しもた屋之噺(189)

杉山洋一

春先から今まで何となく空一面を覆っていた厚い雲が、少しずつ薄くなってきて、わずかな雲の切れ間のそのずっと奥に、抜けるような青空が広がっているのが、微かに垣間見られる気がします。
辺りはすっかり秋めいて夜の闇はとても濃く、運河沿いのアパート群の橙色の明かりが、温かさを放って見えるようになりました。

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9月某日 三軒茶屋自宅
芥川作曲賞本番。想像していた以上に会場に配置される奏者の距離が遠く、途方に暮れる。今回モニターは使わないと決めてあったので、左手に白手袋をはめて遠目にも見やすくしサインを送る。楽譜がめくれないので、親指と人差し指に桃色と黄色のゴム指サックの滑り止めを付けた。
永野くんの端麗な演奏にオーケストラが弾けるようにぶつかる音像が、さざめくように会場に響くばらまかれた弦楽器の音と相俟って、ホログラムのように浮き上がる。
ピアノの田中くんは、スクリャービン4番のソナタが漆黒の宇宙空間に散り蒔かれたような音群を、鮮やかな室内楽のごとく弾ききった。演奏会後、田中くんは永野くんの古いCDに彼のサインを求めていたのが微笑ましかった。
古部君のお宅に伺い、久しぶりに百子ちゃんにも再会する。真面目な話ばかりしていた筈だが、勧められるまま杯を重ねて、見事な秋刀魚やら海老の刺身やらご馳走ばかりの印象が残って、酔いが醒める頃には古部くんにプレゼントした指揮棒のことしか覚えていない。

9月某日 三軒茶屋自宅
酒の勢いか、或る音大の作曲教授から「秋吉台夏の講習会なんて知らないし、ここの学生はゆく必要もない。この大学はそれだけ豊かなプログラムを提供している」と言われる。
暫く前に、同大学の作曲科主任が、「作曲科を受験する学生が減って困っている。昨年二人取った新入生も全員辞退してしまい、学部はすっかり肩身が狭くなってしまった。今や自分が高校へ受験をお願いしに出かける始末だ」とこぼしていたが、少子化が進んで、いよいよ大学数ばかりが目立つようになったのか。
その集いには卒業したばかりの若い音楽家たちも交じって、教師と並んでワインを呷る。
「あのコンクールの課題に出た現代曲。あんなのは音楽じゃないです。弾けないし弾きたくもない。僕は演奏拒否の署名運動に参加しました」。若いピアニストが口角泡を飛ばして激するのを黙って聴く。

9月某日 三軒茶屋自宅
伊左治君の指揮姿が見たくて、サントリーホールへ出かける。湯浅先生のお祝いで再会した時から約束してあったが、伶楽舎の演奏も素晴らしく彼の指揮が際立つ。大学生活初めからの付合いの伊左治君の雄姿は、まるで息子の快復を激励してくれるようだ。
日本に一月も滞在するのは久しぶりで、運動不足がたたって身体が辛い。ハースの練習に毎日早稲田まで自転車で出かけたが、思いの外早かった。週末半被姿の老若男女が神輿を担いで練り歩く姿を、何度見かけただろう。誰もが清々しく、凛々しい表情をしていて、涼しい週末、先導する太鼓の音も心地よい。
そんな喧噪を遠くに聴きながら、ハースと昼食の江戸前寿司をご一緒した。彼がエリック・ガーナーのために書いた「息ができない」はどういう切っ掛けで作曲されたのか尋ねると、黒人の妻をもつ彼は彼女が体制に怯えておびえているのは知っていたが、或る日仕事をしていて、目の前に静かな、しかし大規模なデモ行進が歩を進めているのを見て、思わず道へ飛び出しその人の流れに自らも身を投じたのだと言う。それが「エリック・ガーナー」との出会いだったと言う。寿司が大好きで、「イカ下さい」と日本語で注文していたのが印象に残った。

9月某日 三軒茶屋自宅
木戸さんから思いがけなく、和琴について書かれたご自身の文章「ウル日本音楽」のコピーが届く。「純粋な初期日本音楽」は、最近読んで強烈な印象を残した、田中克彦「言語学者が語る漢字文明論」の、本来の意味での「日本語」と共通するものがある。「ウル日本音楽」は、渡来人によってもたらされた雅楽を排して残るもの。「漢字文明論」は、日本語から漢字というツールを剥ぎ、視覚的先入観を排して残る、本来の「日本語」。
漢字は絵文字のようなものだから、「海」と印刷された文字を「うみ」と読むか「かい」と読むか、「ハイ」と読むか「オーシャン」と読むか、「ラ・メール」と読むか「イル・マーレ」と読むか、など本来は自由であり、どれでも通じる筈だと言う。和琴も渡来人によってすっかり豊富になった雅楽の「音」のなかで、共鳴し合いよく震える日本の土着の音を、静かに今に伝える。

9月某日 三軒茶屋自宅
東京現音のための「アフリカからの最後のインタヴュー」でも、沢井さんと有馬さんのための「盃」でも、エレクトロニクスのパートは、出来るだけ古臭い音がするよう頼んだ。有馬さんはこちらの意向を良く理解して下さって、物凄く複雑な手続きで、アナログの素朴な音に近いものが鳴るよう手助けしてくれた。昔は大変な作業を重ねてこの音にたどり着いたが、現在は複雑な手続きを重ねて、昔の音に近づこうとしている。テクノロジーが求める目標がまるで違うので、手続きは煩瑣を極める。
自分にとって理想的な電子音は、ケージやチュードアが演奏している「イマジナリーランドスケープ1番」の録音のようなへろへろとした音が根本にあって、そこからずっと発展して、60年代の電子音響くらいまでが憧れの対象になり、悠治さんの「フォノジェーヌ」や「時間」と言った作品が頭に浮かぶ。さもなければケージの「フォンタナ・ミックス」のような具体音になってしまい、これでは現在音楽を書くコンテキストから乖離する気がしていたが、現在でも小杉武久さんの音楽は我々の手の匂いが漂う古臭い電気の音で、ハイテクコンピュータに管理された電子音響ではないと思うし、足立智美さんも、無臭無害な電子音響に人間臭さをどう取り戻させるのか、様々な取組みをされているように思う。
「新しいもの」「新しさ」を探求する上で、「音楽」として成立条件について、精査を怠ることもあった気がする。湯浅先生の「未聴感」には、本来音響に限らず様々な成立条件も含まれていたのではないか。
現在でもコンピュータ作曲支援ソフトは、ツールとして認識されているけれども、過去のある時期から我々の思考を越えた「ツール」として、仮想現実を実現するシュミレーターになった。「仮想現実」を音楽として認知するに至り、コンピュータに選ばれたサンプルから我々が選択し、それを実際のオーケストラが演奏する。シュミレーションが演奏のモデルとして添付され、これが理想の演奏だから、これに近づくようにと頼まれるようになる。当然既視感のある音響が生まれる。
以前コンピュータの能力がここまで発達していなかった頃は、こんな音響が生まれるはず、程度の情報しかコンピュータは提供できなかったので、音響の2割か3割は結局作曲者の想像力で補なわざるを得なかった。よって、オーケストラが音を出した瞬間かかる既視感はもたらされなかったに違いない。
我々は既にテクノロジーを使うのではなく、テクノロジーに使われてしまっている。これからもそれは続くだろうし、恐らく将来、我々自身がテクノロジーによって破綻を来すに違いない。原子力のように、我々自身が管理出来ない知性、それが美しいかどうかはさておき、我々の知性を遥かに超えた正しい知性を、育ててしまうに違いない。
その時、音楽とは何を表すものになっているのだろうか。

9月某日 三軒茶屋自宅
ハースは曲も魅力的だが、リハーサルで演奏者と互いに耳を開いてゆく作業がとりわけ新鮮だった。多井くんや永野くんに倍音を聴かせて貰って、そこに若林さんや上田さん辺見くんが音を嵌めてゆく。神田さんはその音響の表面をシンバルの倍音などでコーティングする。
互いに自分の音を主張するのではなく、自分の音の持つ役割と意味が浮かび上がる音を奏すると、音楽が有機的に息づき始める。曲の構成は、一見すると奇妙なバランスに見えるけれど、音そのものが有機的に生成を始めると、確かに別の音楽構造がしっくり来るようになった。
息子より連絡あり。ミラノを訪れた知人のSNSを息子が偶然見つけ、それが罵詈雑言の羅列だったものだから、息子が本人を叱責したと言う。息子が理路整然と世代の違う知人に説教を垂れ、謝罪の言葉まで引き出したというから仰天する。気が付かないうちに、彼の思考もすっかり大人になっていた。
「言霊」はやはり存在する気がする。神様でも仏様でもお天道様でも構わないが、天に唾を吐けば因果応報は巡るとどこかで思っていて、それは「因果応報」そのものではあるが、人生に於ける「確率」も無意識に作用していると思う。
自分は既に交通事故に遭っているので、同程度の交通事故に遭遇する確率は他人より極めて低い、といった思い込みだが、そう思うだけで気が楽になる。今回息子が体調を崩しても、ここで厄を落としておけば暫くは大丈夫だろうと高を括っているのが、果たして良いか悪いか分からない。

9月某日 倉敷ホテル
カルテットが別のプログラムをリハーサルしている間、部屋でビエンナーレの譜読みを続ける。グオのヴァイオリン協奏曲の2楽章は1/4拍子のプレストが続く。振り難いし見難し、リズムも4拍子だったり3拍子だったりするので纏めて振ろうかと考えていて、昼食の時に天ザルを啜りつつウェンティンとニアンに相談すると、これは中国の伝統音楽から来ている1拍子だから纏めては駄目だと言われる。フレーズが見えてはいけないと言って、ニアンは二胡を弾く真似をしてくれる。聞けば、ウェンティンもニアンも、誰に習ったわけでもなく家では伝統楽器で遊んでいたそうだ。
グオのオーケストレーションは独特で、ヨーロッパ的に迎合しないところに好感を抱く。
何故我々がヨーロッパ的書法を標榜しなければならないのかと考えれば、案外それは思い込みではないのかと思うこともある。ヨーロッパ人も、自分たちと同じ音楽を特に望んでもいないのではないか。
韓国や中国を持ち上げるつもりもないが、何時から我々は自国を特別視するようになったのか。それもどれだけヨーロッパ化出来たかが評価対象で、自国の文化の発展とは常に同じレールを走ってきたわけではない。その昔、彼の地を通って様々な文化が日本を潤した時は、もっと豊かな文化交流がなされたような気もする。特に、現在日本人が内向きだと呼ばれるのは非常に気に懸かる。

9月某日 倉敷ホテル
「子供の情景」は、どういう作品にすべきか最後まで悩んで、結局、最初に自分が考えた音を書いた。
そう書くと矛盾するようだが、春先から息子と息子の身体と付き合ってきた中で、これらの音は生まれた。特に、息子の病室で過ごした長い時間がなければ、この作品は書けなかった。一月近い時間、窓も開けられず、30メートル四方以外はどこにも出かけられない監禁状態の中で、心が砕けそうになりながら、彼の心が外の風景へ飛び出してゆくのを見ていた。病室は無味乾燥としていたが、息子がその向こうに映し出している心の風景はとても瑞々しかった。
1曲目「見知らぬ国と人々」を聴くと、自分にとっては病院の二重窓の向こうで行き交う人々を眺めている息子の顔が浮かぶ。
6曲目「大事件」と10曲目「むきになって」は、シューマンの名前から採られた数列で作曲。
「大事件」は先に亡くなった、メッツェーナ先生へのオマージュ。彼は音色を豊かに輝かせるため、パート毎に音色を作らず、敢えてソプラノの音色をテノールへ、バスの音色をアルトへと常に廻すように教えてくれた。
4曲目「おねだり」は、泣きじゃくっているところ。本当に泣いていることもあるが、大方ねだるときにわざとする泣き真似。
7曲目のトロイメライ「夢」は、息子が去年の春にカニーノ先生と一緒に弾いたクルターク=バッハへのオマージュで、影のように倍音が寄り添う。病院のリクレーション室に置かれた調律の狂ったピアノを右手だけ、好きだったスカルラッティの断片を少し、寂しそうに弾いていた姿が目に焼き付いている。
どの曲も子供の視点で書き、特に最後まで苦労した9曲目「木馬の騎士」は、子供の背丈から眺めた部屋の風景を描いたつもりだが、12曲目「眠るこども」のみ、息子を眺める自分の視点で書いた。ヴィオラの低音域の5分法ハーモニクスとアルペジオを薄く重ねると、丁度息子の寝息のような手触りが浮かび上がる。
この歳になるまで、作曲家の感情が作品に直截に影響を及ぼさないと信じてきた。ヨーロッパ人の信仰心が音楽と無関係であるはずはないが、モーツァルトが「レクイエム」を書いても、自身の環境や境遇は作品には如実に反映されずに、ずっと昇華された核だけが、楽譜に記されているのだと思っていた。しかしここ数年で、かかる自分の信条ががらがらと崩れ去るのを実感した。
ロマンティシズムではなく、寧ろ、より現実的写実的な何かが、演奏に訴えかける強さを持つのを理解できるようになったのかも知れない。今井さんは、好きなように書きなさいと仰って下さったが、こんな厄介な作品は届くとは想像していなかっただろう。にも関わらず、彼女を初め演奏者全員どれだけ誠実に取組んで下さったかは、感謝の念は到底書ききれない。

9月某日 ミラノ自宅
一ヶ月ぶりに息子に会う。ここ数日吐き気が取れずに体調が優れないと聞いていたが、思いの外しっかりしていて安心する。身長も伸びて大人びた感じもするが、自習していた指揮の課題のミクロコスモスを見てくれというので、5拍子はとても良いが、最初がそれでは始められない、とコメントを言うとむくれて指揮なんか厭と布団を被った。
日本にいる時から楽しみにしていた「ヘンゼルとグレーテル」を観に行く直前、合唱で出演する息子は彼は相変わらず困憊してなかなか布団から出られない。結局自転車の後ろに乗せて猛烈な勢いで劇場まで走ってゆき、事なきを得る。ちょうどミラノ・コレクションで街中道が混雑していて、もしタクシーを拾っていたら間に合わなかった。
演出も大道具もとても美しく、ライティングの妙には誰もが見惚れた。息子も元気よく舞台を駆けずり回り、大したものだと感心する。舞台が終わるとぐったりしているが、本番中は気が張っていて分からない。
貧困問題を直裁に取り上げた演出で、前半フィナーレは貧困者たちが天に召されるところで終わり、オペラのフィナーレは、幼い兄妹の亡骸を抱えた貧困者の行列が近づいてくるところで終わる。
ミラと並んで観劇していて、気がつくと彼女は涙を流していた。フランコと結婚してから、オペラなど全く見たこともなかったミラは、定期券で数えきれないほど劇場に通うようになったと言う。でもフランコをこうして思い出せるのは嬉しい、そう言ってまた涙を流した。

9月某日 ミラノ自宅
2年間一緒に勉強した作曲の今堀君がクラスを修了し、去年から入った矢野君は、コンクールを控えてファビオの楽譜と首っ引きになっている。現代曲を振るのは初めてなので、敢えて彼にはピアノのリダクションを頼んで、自分がスコアから聴きとりたい音を、自ら並べて理解して貰うと、随分シンプルに音楽が感じられるようになったようで嬉しい。今年は新しく浦部君が入学して、早速「クープランの墓」を持ってきた。縦に和音を並べて圧縮せず、横に並べながら音の間に質量を感じてもらう。矢野くんと同期のグエッラはフランスのコースの準備をしていて、ボーノはロンドンのコースを準備している。皆充実していて、思わずこちらも励まされる思い。

9月某日 ミラノ列車中
再検査で、息子の脊髄の炎症の完治が確認された。まだ左半身に軽い麻痺は残り酷い倦怠感と戦っているが、これから先はとにかくリハビリで身体を作り行くことが中心になる。
毎朝倦怠感が酷いのか、学校へ行かないと大騒ぎして親を困らせる。仕方ないので抱きかかえて外まで連れ出すと、漸く諦めがつき渋々自転車の後ろに乗るが、酷い時は道路の途中で飛び降りて逃げようとする。8月半ばから今まで親に甘えられず、リハーサルに励んでいたのだから仕方ないとも思う。殴られて蹴られこちらは身体中痛いのだが、これだけ力が余っていれば大丈夫だと内心ほくそ笑む。
息子と一つ違いの生徒がコンクールを受けていて、どうせ自分はピアノが弾けないと自暴自棄になり、教えるのなんか罷めてと暴言を吐く。自分も小学生の頃、同じように云って母親を困らせていたのを思い出す。

9月某日 ミラノ自宅
夏前に頼んでおいた息子のための自転車をマリオが届けてくれる。イタリアで60年代に大流行した「La Graziella」というタイプのレプリカで、シャーシなど全て息子が注文した明るい黄緑色で統一されている。60年代イタリアらしいデザインが美しい。中学校は車の少ない裏道のサヴォーナ通りを走り、スタンダール通りを左に折れてフォッパ通りを越したところ。一昨日から始まった「ナブッコ」のリハーサル会場は、スタンダール通りを右に折れてすぐのところにある。「ナブッコ」の演出はダニエレで、息子ときたら練習初日から早速ダニエレに話しかけたらしく得意になっている。
ずっと自転車の後ろに座らされていたので、多少疲れても自分の足で好きなように自転車を漕げるのは嬉しそうで、疾走する息子の姿に、ただ感慨を覚える。

9月30日 ミラノにて