仙台ネイティブのつぶやかき(41)風になりたかった男

西大立目祥子

冬の仙台は冷たい西風が吹く。日本海側が大雪になると奥羽山脈に降る粉雪が風に乗って運ばれてきたりすることもあるのだけれど、晴天の日が多く風はたいてい乾いている。青く澄んだ空と高く流れる雲を見上げていると、決まって思い浮かぶ人がいる。宮城県北の港町、気仙沼で凧揚げに興じていた高橋純夫さんだ。

純夫さんがやっていたことを、ひと言ではとても説明できない。出会ったのは30年ほど前のことで、そのころの私にとってはそれまで出会ったことのない「不思議な人」「想像をこえた人」だった。

純夫さんは気仙沼で受け継がれてきた伝統凧「日の出凧」をつくり、アパートの一室にこたつを置き本を並べて子ども文庫を開き、地元の朝市で竹とんぼと凧をつくって子どもと本気で遊んでいた。そして、気仙沼のマグロ船が世界の海に出航する出船の日は、必ず気仙沼の見送り岸壁で高い高い連凧を上げていた。それは、無事に帰れよ、大漁してこいよ、という純夫さんの景気づけだったのだと思う。

その連凧がふるっていた。マグロあり、イカあり、ホタテあり、ワカメあり‥。直径60センチくらい、竹ひごに紙を貼ってつくったさまざまなかたちの凧をつないで、風を読みながら上げていく。数にして100枚くらい、いや150枚くらいあったろうか。凧は風を受けるとするすると空に上がっていって、くるくる踊り出すように動き出す。「おお、今日の風はいいぞ」といいながら、純夫さんは、つぎつぎと凧を空に送る。先が見えないくらい高く上がった連凧に、人が集まってくる。純夫さんのまわりにはいつのまにか人垣ができた。そして、風に乗ってどこか生きもののように動く凧を見ていると、誰もが高揚感に満たされていくのだった。

「何枚くらい上がっているんですか?」そう聞く人は、いつも叱られた。「枚数なんてどうでもいいべ。空、見ろ。気持ちいいべ」そう答えて純夫さんはガハハハと笑った。連凧の中には、丸くて黒く塗りつぶされ、とげとげに竹ひごが飛び出しているのがある。「それ、何?」とたずねると、「黒い太陽。ガハハハ」。それはウニ凧なのであった。

あるとき、B4判くらいの紙に手書きで記された連凧の一覧表を見せられたことがあった。鉛筆書きで罫線が引かれ、イカ30枚とか、ワカメ25枚とか記され、表組みの頭には日付と場所が入っている。驚いた。なんと純夫さんは、上げる場所によって連凧の組み合わせを変えていたのだ。例えば、イカ漁で名高い青森の八戸港で上げるときには、白いイカ凧の枚数を増やすという具合に。白い紙を前に周到にプランを立て、ポンコツの軽トラワゴンに凧を積み込み、みずから運転して出向き、凧を上げる。誰に頼まれたわけでもなく、何の見返りもなく、集まってくる人とのやりとりと、その場所のそのときの風を楽しむだけのために。

子ども文庫の部屋の片隅が純夫さんの凧づくりの制作室で、そこには連凧だけでなく、ごちゃごちゃとさまざまな凧が積み上がっていた。これが凧?と目を見張るようなものもあった。たとえば、立体的な鶴の凧。竹で胴体を組み上げて和紙を貼り付け、大きなしなやかな翼を持ったこの凧は重そうに見えるのだけれど、純夫さんが上げるとふうわりと風に乗り白い翼を優雅に広げて空を舞うのだった。この凧を上げるときには緑色のかわいい亀の凧もいっしょに上げる。見上げると、亀甲型の小さな凧は鶴のそばでお供をしているようだ。上げながら「鶴と亀が舞い踊る〜」と、純夫さんは宮城県の郷土民謡「さんさしぐれ」を鼻歌まじりで歌ってごきげんだった。

一方で「日の出凧」の連作は、この人は美術家なのだと強く意識させられるものだった。真ん中に大きく太陽を円で描き、雲が太陽の上と左右を縁取り、下に青々と波を描く図柄が日の出凧の伝統的意匠とされているのだけれど、純夫さんはまるで日課のようにくる日もくる日もこの図柄を和紙に描き続けていた。それは次第に自由な筆の動きとあざやかな色彩を獲得して、独特の作風に変わっていった。あのあでやかな色は船の上ではためく大漁旗の色だ。いま思えば、太陽と空と雲と海が、描きたかったもののすべてだったのかもしれない。日輪の下の方に、日付と「純0」のサイン。サインについてたずねると、「純な気持ちがゼロだから」とまたガハハ。

純夫さんと知り合ったのは、当時勤務していたデザイン会社が、この地域のまちづくりを手伝ったのがきっかけだった。何度か訪れたこの子ども文庫で、気仙沼高校を卒業した後、東京藝大を受験して失敗したことや、大酒を飲みすぎて重い糖尿病を患っていること、地元を流れる大川という河川に計画されているダム建設の反対運動をしていることなどを聞いた。いまだったら、地元に暮らし続けながら子どもたちのゆく末を案じ、ともに生きる人々や地域への切羽詰まったような応援の思いを凧に託していたのだとわかる。でもあのころ私はあまりに未熟で、ろくすっぽ話もできなかった。

あるとき2人で向かい合ってお昼にカツ丼を食べていて、唐突に「いま、この人はすごいと思う人物はいるか」と問われたことがある。そのころ、日々、ライターとして残業を重ねキャッチフレーズだのボディコピーだのに追っかけられていた私は、活躍していたコピーライターと愛読していた小説家の名前をあげた。すると、しばらく黙って話を聞いていた純夫さんは顔をあげ、「たちめさん(私の愛称)、いつまでもあの人はスゴイといっててはだめだ。そういう存在にじぶんがなんねえと」といった。

答えに窮した私は胸の中で、そんなのムリとつぶやいたような気がする。でも、この問いかけは純夫さんを振り返ると、いまでも立ち上がってくる。

純夫さんは、実は気仙沼ではけっこう大きな材木屋の社長だった。あるとき、その事務所を訪ね、純夫さんが整然と整理された机に座り来客の人を待たせて領収書をきっているのを見て、いつもの破天荒な行動との落差に唖然としたことがあった。こういうじぶんの世界からあえてはずれて、あえてつながっていた糸を切って、じぶんが本当にしたいことに身を投じていったのか。昼ごはんのときの私への問いかけは、望むところへ行け、という意味だったのかもしれないと思ったりする。

でも一方で事務所に座る顔を持っていた純夫さんを思うと、やりたいことだけをやり続けられるほど人は単純には生きられないんだなぁとも思える。この落差も純夫さんの世界の一部なのだった。

凧上げに夢中になると、純夫さんはフラフラになることがあった。「ああぁ、クスリクスリ」と軽トラの荷物をかきまわし、小さなバッグから注射器を出して、ところかまわずお腹を出してブスリ。インスリン注射なのだけれど、知らない人が見たらどれだけアブナイ人に見えたろう。

知り合って10年もしないうちに、糖尿病が悪化し肺がんも患って純夫さんは亡くなった。東日本大震災よりはるか前のことだ。もし大震災で住まいも材木倉庫も子ども文庫も、いや気仙沼のすべてが流され火災で焼き尽くされた風景を見たら何といったのか。「自然ってこういうもんだべ」とか何とか。じぶん自身も打ちのめされながらそうつぶやいたんじゃないだろうか。

私の中で純夫さんは死んでいない。頭も気持ちも縮こまっているようなとき、純夫さんの声を聞きたくなる。きっとこういってくれるんじゃないだろうか。「たちめさん、空見ろ、好きにやれ」