仙台ネイティブのつぶやき(32)暮らしの真ん中に分校

西大立目祥子

 宮城県最北西端にある鬼首は、地域全体がカルデラにのっかっているような地形で、環状に川が流れ、川に沿うように集落が点在している。その最も奥にある岩入(がにゅう)地区の高橋幸悦さんを訪ねたのは、昨年の12月半ばのことだった。すでに積雪は1メートル近くもあり、友人がその車では危ないと四輪駆動車に乗せてくれたのだけれど、それでも奥深く入り込むとだんだん家はまばらになっていき、私自身が何とも心細くなってくる。もうここが集落の最後ではと思った家が高橋さんのお宅だった。

 由緒を感じさせる大きな総二階の農家屋で、見事な枝ぶりの松の木がそびえ立っていた。「いつ頃、建てられたんですか」とたずねると、「新しいよ、100年くらいだよ」と笑っておられる。100年は、すぐそこにある時間なのか。80歳をこえたご夫婦が深い雪の中、この家を守りどこかほがらかに暮らしていることに心打たれた。

 ぱちぱちと音をたてて燃える薪ストーブと掘ごたつで温まりながら、幸悦さんと向かいあう。幸悦さんの後ろは大きな窓で、雪が降り積もる背後の小高くなった木立の中に五輪塔が見えた。祖先の墓だという。

 聞けば、17代目。先祖は戦国武将で延岡藩主だった高橋元種だという。関ヶ原の合戦で東軍につき、流れ流れて陸奥の国へ。いまもたまに、関西などから墓を訪ねてくる人がいるのだそうだ。確かに庭の松は物語を秘めているように思えるし、建て替える前の建物はこの地域の御番所よりも立派だったらしい。

 といっても私の目的は、ご先祖のことではなく、ここにあった岩入分校の話を聞くことだった。この地区の子どもたちはいまみんな大崎市立鬼首小学校に通っているが、昭和63年3月まで、ここには明治15年の開校以来106年にわたって維持されてきた小さな学び舎があった。鬼首地区全体で5校もの分校があったという。鉄道の駅から遠く離れた山里に林業や農業、鉱業を生業に生活を立てる人たちが大勢おり、子どもたちもたくさん暮らしていたのだ。

 私を含め都市の住人が「僻地教育」を具体的に思い浮かべることは難しいかもしれない。私は初めて僻地に等級があることを幸悦さんに教えられた。「本校の鬼首小学校は1級で、岩入分校は4級なんです。それで先生たちの給料の上乗せ分が決まったんだね」駅からの距離とか、郵便局など最寄りの公共施設などの学校周辺の環境で僻地度を測るらしい。本校の鬼首小学校までは、子どもの足で4時間ほど。車のなかった時代、分校がなければ就学は困難だったろう。

 幸悦さんが岩入分校に入学したのは、昭和17年ごろ。記憶では40名近い子どもがいて、1年生から6年生まで全員が一つの教室で学んだ。先生は一人だったから、十分に手が回るとはいえない授業だったろう。そのうえ職員会議などで先生が放課後本校に出かけるとその日のうちに戻ることは難しく、子どもたちは自習時間。のびのびと過ごしながらも、案外と年上の子たちが下の子の面倒をみたのかもしれない。

 学校を支えたのは親たちだった。やがて幸悦さんは、妻のきよさんとともに、2人の子どもの親として分校にかかわるようになった。
 ストーブ用の薪集めは国有林の木を払い下げてもらい、1日がかりで切り出して山のように積み上げる。冬の間の雪下ろしも2、3度当番を決めて実施する。備品購入の資金稼ぎのために春はフキ採りやワラビ採りを地域あげて行う。集まった山菜は誰かがトラックに乗せて運びお金に変えてくる。暇を見つけて縫いあげた雑巾がたまると学校に届けにいく。家の仕事の延長のようにして分校のために力を出し合い、盛り立てていこうという暮らしがあった。

 「学校は家の分身みたいなもの」と話すきよさんはこう続ける。「入学式も卒業式も夫婦で行くの。世話になってる子どもがいなくてもみんなで行くの」地域の中心は小学校とよくいわれるけれど、こういう話を聞くと深く納得がいく。
 そして、雪かきのあとも、学芸会のあとも、もちろん卒業会のあとも、一品持ち寄って、こっそりつくったどぶろくを持ち出して、それはにぎやかに飲んだらしい。「わいわい騒いで、それが楽しみなんだ」と幸悦さんが笑う。先生が家庭訪問にきても、飲ませてお泊まり。もしかすると、地域住民の方が先生の品定めをして、地域になじむよう教育していたのではないのだろうか。

 幸悦さんが手元に大切に残してきた冊子がある。「さわらび」と題されたガリ版刷りを閉じたものだ。赴任してきた先生が毎日発行していた学級新聞だという。イラストのたくさん入った新聞は、授業参観、児童会役員選挙、学級費や児童会費の集金といった学校の行事やお知らせとあわせ、子どもひとり一人を取り上げている。両親が用事で3日間出かけた間一人で留守番をした茂明君のこと、毎日の積雪を記録する浩君のこと、角膜に傷がついたために休んでいた俊広君の出校、宮城県の書初め展で特選をとった悦子さんのこと…。小さな頑張りをていねいに見つめる教師の視線が伝わってくる。ここで僻地教育を学びたい、と赴任する先生も少なくなかったようだ。

 分校が閉じて30年あまり。最後の卒業生はいま40代前半になった。この地区を離れた子たちも多いだろうが、その親はいまだこの地に暮らし続けている。木造平屋の小さな校舎はいまもそのまま、看板もポストも当時のままだ。きっと地元の人たちは集落のあたたかな記憶が宿る建物を壊したくないのだと思う。