仙台ネイティブのつぶやき(56)カブ菜の長い旅

西大立目祥子

 宮城県県北、秋田と山形の県境の集落、鬼首(おにこうべ)地区に、この集落だけでしか栽培していない「鬼首菜」という菜っ葉があることは、2019年1月号に「峠を越えてきた青菜」として書いた。
 この野菜は夏に種蒔きをし、冬越しさせて、翌年の初夏に刈り取って種を取る。昨年の6月には、私も腰高ほどに伸びた草の刈り取りに行った。その種を蒔き、育て、採種して、いま畑には新たな季節がめぐってきている。お盆過ぎに種蒔きした畑には、小さな緑色の双葉が芽吹いているはずだ
 この間、新たな出会いがあっていろいろ教えられることが多かった。

 一番の収穫は昨年11月に、山形大学農学部の江頭宏昌先生が学生さんを伴って、鬼首菜の畑を見に来てくださったこと。先生は、他県にくらべると群を抜いて在来作物の多い山形県で「山形在来作物研究会」の会長をなさっている。農家とレストランをつないで食べてもらう機会を増やしたり、在来作物に関心を持つ人たちのネットワークをつくったり、15年以上にわたってさまざまな活動を行ってこられた。「在来作物」という名称がこれだけ一般的になったのも先生の功績が大きいと思う。

 長年、鬼首菜をつくり続けてきた高橋一幸さんの畑を見てもらう。11月末の畑には大きく育った鬼首菜が葉を広げていた。高橋さんが、抜いてみましょうか、と手をかけ引き抜くと、大人のげんこつより一回りほど大きな白いカブがあらわれた。もう一つ、といって抜くとそちらは紫色がかったほっそりしたカブである。
 不思議なことに、鬼首菜には紫色と緑色の葉が入り混じる。緑色のはカブが白く、紫色のはカブがピンクがかっている。もしや、他の何かと交雑したからではないだろうか、と前から気になっていた。江頭先生に恐る恐るたずねると、答えは明快だった。

「1つの品種に多様性があるのが在来作物なんです。集団内に多様性があるから、元気でいられる。紫色の株、緑色の株、どちらかに統一すると近交弱勢が起きて、特に鬼首菜のようなアブラナ科の作物は弱ってしまうんですよ」。
 近交弱勢とは、遺伝子の近いもの同士が交配して環境適応力のない個体が増えていくことをいう。バラバラな色の葉を広げながら、鬼首菜は厳寒の冬も、日照りの夏も乗り越えてきたということなのか。野生種に近い作物にとって、多様性は種が生き延びていくために必要不可欠なものなのだろう。
 この話は、そのまま私たちの社会のあり方にも当てはまりそうだなぁと感じながら聞いた。さまざまな考え、さまざまな人種‥そうした均質的でない社会の方が、同質的な社会よりずっと変化への対応力に優れ、暮らしやすいだろうから。
 秋が深まっていくと、葉の緑色は、赤紫、緑と紫がまじったような茶色、深い緑色、白味がかった緑色‥と、描くとしたら絵の具の選択に困るほどの豊かな色彩に染まっていく。そんな色味あふれる畑に立つと、なぜか気持ちが安らいでくるから不思議だ。

 寒くなると鬼首菜は色味だけではなく、辛味も増していく。この喉の奥から鼻に抜けるような辛味が漬物に重宝されて、栽培する人たちが絶えなかったのかもしれない。
何人かを訪ねて、鬼首菜の話を聞き歩いた。
 毎年欠かさず栽培し種取りを続けてきた高橋五十子さんは、今年90歳。「嫁にきた頃はおつかいに行かされる先々で、手にいっぱい漬物盛られて、もうここらあたりが辛くなってねえ」と胸元をさすりながら笑っている。
 「母も家族分の漬物用に栽培してましたよ」というのだから、100年以上にわたってこの地で守られてきたのは間違いない。

 つまり戦前まではかなりの家が栽培していたと思われのだけれど、これが戦後生まれになると違った様相を呈してくる。栽培したことがないという人たちが増えてくるのだ。ある人は、「鬼首に電気が通ったのは昭和34年。冷蔵庫が入ってきて、冬に備えて大きな樽に漬物を漬ける必要がなくなったからじゃないか」と分析する。
 とはいえ、そこは一様ではなく、戦後生まれの人でもいまなお、栽培を続ける人たちがいるのも確かなのだ。ある家は栽培し、ある家は栽培しなくなる。この差はどこから生まれるのだろう。

 話を聞いて気づかされたのは、栽培を担っていたのが女性たちだということである。
家族の食事を切り回す主婦が、その必要から畑の片隅に鬼首菜の種を蒔き、収穫し、漬物に加工し、種取りも行ってきたのだ。栽培と調理が一体となった営為。そこには効率だとか栽培技術だとか、今日、農業に求められるものは入り込んではこない。
 自分が食べたいから、家族に食べさせたいから、冬場の食をつなぐために、少しの手間をかけ、種を蒔き続けたのだろう。高橋五十子さんに、どうして栽培を続けてきたんですか?とたずねると、「食べたいから」「うまいから」と答えが返ってきた。
 「大樽に漬けて、春先にね、樽の底に残った漬物をどぶろくと煮ると、これもまたおいしいんだよ」と話してくれたのは高橋やえのさんだ。孫が漬物を食べてくれないとぼやきながらも、早々と春には旦那さんと作付け場所の相談をしていた。今年も8月の終わりには、2人とも無事、種蒔きをすませたはずだ。

 一株ごとに育ち具合も、葉の色もカブの大きさもてんでバラバラ…在来野菜は、かえって優れた農家にとまどいを与えるものらしい。種苗会社の売り出す種から育つ作物は、うまく育てれば育てるほど均一化する。たとえば「60日型の大根」の種を蒔けば、60日で大根が収穫できるほどに栽培種は規格化されていて、同じ丈に背を伸ばし、同じ色の葉を広げ、ほぼ同じ大きさの実がなって、命は一代で尽きていく。
 そうした種に慣れていると、在来作物の鬼首菜は一体どこが成長のピークかもわからないらしい。きちんと整った均質化した姿を、知らず知らずのうちに求めているからなのだろう。
 それに対して、長く栽培してきた人はこういい切るのだ。「難しいものではないですと。種を蒔けば育つんだから」と。このことばには、100年以上にも渡って続けられてきた、人と在来作物のかかわりあいの基本があるような気がする。

 江頭先生におもしろいことばを一つ教わった。「野良生え」。山道などを歩くと道ばたに種がこぼれて育ったカブ菜を見ることがあり、それをこう呼ぶのだそうだ。野良猫みたいに、人の手から離れたところでたくましく命をつなぐ作物の姿が見えるようだ。
 先生によれば、鬼首菜は間違いなく「カブ菜」であるらしい。葉の部分にばかり注目していた私にとって、これは目からウロコだった。カブ菜は地中海で生まれ、ユーラシア大陸を人の移動とともに旅して日本に渡ってきた。改良がなされ、日本でたくさんの品種が生まれ、鬼首菜は山形から入って、この山間地にある集落に定着したものと思われる。その長い長い旅を思うと、やはり細々とではあっても、種を絶やしてはならないという思いが深くなる。