152 象

藤井貞和

そのかみ、『詩人の爲事』(しじんのしごと)という本を見かけたのですが、
ひとが〈神怒り〉に爲(な)りかわり、うたか句か、
詩の書き手ならば爲(せ)ねばならぬ「爲事」の爲(ため)に、
じんすいしておる時に、かならずおる、ひはんしゃが立って、
詩人の爲(な)すべきはまさに詩を書くこと、時代がどんなであろうと、
書きつづける心葉(大嘗祭の飾りとか)、総角〈あげまき〉の組緒、
添える言(こと)の羽(は)であり(昭和十年代ですね)、神怒りはあのかたたちに、
お任せしようほら、黄河のかなたではたらいていらっしゃると、
叩いてまわる著名なあなた、あなたの名告りこそはひはんの面目で、
そのゆえにしてぼくらの「爲事」は斃れるのですと、若い俳人が、
おそらく出征をまえに嘆いたのでした。 ちなみに「爲」という漢字は、
象のうえに象使いが乗っかった象形文字(ぞうけいもじ)なんだそうです。
象は文字どおり巻き上がる鼻、大きな左右の耳、牙が二本と、
四足(しそく)でしたね漢字「象」。 昭和初年代に象徴詩がおわりまして、これからの、
象徴詩(ぞうちょうし)の季節に、どこへゆくんでしょう仔象。

(この詩、うそ八百で塗り込められています。どこいらへんがうそでしょうか。ちなみに、いま新詩集を出そうと考えて、なかばはこの「水牛のように」サイトで出したのを初稿とする作品集です。謝意のほか、言うことばがないです。書けなくなったところをそれでも持ちこらえることを許して、見守ってくださいました。)