しもた屋之噺(177)

杉山洋一

今月、何となく夜が長かったような錯覚に陥るのは、大部分の時間を劇場の真っ暗なセットの中で過ごしていたからでしょう。朝から夜まで、ずっと照明を抑えた劇場で稽古していて、いつの間にか陽の落ちるのがすっかり早くなっていたことにも、朝晩の冷え込みがすっかり激しくなっていたのにも、まるで気が付きませんでした。でも毎日使っていた中央駅の野菜ジューススタンドと、ガリバルディ駅のスーパーの生ジュースのメニューには詳しくなりました。あと毎朝フルーツを買っていたレッジョエミリアの劇場周辺の八百屋の場所とか。

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 9月某日 ミラノ自宅
夏の間にすっかり伸びきった庭の芝刈り。一度では到底刈りこめないので、3回ほど繰り返す。三和土にあった庭用のゴム長靴が盗まれている。空き巣に失敗した泥棒の示威行動か。10年以上前に購入した、草臥れ果てた長靴だったのだが。
時差呆けに乗じて、朝は3時に起きて庭に水を撒き、モンタルティの楽譜を広げる。当然午後には眠くなり、気が付くと16時くらいには机に突っ伏していて、自分の鼾で目を覚ます。

 9月某日 ミラノ自宅
Hさんは検査の結果初期の肺ガンで、近く手術を受けることになったと連絡を受ける。庭の刈った芝に緑が戻ってきつつある。Aさんには緑内障との診断。毎日、目薬をさすことになるとのこと。互いにそういう話題が自然に出て来る年齢になってきた。
朝はバナナとヨーグルト、昼はジャガイモを炒めて目玉焼きを乗せて食べる。夜は軽い運動を兼ねて船着場の魚屋まで自転車で出かけ、ミックスフライ。アマトリーチェ震災を揶揄したシャルリー・エブドに、イタリア全体が激昂。その隣に、ニューヨークでゴミを出さない生活を実践する妙齢の記事。どこでも自分専用のガラス容器を持ち歩き、歯磨き粉やシャンプーも自家製。「だってこの方がセクシーだから」と本人がコメントしている。過去の生活様式に戻りつつある不思議。進化とか発展とは何だろうか。

 9月某日 ミラノ自宅
スーパーでハムをスライスして貰っていると、そのおばさんが突然「昔に比べて、あんた言葉が巧くなったわねえ」と話しだして驚く。ここに引っ越してきたのは10年前だが、どう考えても、今の方が当時より言葉が上達しているとは思えない。恐らく当時は子供に何を食べさせてよいか、何をどう頼んで良いのか見当もつかず、途方に暮れつつ注文していたに違いない。あの頃の初々しさが懐かしい。このチーズは子供が食べても消化はいいでしょうか、どのハムは子供が食べても塩辛くないですか、とか尋ねていたのだろう。

 9月某日  ミラノ行き車内
レッジョ・エミリアの劇場に戻るのは一昨年ぶりか。照明のルカも、大道具のウスマンやフィリッポ、大道具責任者のマウロや電気一般をまめまめしく取り仕切るルカやファビオとも10年以上の付き合いで、劇場に足を踏み入れた瞬間から、辺り一面に笑顔が並ぶ。家族のようなもので、自分は彼らに育てて貰った。誰も欠けていないのが嬉しい。自分がすっかり禿げてきたのと同じように、周りの皆も歳を食っていて、互いにそれを見て笑いあう。これから3週間毎日一緒に仕事ができる幸せを思い、その後の喪失感に思いを馳せる。
主役のフランス人ヴォイスパフォーマー・ジョーに合わせて、全員仏語でリハーサル。仏語の上手下手に関わらず、どうせ伊語も仏語も似たもの、という至極強引な論理で皆が押し通す。古来よりラテン語族間での意思の疎通を垣間見る思い。皆で英語を話すとか、ジョーに頑張って伊語を話させようという仮定は一切生じない不思議。

 9月某日 レッジョ行車内
言うまでもなくレッジョ・エミリアは、パルメザンチーズ「パルミジャーノ・レッジャーノ」の本拠地で、郊外にあるチーズやパルマハム製造工場で働く外国人がとても多い。一番新しい統計ではレッジョの人口2割が外国籍だと聞いて驚く。フィリピンや東南アジア諸国からの出稼ぎはもちろん、ロシア、ウクライナ、東欧諸国、アフリカからの移民も多いという。国鉄駅から劇場までの一本道の一つ、レッジャーノチーズ、パルマハム、パルマ牛乳とヨーグルトの大きな自販機が立っているのが印象的。劇場横の食堂で、レッジョ風トリッパと一緒に、ブイヨンにパンの削り節とパルメザンチーズを掛けてトロリとさせた簡単な代用パスタ料理。ブイヨンとチーズの美味しさが際立つ。この地方は本当に食事に恵まれている。

朝10時からの立稽古のため8時過ぎの特急に乗り、丸一日稽古をして、21時過ぎのミラノ行き特急で家路に着く。立稽古でクラウディアが歌手に演出をつけている間は、ひたすら来月ボローニャで初演するカザーレの譜読み。「音楽お願い」と声が掛かると、舞台裏に誂えられたオーケストラピットで、ヴィデオカメラに向かって振る。
白と黒のモノトーン基調のクラウディアの演出はとても美しい。指揮者と演奏家は舞台の後ろで演奏するので、指揮者と歌手は直接アイコンタクトは取れない。だから歌手へのキュー出しは全て、リューバには1、ジョーには2、ニコラスには3という塩梅で数字を決めて行う。
演奏家の立つ裏舞台には、舞台に吊るされた9つの照明を手動で上げ下げするキアラがいる。彼女は舞台を目視しながら照明の綱を操作するので、こちらにもさまざまな演奏の切掛けを出して貰う。彼女は普段は舞台女優だが、まるで巨大なマリオネットのような照明装置を、見事な手さばきで動かしている姿は、モダンダンスを彷彿とさせる。

 9月某日 ミラノ自宅
6月で小学校を修了し、息子が中学に通い出した。最初の二日くらいは家人が学校まで着いて行ったが、程なく一人で路面電車に乗り、学校へ通うようになった。16時半まで授業のあった小学校と反対に、中学の授業は昼過ぎで終わる不思議。小学校は最終学年まで登下校で親の付添いが義務付けられていて過保護なほどだったが、中学に入った途端に一人で電車で登下校となり、落差に親は戸惑いを禁じ得ない。その上、午後にフルートのレッスンがある日など、1時間程、学校近くの喫茶店で軽食を食べながら時間を潰しているというではないか。レッスンを待つ間、校内に残ってはいけない規則があるらしく、どうも解せない。まだ状況が把握出来ずに毎日狐につままれたような心地で、急に大人っぽくなった息子の言葉に従っている。

 9月某日 ミラノ自宅
川島くんから連絡があって、ブソッティの「自動トーノ」を紹介したテレビ番組が無事に放送されたと連絡あり。レッジョの劇場の控室でニコラスとブソッティについて話し込む。今年85歳を迎えるブソッティこそ、イタリアのベルカントオペラの伝統を唯一受継いだイタリアの現代作曲家になるだろう。
公開リハーサル前の1時間休憩で、ヴァイオリンのギドーニと連立って、市庁舎脇のへろへろとした辻にあるパンカルディに出かけた。地元では有名なハムとチーズの店で、持ち帰ることはもちろん、店内で食事を摂ることもできる。ギドーニは、往年のヴァイオリン奏者アルド・フェッラレーゼを愛していて、バッツィーニの協奏曲の他に、マリオ・グアリーノ、ヴぉルフ・フェッラーリ、レスピーギ、マリピエロ、ザンドナイ、ゲディーニ、ダンンブロージオのように、特に、いわゆる80年代の作曲家以降の協奏曲を演奏するのを得意としている。

彼が愛してやまない、恩師、フランコ・グッリの話。彼がどれほど深い人間性を持った演奏家、指導者であったか。どんなに下手な生徒の演奏でも、常に褒めるべき場所を見出し、人前では決して悪い部分については話さずに、人がいなくなったところで、こっそりとこうしたら良い、と教えていたという。指揮が得意ではなかったペトラッシが棒を振って、メンデルスゾーンの協奏曲を演奏した時、オーケストラが合わなくなった瞬間、グッリはわざと調弦が伸びた真似をして演奏を止め、まるで自分の責任だったかのように謝って、冒頭から演奏を始めた。
ギドーニは恩師に演奏家、教師の理想の姿を学んだという。なかなか同じようには出来ないけれど、グッリのようにありたい、と常に心の中で願っていてね。美味しそうなパイを頬張りながら、ギドーニの話は何時までも尽きない。

 9月某日 レッジョ行き車内
昨夜は9時まで練習があって、そのまま自家用車でミラノに帰るチェロのアンドレアの車に乗せて貰い、すっかり話し込む。
1600年代、独奏楽器としてのチェロはボローニャの聖ペトロニオ大聖堂のオーケストラを中心に発展したのだと言う。聖ペトロニオがヨーロッパで特に秀でたオーケストラを抱えていて、そこでドメニコ・ガブリエリやジョゼッペ・イヤッキーニのような優れたチェリスト兼作曲家が輩出されたのだと聞いても、今の聖ペトロニオ大聖堂からは想像すべくもない。恐らく資金難からか、その名だたる名オーケストラが解体されて、腕利きの演奏家たちが職を求めてヨーロッパ中各地の宮廷へ散ってゆき、各地でチェロ作品が生まれるようになったのは、イタリアらしい逸話だ。バッハのチェロ組曲にも、そうした聖ペトロニオで働いていて解雇された音楽家の影がちらほら見えるという。5番の調弦が、聖ペトロニオのオーケストラで使われていた調弦と同じなのは、有名な話なのだと言う。

 9月某日 ミラノ行き車内
市立音楽院の入試にやってきたY君は、もう随分イタリアには通って来ているけれど、最初にイタリアで驚いたのは道で出会う物乞いの姿だったと言う。日本にも物乞いはいる筈だけれど、彼がそう言うのだから恐らく殆ど目立たないのだろう。ホームレスの姿は日本でも見かけましたが、物乞いは見たことがなくて。初めはどう対処してよいか分からなくて、戸惑ってしまって。
その気持ちは少し分かる気がする。子供の頃、街角で出会う軍歌を流す傷痍軍人の姿を、無意識に怖いと思っていた。手足のもげている姿を見るのも辛かったのもあるのだろう。ミラノでは、路面電車や地下鉄に、下半身のない身障者がいざり歩きをして、酒臭い息でお金をせびる姿を見かける。

 9月某日 ミラノ行き車内
モンタルティのオペラ本番。18時からの本番の1時間前から音響チェックのリハーサルがあるので、15時半にレッジョに着くよう家を出て中央駅に着くと、トリノ駅で何者かが線路に侵入し、列車の発着を妨害して今後の目処が立たないと言う。仕方なく目の前の急行に飛び乗ってレッジョに向かうと、丁度音響リハーサルは終わったばかりだった。
それでいざ18時から本番を始めようとしたところ、主役のジョーの携帯電話が控室で盗まれてしまった。舞台監督のダニーロは、まさかジョーに冗談を仕掛けようと、携帯電話を隠したりしていないよね、とあちこちの控室を不安そうに尋ねまわっている。フランスの電話会社に電話を止めてもらい、クレジットカードなども止めてから本番を始めたので、25分開演が遅れた。当然、口の悪い演奏家たちから、ヨーイチの乗った電車は実は遅れてなんかいなかったんだぜ、本当は人知れずここに紛れ込んでいてさあ、と笑い飛ばされる。

 9月某日 ミラノ自宅
野平、西村共作作品譜読み。西村先生のフレーズ感や方向性、音楽の強さは、周りの空間全体にまで影響を及ぼす強さを持っていて、野平さんは、全体空間を規定することから、細部の音の一つ一つにまで意味づけがされてゆく。まるで反対の方向性を持っている気がするのだけれど、寧ろ二人の間には障壁やコンフリクトはない気がする。
作曲で最初に音を置く瞬間には、無意識であれどうであれ何らかの条件付けが成される筈だから、例え別の作曲家から独奏部を与えられたとしても、彼らにとってそれは問題とはならなかったのかも知れない。独奏部に寄り添う、という意味がそれぞれ違ってとても興味深い。西村先生はピアノと一緒にオーケストラが進んでゆく感じ。一方、野平さんはピアノをオーケストラが包み込む感じがする。

 9月某日 ミラノ自宅
一日、市立音楽院入試。韓国からやってきたオペラ指揮者、ローマからやってきたミュージカル作曲家、3歳でイタリア人に養子に入ったルーマニア人ジプシー出身の歌手、ロンドン王立アカデミーでハープを勉強した男の子、部屋探しのため両親と一緒にミラノを訪れた19歳の初々しいサルデーニャ島出身のホルン吹き、何を自分がやりたいか判然とせず、大学の文学部と作曲科も受け、入試に通ったもので人生を選択すると決めたミラノの進学高校を出たばかりの若者。さまざまな境遇のさまざまな音楽家が入試を受けに来た。それぞれの人生の厚みに感動している自分がいる。

 9月某日 ミラノ自宅
今日はこれからボローニャの国立音楽院作曲科高等課程、院生のための授業に出かける。新しい楽譜と向き合う指揮者の姿勢とは、そもそも指揮の役割は何か、など4回に亙って授業する。とパオロに約束はしたものの、頭の中は全く整理出来ていない。音を読むのに必死で、指揮者の姿勢について考えたこともなければ、役割なんぞ考えたこともない。とは流石に言えないので、ともかく楽譜を何冊か携えて、電車の中でメモを取ろう。但し今日は国鉄はストライキらしく、特急も走るのかすら甚だ心もとない。さあどうする行き当たりばったりイタリア生活。

(9月30日ミラノにて)