しもた屋之噺(207)

杉山洋一

東京の母から満開の桜の写真が送られてきました。ミラノも冬枯れていた木々が途端に新緑がふくと、愕くほどの勢いで桜や木蓮の花が瞬く間に開いてゆきます。元号が変わると聞いて、実際の平成を殆ど知らぬまま過ぎてゆく気がしています。今日から、ヨーロッパは夏時間に変わりました。

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3月某日 ミラノ自宅
ニューヨークのライアン・マンシーからメール。
「君が選んだ黒人霊歌はとても美しく、哀しい。最近の愛国主義的で攻撃的な感じを、この曲はそのまま現しているね。詩的だし何よりこの街はエリック・ガーナーの故郷だ。むつかしい技術をひけらかすより、そんな意味を見つめて、解釈に奥行きを与えようと思っているんだ」。
 
3月某日 ミラノ自宅
週二回、ブルガリア人のアナが家を手伝ってくれるようになり、もうすぐ2年になる。当初、掃除の手伝いを他人に頼むのはどうにも気が引けたが、息子が病気で家の掃除を徹底するためどうしても必要だった。餅は餅屋で、今では見違えるように綺麗になり、本当に感謝している。アナは品のあるイタリア語を話す。
社会主義崩壊後のブルガリアは、まるで仕事がなくなったとこぼす。崩壊前に長女をブルガリアで出産した時は、出生届を市役所に提出し、娘に許可される名前一覧を受け取ったと言う。それに従って一度は命名したが、国から宛がわれた名前が厭で、裁判を起こして改名した。「共産主義とはそういうことよ」。「でも仕事にはあぶれなかったの」。


3月某日 ミラノ自宅
Cruccoと言うイタリア語がある。フランス語でBocheにあたる言葉で、伊和辞典にはドイツ野郎 (蔑)と書いてあって、巧妙な訳だと思う。ドイツ語圏の人間を蔑む言葉だが、ミラノやヴェネチアは、19世紀まで積年のハプスブルグ支配に怨恨を募らせていたから、どこからともなく生れたのかも知れない。今もドイツ人の陰口を叩く時、声を潜めて使われる。Bocheが人名なのと同じで、Cruccoも元来はKrugerのようなドイツ系の人名が変化したものではないか。
 
失われたイタリアをオーストリアから奪還するための第一次世界大戦は、オーストリアそしてドイツの文化、Crucchi文化の全否定を意味した。毎週オーストリア軍との死闘を描く絵が週刊誌の表紙を飾り、1915年以降ドイツ系の音楽家はイタリアから姿を消した。ドイツかぶれの音楽を書けば批評家から袋叩きに遭い、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスを演奏すると聴衆から罵られた。
そんな毎日のなか、レスピーギやカセルラ、マリピエロの世代には、イタリアらしい音楽を完成することが求められる。イタリアらしさとは何か、とカセルラは書いた。イタリア民謡を使った平易な音楽を書くのがイタリア的なのか、モンテヴェルディやパレストリーナが果敢に新時代を切り拓いた姿勢こそ、イタリアの音楽家の誇りではないか。
ワーグナーとマーラーを敬愛したカセルラとレスピーギは、大戦直前、それぞれシェーンベルクとリヒャルト・シュトラウスへ深く傾倒していたが、開戦後レスピーギはすぐにマーラーやリヒャルト・シュトラウスの影をすっかり薄めて見せた。
それに反してカセルラは無調へ歩を進め、シェーンベルクを公然と賞讃する。ルネッサンスのイタリアの音楽家に倣い、イタリア未来派と肩を並べて新時代を模索するのを、真のイタリア精神に喩えたのだ。
1922年にムッソリーニのローマ進軍、そしてファッショへの熱烈な賛同は、当時イタリアの新時代を夢見たものにとって当然の流れであり、カセルラのみならず、イタリアの芸術家、作曲家ほぼ全員がファシストだった時期すらある。
そして1935年にCruccoであったヒトラーと繋がる頃から、彼らがムッソリーニを見る目が変わってゆく。にも関わらず、美化されたエチオピア戦線の便りに踊されるイタリア国民とともに、1937年にオペラ「誘惑の砂漠」をムッソリーニに献呈するまで、カセルラは盲目的にムッソリーニを敬愛して止まなかったのは、親しかったムッソリーニへ必死に取り入り、機嫌を取る必要があったからだ。
37年末にフランチェスコ・サントリクイドから「カセルラ氏のユダヤ風音楽喧伝」と揶揄されたのは、もちろん、カセルラがシェーンベルクやウィーン学派を讃美して、レスピーギや伝統派の音楽家と距離を取ったからだが、サントリクイドの批判は、言うまでもなくナチスの反ユダヤ主義が影を落としている。この頃レスピーギも保守派の一員として、前衛音楽を追及するカセルラやマリピエロを公然と批判した。
翌38年11月10日、カセルラが自伝「甕の秘密」を書き、穏健派のファッショ、ジョゼッペ・ボッターイに献呈したのは、保守派からの自らを守るためだった。
1938年7月に人種主義宣言が発表され、イタリア人はアーリア系であること、ユダヤ人はイタリア人ではないことが認められた。同年、9月5日には人種法が施行されイタリア人とユダヤ人の結婚禁止や、ユダヤ人の商業禁止が公表される。
ムッソリーニはヒトラーのようにユダヤ人を扱わなかったが、それでもユダヤ人の商店は「ユダヤ人商店」とペンキで書かれ、小学生の子供たちまで星形のユダヤ人印をつけさせられた。戦局が激しくなると、ユダヤ人を庇うファシストに業を煮やして、ドイツ兵が直接イタリアでユダヤ人狩をするに至る。
カセルラが1943年ナチスに占拠されたローマで作曲した「ピアノと弦楽、ティンパニと打楽器のための協奏曲」は、圧し潰されるような苦しさがつぶさに聴きとれるに違いない。1944年6月4日、連合国軍によってローマが解放されたその日から、カセルラは最後の作品「平和のための荘厳ミサ」の作曲を始めている。1945年「荘厳ミサ」初演のプログラムで、初めて自らの秘密を公にした。「戦争の悲劇、人種差別の懊悩(わたしの妻はユダヤ人だ)、そして果てし無い闘病生活」。
ナチスがローマを占拠する間、カセルラは指揮者モリナーリの家に身を寄せ、ユダヤ人である妻はペトラッシが匿い、ユダヤ人を母に持つ愛娘は学校の友達の家に隠れて、収容所に連行される恐怖に怯えつつ、離れて暮らした。
その後、戦後イタリアの現代音楽の系図はペトラッシからドナトーニへと受継がれて、現在に至る。あれから75年、イタリア、ヨーロッパは人種問題に揺れる。それは日本も同じだ。

3月某日 ミラノ自宅
漸く「噴水」の解説原稿を書上げる。今年の四分の一が終わるのに、余りの手際の悪さで途方に暮れる。先日書いたワーグナーの原稿と時代的に重複する部分もあって、多少は救われたが、痛感するのは自分の無知ばかり。
他の仕事がこれだけ滞っているのに、熱に浮かされたように必死に朝から晩まで調べているのか、自分でも不思議だった。ただ、20数年イタリアに住んでいて、未だに何か喉の奥に閊えていた小さな棘を、取り除きたかったのかもしれない。
周りのイタリア人に「レスピーギ」という言葉を発した時の、不思議な感触。少しぐにゃりと柔らかいものに手を突っ込んだような触感が、ずっと気になっていた。気が付くとドナトーニを経て、自分にまで細く繋がる糸がぶらさがっていた。
自作を集めたCDが届く。深く考えていなかったが、どれも下敷きになる音楽が素材となっていて、素材をまず見せてからそれを崩すか、崩れたものが素を見せるか。ごく素朴な変奏の手法が続く。
 
3月某日 ミラノ自宅
息子14歳の誕生日が日曜だったので、予定を入れないでおく。誕生日祝いに家族揃って買いに行き、何か昼食を外で食べるつもりでいると、誕生日くらいのんびりしたいので、起こさないで欲しいと言う。
10時過ぎに起床し、買ってきた菓子パンを食べると、今日は疲れたので、出かけないと言い張る。花粉症もあるのか、眠くて堪らないとひとしきりこぼしてから、布団に入ってしまった。
こちらで勝手に誕生日プレゼントを用意しても気に入らないので、今年は本人の意向に沿うべく何も用意しなかったら、こういう結果になった。
夕刻友達たちと、庭のフェンスをネット替わりにしてバドミントンに興じる以外、寝正月ならぬ、寝誕生日を過ごしている。確かにアレルギーは周りの皆も等しく苦しんでいるが、バドミントンは出来るのはなぜか。
寿司でも食べるつもりが、昼食はざる蕎麦に夜はカレー。誕生日のフルーツケーキと友達が集う以外、至って普通の週末になる。
彼の部屋の机の上に、自ら書きつけた紙切れを見つける。「携帯の決まり。夜、父さんに渡す。勉強中は父さんに渡す。ピアノ中も父さんに渡す。食事中は見ない。一時間連続で見ない。」「勉強中」と「ピアノ中」の行は、赤いインクで字を横棒で消してある。ほんの半年前から日本語を使い始めて、めっきり上達した。
 
3月某日 ミラノ自宅
「写真がさかさまですがこの畑、野良坊菜です。毎年菜っ葉を摘ませていただいています。いまも摘んできたところ、甘くおいしいです」。
母から美味しそうな菜っ葉が繁茂している写真付きの便りが届く。最初は「のらぼう菜」とすら読めなかったが、読めてもやはりよく分からない。何でも西多摩地方の野菜だそうだから、子供の頃から食べていたはずだが、忘れるのは早いと我ながら呆れかえる。
昔から通う中華街の食堂では、決って干豆腐と韮の炒め物と一緒にその日お薦めの野菜炒めと白米を頼む。時たま入荷する筍の芽は絶品だが、芽キャベツとカリフラワーと白菜を掛け合わせた風情の、薄い苦みの明るい緑色をした中華野菜が気に入っていて、ワォワォツェー、娃娃菜と言う。

(3月31日ミラノにて)