〈緑泥石〉詩学92――伝説

藤井貞和

吉里吉里(きりきり)より
船越(ふなこし)へは
乗合自動車に乗る、と山口

霞露岳(かろがたけ)の一地塊が
陸繋島をなす。
船越の低地を
小船なら
結(ゆい)で協同して漁夫が
山田湾から通す

船越より山田へは
七、八十頭もの駄馬が
行き来し、
北海道からは
鰊(にしん)、塩鮭などの
ほまち貿易も
さかんであった

行者(ぎょうじゃ)が村を救ったという
伝説もあり

(「史を按ずるに、役の小角〈えんのをづの〉、或は行者ともいふ。大和の人、仏を好み、年三十二のとき、家を棄て、葛城山に入り、巖窟に居ること三十余年、呪術を善くし、鬼神を使役すと称せられた。文武天皇の時、伊豆の島に流されたが、後、赦されて入唐したといふ。此の行者が、一日、陸中の国は船越ノ浦に現はれ、里人を集めて数々の不思議を示し、後、戒めて言ふには、卿等の村は向ふの丘の上に建てよ、決して此の海浜に建てゝはならない。もし、この戒を守らなかつたら、災害立ちどころに至るであらうと。行者の奇蹟に魅せられた村人は、能くその教へを守り、爾来、千二百年間、敢へて之に叛く様なことをしなかつた」。山口弥一郎『津浪と村』〈昭和十八年九月〉より、今村明恒の一文「役小角と津浪除け」をここに孫引き。山口の本は復刻版がこんかい、三弥井書店から出ている。津浪震災の三陸を、地理学そして民俗学の山口は、その足で歩いて調べ上げた。明治二十九年の震災のあと、高地性集落を敢行した村と、そうでなかった村との、昭和八年における明暗を丹念に挙げている。いまの行政為政の各位には、これを熟読されよ、という山口の遺声が聞こえる。)