私は潔く妖怪アカヤガラをZに譲った。

バケツの中のイカはすっかり落ち着き、底で怪しく動いている。私は何となく、このイカとずっと目が合っているような気がした。ぎょろりとしたその丸い目玉は、自身の行く末を解っているようだった。
友人3名で釣り上げた7杯のイカは、程なくして出張寿司職人の手に渡った。その宵、イカ達は信じられないほどの美味しい寿司と刺身になり、たくさんのヒトの胃袋のなかへ吸い込まれていったのだった。