葡萄の棚

大野晋

小さな頃、観光バスに乗って林間学校に向かうと決まって甲府盆地での休憩は高い位置に棚がつくられた葡萄園だった。大きな観光バスよりも高い位置にある葡萄をどのように取るのか不思議だったが、年中売っている葡萄やワインや甘い葡萄ジュースをみやげにするのが決まり事になっていた。

一昨年から葡萄酒に関する表示義務が変わって、より厳格にぶどうの産地を表示しなければいけなくなった。ただし、即時に対応するという話ではなく今年いっぱいはまだ移行期間となり、来年、2018年から施行となっている。なぜ準備期間が長いのかという問題については歴史を追うことでみてみたいと思う。

日本で葡萄酒が最初に作られた正確な時期は定かではない。古い時期に、山梨県などで今でも作られている甲州という品種が入ってきていることから葡萄自体の伝来は早いようだが、ふつうに水が飲める日本では低アルコールの発酵飲料が一般に飲食に用いられることはなかったようだ。というよりも、稲作文化の日本では米から作られる日本酒やどぶろくが一般的な飲み物となったのは想像に難くない。葡萄酒の製造が大きくとりあげられるようになったのは明治期で、外国人や外国船に対する販売を目的に、殖産産業として葡萄栽培と葡萄酒の製造が奨励された。このまま、順調に成長すれば、東洋唯一の生産地となり、莫大な利益が上げられたのだが、ことは順調に運ばない。世界的な葡萄の病害の蔓延で日本も例がいなく壊滅的な被害を受けた。このとき、欧州産の葡萄とは異なる品種であったために甲州種は被害を免れ、これが山梨県が今にまで至る葡萄産地となる遠因になる。

ちなみに、殖産政策で中国からも葡萄の苗木が持ち込まれており、これが長野県に残って善光寺葡萄と呼ばれて細々と栽培されていた。近年の研究では中国の竜眼という品種とDNAの同一性が指摘されており、信州の特産種として葡萄酒が作られて長野県内で売られている。

さて、一端は病害の蔓延で中断された葡萄酒の製造だったが、国産の洋酒として日本人の好みに合うように改良されて、甘味を増した酒が大阪の寿屋から発売されて大ヒットする。現在のサントリーの始まりは模倣洋酒の販売から始まった。ワインは甘いものという刷り込みもこのときから始まるのである。この甘みの強い模倣葡萄酒は爆発的に売れ、全国にこれを製造するための葡萄畑が作られた。このとき作られた葡萄畑の特徴は、病気の影響を受けない米国産の品種で、粒も房の大きさも大きいナイアガラやコンコードといった品種が多く植えられている。長野県などでこうした品種の栽培が多いのは甘味果実酒の原料として作られていた歴史的な背景がある。

この後、第二次世界大戦になると、葡萄酒の副産物が兵器製造に使われたため、全国で葡萄酒が増産されている。ところが、こうした副産物目当ての葡萄酒は味に無頓着であったことから戦後に急速に衰退する。葡萄の栽培適地である山形県で葡萄酒の製造が少なくなっていた原因はここにあると言われている。

戦後もしばらく続いた甘味果実酒であったが、東京オリンピックの頃から変化する。食生活の欧米化と海外からのワイン輸入の自由化で、甘味果実酒がワインの王座から陥落したのだ。この傾向をいち早く察知したのは、大都市から遠く、甘味果実酒向けの葡萄を多く栽培していた長野県の塩尻付近の農家で、大取引先であったメルシャン社との協議の中で、当時、地元のワイナリーが栽培に成功していたメルロー種の栽培だったと伝えられている。その後、20年ほどかかり、桔梗が原と呼ばれるこの地域のメルロー種を使用したワインが欧州のコンクールで受賞することで、一躍信州が欧州系葡萄の産地として脚光を浴びることになる。今では、メルシャンの桔梗が原メルローは1万円以上の売価で販売される高級ワインとして知られている。現在の長野県は加工用ブドウの栽培では全国二位。高級ワインの原料の供給元としてはぶっちぎりの供給量を誇るまでになっている。

さて、戦後に起きた変化として忘れられないのが、農地法である。これによって、大きな農地が分割され、法人が農地を所有できなくなったのだが、ワイナリーはこの制限によって、加工用の葡萄を農家や農協から購入しなくてはならなくなった。この栽培と醸造の分離が他の国にはない日本の事情であり、コスト高を招く原因であり、そしてもっとややこしい事態を招く原因になっている。

変更された葡萄酒=ワインの表示義務として、国産のぶどうを100%使用したワインを「日本ワイン」と呼べることになっている。これは、輸入ワインや輸入果汁を原料にして国内で製造されたワイン全てを国産ワインと呼ばれていることに対する日本農産物を使用した農産加工品の証である。また、地域名称を呼称として使用する場合には、その地域の葡萄を85%以上使うこと。複数の品種や産地の原料を使用する場合には、原料として多い順に並べるなどが求められている。

ところが、最近まで多くのワイナリーでは、自産地以外の葡萄の使用や海外ワインの混入などが多く行われてきた。これは、ワイナリーが原料の葡萄の栽培まで行わない日本ならではの傾向であるが、販売場所を栽培場所と勘違いを起こしがちな消費者からすると、産地偽装とも思える事態でもある。ただし、これが日本の普通の中小のワイナリーの実情であった。そして、葡萄は購入するものであるので、産地を気にせずに手っ取り早く入手できる品質のよい、高級品種の葡萄が製造者では問題であったのは当然で、解らないことでもない。

そこで、ぶどうの産地表示やワインの呼称に関するルールが発表されたために、時間がかかる騒動が生じたというのが現状なのだ。現在、呼称問題にかかるワイナリーでは、駆け込みで苗木を購入して葡萄の増産にかかっているという。このせいで、苗木が不足する事態になっているともいう。ただし、葡萄の木が植えてから実をきちんとつけるまでに数年。きちんと成熟したよい実を付けるのなら10年以上必要なことを考えるとあまりにも付け焼き刃な感じがしてならない。

本来、第六次産業化を目指す葡萄の加工産業に関する政策が矢継ぎ早に出された背景には、従事者の高齢化で年々荒廃していく日本の農地対策という側面があったはずで、醸造事業者の手を借りて、農地を葡萄畑に再生したいという思惑があったはずだ。なんとなく、今の騒動が的外れな印象を受けてならない。

そう言えば、小さな頃に立ち寄った葡萄屋さんは、よく考えるとあそこで生産しているわけはなかった。葡萄もワインもジュースも買い込んだものを、葡萄園よろしい店舗に呼び込んだ観光客に販売するための売店だったのだろう。そう考えると消費者とは実態を見ずにイメージだけで判断する生き物だ。葡萄畑の中で葡萄酒を売っていれば、それはそこで作った葡萄の製品なのだと思い込んでしまう。昔から行われていることとは言え、消費者の誤解を前提にした商売は今後、厳しく律せられていくのだろう。

地方の小都市の街中にメガソーラーが置かれている昨今、できれば、農地の中には光り輝くソーラーパネルよりも青々とした葡萄畑が広がっていて欲しいものだと思う。
2018年がそういう年の起点になるといいと思いながら、騒動を眺めたい。

そうそう。正月は休んでしまったので、本年初めとなります。
読まれた皆様には2017年がよい年になられますように!