仙台ネイティブのつぶやき(54)今日も塗り、明日も塗る

西大立目祥子

 4月の初め頃、軒並み中止に追い込まれていく新聞下段のコンサート情報を眺めていたら、小さな記事が目に入った。
 「第60回東日本伝統工芸展」とあって「東京・日本橋三越本店で開催予定でしたが中止します」の一文。もう工芸展までだめなんだ…と思いながら記事に目を戻して、おっと思った。「写真は、朝日新聞社賞の伴野崇さん(長野県佐久穂町)「乾漆合子『残照』」」と記され、卵を寝せて下を切ったような赤い漆塗りの蓋付き容れ物がカラー写真で紹介されている。伴野くんだ!彼は私の若い友人なのだ。

 確か数年前にも同じ工芸展で同じ朝日新聞社賞を受賞していた。年末に「作家によるうるしおわんうつわ展」という展示会が、池袋の西武アート・フォーラムで開かれ、出品するという案内をもらったまま、連絡もせず気にになっていた。がんばっているんだなあ。おととし、人間国宝である師匠の小森邦衛のもとから年季明けで独立し、輪島から故郷の長野に戻って工房を構えたところだった。このタイミングでの受賞は、きっと励みになるはずだ。
 何年かぶりで電話をしておめでとうというと、変わらない口ぶりで「そうですね、独立して受賞できて、よかったかな…そうなんです、なぜか前と同じ朝日新聞社賞で。載ってるよと知らせてくれた人がいて、自分もそれから新聞を買いにいって」などとぼそぼそと話す。浮き足立つこともなく、いつも静かな水面が胸の内にあるような感じだ。

 伴野くんと初めて会ったのはもう15、6年も前。仙台で幕末からつくられてきたという仙台箪笥の取材のために「門間箪笥店」という箪笥づくりをする工房を訪ねたときのことだった。仙台箪笥は、指物と塗りと金具という3つの職人技がなければ完成しない。表の店舗にしか入ったことのなかった私は、このとき初めて奥の工房まで足を踏み入れることができ、古めかしい木造の工房の中で鋸を巧みに引くベテラン指物師や床に座って黙々と塗りを続ける若手塗師や女性塗師の姿を見ることができた。その中に伴野くんもいたのだった。うつむいて絶え間なく手を動かしあまり喋らない。職人さんの中では際立って若く20歳を過ぎたくらい、まだ少年っぽさが残る、目の涼やかな若者という印象だった。

 そのあと何回か会ううち、高校中退のあと、ものを作る仕事がしたい、箪笥はどうだろうと考えて全国の箪笥産地を訪ね歩き、門間箪笥店がいいと仙台にやってきたのだと聞いた。確か当時、伴野くんはやけに頑丈なつくりの黒い自転車─仙台ではかつて米の運搬に使われていたことから運搬車と呼ばれている─に乗っていて、足元はいつも下駄だったような。朝8時から働き4時半過ぎに仕事を終えると、急ぎ市立高校の2部に通うのだった。えらいね、というと、淡々とした口調で「でも、昔の人はみんなこうだったと思いますよ」という。真面目で、静かなのだけれど芯棒のようなものが一本通っていて、昔の青年はこうだったのかなぁと会うたび思わされた。「明治とか大正とかに生まれた方がよかったんじゃないの、生まれる時代を間違ったのかも」とつい口に出し、はははと笑いあったような記憶がある。

 知り合ってしばらくして、私は伴野くんと、その同僚でちょっと年上の指物師の阿部くんに呼び出された。門間箪笥店の近くの喫茶店に行くと2人は隅の席に窮屈そうに並んで座っていて、あいさつがすむと思いつめたような表情で「仙台箪笥を伝承する会をつくるので協力してほしい」というのだった。聞けば、伝統的な技術を受け継いで見える仙台箪笥も、その形、材料は明治期とはずいぶん違っている。一度、昔の素材と工法で一棹製作して原点に立ち戻り、人とモノのつき合い方を問いたいという。その後、2人は自治体の助成金を獲得するために審査会のプレゼンテーションに臨み、箪笥研究では第一人者の小泉和子さんに原稿の依頼をし、冊子を制作の費用を捻出しようと広告とりに歩いたりもして、「仙台箪笥復活祭」をやってのけた。1年近く準備にかけたのではなかったろうか。いま振り返れば、ファストファッションのような安い使い捨ての暮らし方が広がる中で、世代をこえて使われるような伝統的な箪笥をつくり続けることへの若い人ならではのひりひりするような危機感があったのだと思う。

 この会の代表としてあれこれ考え、人に会ううちに伴野くんは変わっていったに違いない。あるとき「輪島の漆芸研修所に行って勉強し直します」と聞かされた。箪笥は堅牢さを追求しながら大きな面を均一に塗るような仕事だけれど、もっとたくさんの漆芸の技法を学んで繊細な仕事を極めたいという気持ちになったのだろう。 
 居酒屋を貸し切ったお別れ会には、30人か40人かとにかく大勢の人が集まり門出を祝った。私と伴野くんとのつきあいは限られたものだったし、暮らしぶりもよくわからなかったのだけれど、10年に満たない仙台在住の間にずいぶんと友だちをつくり、いろんな人に親しまれていたんだなあと、親戚のおばさんのような気持ちで人の輪の中にいる伴野くんをながめた。

 何かいい餞別はないだろうかと思案して、ああ、そうだと思いついたのは、宮城県北、鳴子温泉に残っている澤口悟一(1882〜1961)が製作した「猩猩の大皿」を見せることだった。この町出身の澤口は漆芸の研究に生涯を捧げた人で、集大成として昭和8年に著した『日本漆工の研究』は日本学士院賞を受賞した。東京美術学校時代、夏の休暇で帰省するたびに製作したというのが、直径120センチの見る人を圧倒するようなこの大皿である。結局在学中には仕上がらなかったというエピソードが残されている。鳴子には澤口の弟子となり、いまも塗師として活躍する小野寺公夫さんもいるから、その話も聞かせてやりたい。がんばれよの気持ちで、私の仕事のときに車に乗せて連れて行った。

 石川県立輪島漆芸研修所で5年、さらに小森邦衛の弟子となって4年。その間、どんな思いで何をつくり、どこをめざしてきたのかは私にはわからない。でも、作品展のパンフレットや工芸展のHPに掲載されている作品をみれば、細やかな目と腕を持つ自立した作家になったことが伝わってくる。私にはとうてい見えないものを見て、想像もできない道に分け入っているのだと思う。昨年暮れに送ってくれたパンフレットに載っていたポートレートはきびしい大人の顔だった。

 一度、人から譲り受けた2段重ねの弁当箱を輪島に送り修理を頼んだことがある。傷んではいたのだけれど、はげ落ちた漆の下はしっかりと麻布でまいてあるので、手入れをすればよみがえるかな、と思ったのだった。1年以上がたって戻ってきた弁当箱は見違えるようだった。漆の盛り方、蓋の縁の処理などに勉強ぶりがうかがえた。お節を詰めたり雛祭りの料理を盛ったり、伴野くんの顔を思い浮かべながら大切に使っている。ていねいに手をかけてつくったものを使うときは、蓋の開け閉めにしても使い終わって洗うにしても、使い手の扱いもおのずとやさしくなることを教えられる。

 伴野くんに限らず、これから塗師たちはどんな道を歩んでいくのだろうか。精進、献身…そんなことばを身の内に構えとしてつくられなければ、続けられない仕事だろう。見るたびに美しいと感じられ使用にも耐える暮らしの道具をつくる仕事でありながら、連綿とつながってきた技術をつぎの塗師へと手渡す使命も負う。考えれば考えるほど、かけることばが思いつかない。今日も塗り、明日も塗る。それ以外に道はないことを誰よりも知っているのは、彼ら自身なのだから。

 ところで、伴野くんは最近結婚した。おめでとう。よかったなあ。私は祝福しながら、やっぱり親戚のおばさんみたいにどこかほっとした気持ちでいる。彼の中のいつも静かな水面にも、ときおり楽し気な水しぶきが立っているだろうか。