しもた屋之噺(220)

杉山洋一

すっかり目の前の木々は立派な新緑に覆われ、通り抜ける風が葉を撫ぜるたびに、さらさらと心地良い音を立てながら、枝を揺らします。学校には六月半ばまでには一度日本に帰りたいと伝え、遠隔授業の試験日程について考慮をお願いしたところです。東京で一定期間隔離されて、万事首尾よく進んでも家族の顔を見るのは7月の声を聞いてからになるのでしょう。
本日、日本の知事会が非常事態宣言の延長を政府に求める決定、とラジオで話すのを耳にしながら、家族を帰国させたのは正しかったのか、自問自答を繰り返しています。

  —

4月某日 ミラノ自宅
イタリアの死亡者数837人。新感染者数2107人。死亡者総数は12428人。ロンバルディア州は六日間続いて新感染者数が減り、集中治療室の患者数も減少。東京では感染者78人で7人が亡くなったと言う。
愚息と家人は知己を頼って富山に滞在。世田谷の中学では息子を一時的に通わせられず、富山で便宜を図っていただき、一時的に通学が許可された。深謝。学校から借りた息子の詰襟姿の写真が送られてきた。国際郵便が止まると聞き、信じ難い思い。

4月某日 ミラノ自宅
ナポリでは、道路に面した最上階のベランダから道路にまで届く長い紐の先に籠をつけ、自分たちの食べる昼食のパスタの余りや、食料品や淹れたコーヒーなど詰めて、下まで垂らす。
「できる人は入れて。できない人は取って」と書いてある。
道行く人も、買い物のついでに、通りがかりにパスタの袋や卵を籠に入れ、そのまま家に戻ってゆく。宗教施設の炊き出しなども全て閉鎖され、ホームレスなどは、そこから出来立てのパスタを取り出してゆく。「互助籠Panaro Solidale」。同じものはミラノにもあって、「吊籠Ceste Sospese」と呼ばれている。

4月某日 ミラノ自宅
留学生Aさんより連絡あり。体調は一進一退とのこと。イタリアの学校再開は4月13日に延期決定。目の前に見えていた出口がどんどん遠のいてゆく。富山滞在中の息子は、同級の友人に励まされていると聞いた。
今日のイタリアの死亡者数は760人に上るが、感染者数ではスペインがイタリアを超えたという報道。ベルギーでは既に1143人も亡くなっており、ロシアも601人が命を落としている。ドイツですら1日145人も亡くなる現状に何を思えばよいか。

4月某日 ミラノ自宅
庭を訪れる鳥は例年より多く、心なしか呼び交わす啼き声が輝きを帯びているのは、普段雑踏に塗れて聞いていないからか、我々が避けられているのか。当初イタリア政府が予定していた封鎖期限は越えたが、未だピークは迎えていないという。ミラノ市公共交通機関は、ソウルやシンガポール、武漢の関係者が、どのように通常営業に戻してゆくのか指示を仰いでいる。New Start。イタリア初のワクチン動物実終了との報道。

4月某日 ミラノ自宅
在日米国大使館が日本滞在中の米国市民に帰国要請。
感染学者曰く、血清学的検査で自己免疫がウィルスに勝るのか調べているそうだ。今後イタリアでは仕事の復帰にあたり、抗体の有無が重要かも知れないと書いてある。不思議なものだ。これからは、仕事の必須条件が感染になるのだろうか。医師の犠牲者は80人になってしまった。看護師も併せて25人も亡くなっている。今日一日で死亡者は681人に上る。ウクライナより医師団到着。

4月某日 ミラノ自宅
波を思う。高校生の頃一度海で溺れかけたとき、浜からも遠く高い波に飲みこまれ、引きずり込まれる錯覚に陥った。あの瞬間どうしたのだったか。一度思い切り水中に潜って、自分が位置を確認した覚えもするし、このまま離岸流に運ばれて溺れるのかと、少し気が遠くなった気もする。記憶など、主観で後から幾らでも造作できるのだろう。あの時の感覚と、途轍もなく広い大海原と、目線ぎりぎりの水面の奥に広がっていた、沸き立つ絶望的な光景を思い起こす。

コロナは既にアメリカを舐めるようになぎ倒しゆき、これから日本がどうなるのか怖い。バチカンでフランチェスコ法王が棕櫚の主日のミサを無人で行う姿がテレビに映し出される。
ロンバルディアでは外出時マスク着用が義務化され、シチリアから本土への渡航は48時間前までにオンラインで予約が必須となった。航空会社のBさんと電話。取るものも取り敢えず、着の身着のまま不安そうに空港に到着する家族の姿に、これは戦争だと思ったという。敵不在で、家もインフラも破壊されぬまま、人だけがそこから抜け落ちてゆく戦争。

4月某日 ミラノ自宅
3月19日来初めて死亡者数が525人まで減り、集中治療室の患者数も減少した。下り坂が始まり、政府は第二期の具体的な検討に入った。
近所のトリヴルツィオ養老院で高齢者70人死亡。一たび老人ホームで集団感染が始まると、病院に連れてゆくことも、ホーム内での隔離もされず、治療も受けられないまま死んでいった。もみ消されているとの報道。基礎疾患も末期だったりと、肺炎に罹らずとも先は長くなかった高齢者ばかりだったかもしれないけれど。そこまで記者は云って、言葉に詰まった。一方、入院しながら、快復が見込まれずにモルヒネで安楽死しなければならない高齢者の話も聞く。

4月某日 ミラノ自宅
ここ数日Aさんの具合が良くないと連絡がくる。怖くてニュースは一切見ていなかったという。英国首相が集中治療室に運び込まれた。ニューヨーク・ハートアイランドの公園に無縁墓地を掘られていて、40基の柩が埋められた。フランスの今日一日の死亡者数は833人で、イタリアの636人を大きく超えた。どうなっているのか。イタリアの医師の犠牲者は89人にまで増えてしまった。言葉が見つからない。
マンカと電話で話す。定期健診で久しぶりにミラノを訪れ、どんな悲しい街に見えるかと想像していると、実際は思いの外美しく素敵な街並みに、寧ろ当惑したという。こんなに美しい街だったかと思わず独り言ちたそうだ。

東京の状況は悪化し、明日には非常事態宣言発令と聞いた。一日一回町田の実家に短い電話するのは、万一にも入院となれば、そのまま話す機会を失う覚悟はあるから。生徒に送るヴィデオを、生存確認と題して町田にも送っている。普通なら笑い飛ばすところが、今回ばかりは仕方がない。息子の富山通学は楽しいと聞き安堵する。

4月某日 ミラノ自宅
米国で一日の死亡者数が1150人に上った。イタリアのテレビは「今イタリアは堪える時」と繰返し「家にいましょう」と締めくくる。天気予報も「今日は一日晴れに恵まれますが、家にいましょう」と連呼する。2月を家族3人ミラノで落着いて過ごせて良かった。天の恵みと思うことにする。現在まで医師の死亡者数は94人。ミラノの小売食料品店再開。日本では非常事態宣言発令。

4月某日 ミラノ自宅
富山の中学も二週間の休校。全世界の死亡者数は8万人を超えた。
頭の中の音をどう書けばよいか、どう書くのがよいかを考える。揃わずに演奏者それぞれの顔が見えるオーケストラを目指す、実践的記譜とは何か。パヴィアでは抗体による治療が本格化。現在のところ良好な結果が出ている。

4月某日 ミラノ自宅
ヴァイオリンパートを初めから書直そうとすると、下書きに使う五線紙が足りない。通販で購入すべきかと思うが、書きなぐるための五線紙を、配達員の健康を危険に晒してまで買うべきものか悩む。使えないページは消しゴムで鉛筆を消して、改めて使う。
日伊間の航空便は、311の時でも関西空港便は残ったが、現在は皆無だ。例えばロンドン経由で日本に向かおうと思っても、第一ロンドン・ミラノ便が運航していない。東京、いと遠し。
息子の通うノヴァラの国立音楽院より、試験はヴィデオ審査になったとの連絡あり。我々の学校よりも決定が早く感心。全て劇的に変化してゆく早さに戸惑いを覚える。

4月某日 ミラノ自宅
春の風物詩、綿帽子が飛び始めた。風と共に、目の前には真っ白い綿帽子で一面埋め尽くされる幻想的風景が広がる。今年はこれを息子にも家人にも見せられない。現在この自宅待機下に於いて、インターネットもスカイプもyoutubeもとても助かるが、かかる時代でなければ、恐らくここまで急激なコロナの拡散もなかった。
イタリアでは542人、イギリスで938人、アメリカでは1939人が一日で死亡し、トランプ大統領は世界保健機構を批難。EUは欧州内の移動制限を5月15日まで延長。イタリアではシュノーケルと3Dプリンターで作った応急酸素マスク使用開始。抗体ライセンスは未だ作る段階にないという。

4月某日 ミラノ自宅
目の前の雑草だらけの庭と、その向うに広がる無人の中学校校庭。毎朝甲高い鳥の声が俄かに聞こえるようになり、世界の街角を闊歩する野生動物のニュースや、減少した各地の大気汚染、澄んだヴェネチア運河を泳ぐ魚を思う。
将来の地球について、核戦争で到底人間は外を歩けないような、汚染されたディストピアの姿を漠然と想像していた。併し案外、100年後の地球はちょうど現在のように街を歩く人影は疎らで、野生動物が自由に往来し、辺りは静謐に包まれ、誰も互いに接触ない世界が支配しているのかもしれない。
世界で今起きている事象は、将来まで歴史に残るに違いない。この後も人間が歴史を学び続けてゆくならば、我々の生きるこの激動の時代から、恐らく彼らは何かを学ぶことになるのだろう。
医療関係者の死亡者104人。シチリアはイタリア本土との往来を一時遮断。分断はヨーロッパ各国のみならず、国内各所にまで広がる。富山の病院でも院内感染発表。

4月某日 ミラノ自宅
ラジオニュースで小池都知事の要請を聞きながら、2月フォンターナ・ロンバルディア州知事が市民に自宅待機要請した記者会見を思い出す。
最初の会見の頃は我々も余り実感がなかったが、暫くして中国から派遣された検疫官が記者会見に登場し、「ミラノの様子を拝見したが、こんなに人が出歩ていては全く無意味だ。人が多すぎる」と余りに辛辣に批判した時は愕いた。早速その翌日だったか、翌々日からレストランも喫茶店も全て閉鎖され、気が付けば現在に至る。
微笑みも全くない、不愛想で権威的な中国人の検疫官の姿と、それに従わなければ進路すら見いだせない我々の姿に、言葉に出来ない虚しさと、将来への漠然たる不安を覚えた。ボルツァーノとボローニャの劇場から、寂しそうな便り。

4月某日 ミラノ自宅
医師でも政治家でも事業家でもなく、社会に何ら貢献できないので、せめて感情を排し目の前の事実を音に残すくらいしか出来ない。音に感情を込めると、音と自分との間に壁が邪魔するので、音が見えなくなる。感情を排すのは西欧的発想なのか、日本の例えば弓道の無心などと全く相反するのか、自分では分かりかねる。

Aさんよりメッセージが届いた。
「今日は悪化しました。 一進一退とはこの事ですね。精神的に辛いです。今日は無心で寝ます」。
「申し訳ない」とか「迷惑かけてはいけない」という日本的発想は、イタリアでは一先ず忘れるよう伝える。

毎日世界の死亡者数が目まぐるしく増えてゆく。世界の死亡者が7万人を超えたと聞いたばかりなのに、それは直ぐに8万人となり、9万人となり、現在9万5千人と報道で言っている。
この奇妙な静けさの中、25年前、住み始めたばかりのミラノを思い出す。忘れるのは思いの外早いが、それはそれで良いのかもしれない。

4月某日 ミラノ自宅
東京都で189人の新感染者が確認された。日本人は既に免疫を持つとの仮説を、心から願うばかり。ジョンソン首相集中治療室より戻る。ここ数日イタリアの新感染者数は増加。
ヨーロッパ各国から余裕が失われ、助け合いは困難になった。往来の途絶えたメッシーナ海峡を鯨が泳ぎ、ランペデゥーサ島に辿り着いたアフリカ難民からもコロナの感染者が確認されたという。サヴォナでは老人二人が孤独に堪えられず自殺し、無人のバチカンでフランチェスコ法王が思いつめた表情でVia
Curcisの祈りを捧げている。
コロナウィルスが展開する構造が解明されたとのニュースと同時に、イタリアの本日の死亡者数570人と発表され、世界の総死亡者数は10万人に近づく。

4月某日 ミラノ自宅
復活祭名物「鳩ケーキ」を買うべきか少し悩んでから、一人では食べきれないので止した。
医師の犠牲者が109人、看護師28人まで増加している。アメリカでは一日に2108人が亡くなったと聞くが、東京の感染者数は197人に踏み留まり、日本の死亡者数は指数関数的には増えていない。どうかこのまま乗り越えてほしい。ミラからメッセージが届く。明日がフランコの命日で「天の火」を聴いているそうだ。

昼食時にスーパーに行けば空いているかと思ったが、入口の外には既に3人ほど、それぞれ間隔を開けて並んでいた。口と鼻は必ずマスクで覆い、中の客が一人外に出る毎に一人だけスーパーに入るよう、但し書きが貼ってある。
「お困りのお年寄り、気分の落込んでいる方やお手伝いボランティアなどの相談窓口はこちらまで」と店内放送が繰返している。
日伊間の航空便再開延期が決定。状況を鑑みれば当然だが、改めて暗澹たる心地。
家人と話す。当初は外に出る度に、何故ここにいるのかと涙がこぼれたのだという。

4月某日 ミラノ自宅
意を決して、今年初めて庭の芝刈りをする。土壁の隣を電車が、運河の対岸を路面電車が走る。何も走っていなければ、それなりに現実感も伴うが、一見日常の風景に見えて、実際は乗ってはいけない電車と路面電車であって、とても超現実的な光景である。バスも路面電車も、有事だからか、広告料が払われないのか全ての広告も外し、乗客も疎らで、まるで幽霊路面電車、幽霊バスの如く走る。

芝を借り始めるとすぐ、目の前の2階に住むウェンディがベランダに出てきて、挨拶を交わす。「久しぶりねえ、元気なの?」誰であれ、3月初めからひたすら一人家に閉じ籠っているのは、精神的にも決して容易ではない。
暫くして隣のアリーチェが通りかかった。自宅で面倒を見ていたお母さんの加減が悪化し病院に入院したという。容態は予断を許さないが現在病院は訪問禁止で、見舞いもままならない。パリで暮らす弟は、イタリアに帰国不可能だという。

4月某日 ミラノ自宅
復活祭。昨晩はフランチェスコ法王が無人のヴァチカンで復活祭の祈りを捧げ、マッタレルラ大統領は、国民に向かって、今年の復活祭は「孤独の復活祭」だと表現した。法王の思いつめた表情は、衝撃的ですらあった。

朝四時突然目が覚めて便所に立ち、手を洗う折ふと顔を上げると目が真っ赤に充血している。新型ウィルスの初期症状は結膜炎と読んだばかりで、すっかり狼狽する。両親にはそう簡単には会えないと覚悟はしてきたが、家人と息子にも会えないかと思うと、流石に途方に暮れた。
熱はないので、心を落ち着け布団に入っても、芝刈りで汗が目に入って手で拭ったのがいけなかったのか、スーパーの後ろの体調の悪そうな婦人か、パックの茸を直接手で触ったからか、とつまらないことばかりが頭に浮かんでは消え、まんじりともせず夜が明けた。
取り急ぎ何かあった時のためCovid専用の直通電話番号を確認し、とにかく新作を最後まで書かなければと焦る。頭の中にある音も言葉も、書き出されなければ何の意味も成さないし、何も伝わらない。

文章を書き始める時、最後が既に見えていても、その間の膨大な情報の渦に惧れをなしたり、躊躇ったりするのに似ている。三善先生やドナトーニの顔が過り、とにかく書かなければ罰があたると思う。そこまで考えて漸く少し頭が落ち着いたのか、2時間ほど熟睡した。
朝起きて携帯電話を確認すると、夜半目が覚めた一分後の4時1分、奇妙なことに母からからメールが届いていた。「大木の葉っぱはちょうどよい加減の色。目が休まります」とだけ書いてある。確かに充血は引いていて、漸く愁眉を開く。おそらく芝刈りの汗で軽い結膜炎を起こしていたのだろう。
昼過ぎ町田に電話をすると、珍しく少し緊張した声色の父が開口一番「お母さんがお前に何かあったのではないかと物凄く心配している」というので、却ってこちらが吃驚する。

世界中の人々がそれぞれにこんな思いに駆られ、それぞれの絶望が空の上で絡み合っているかと思うと、胸が押しつぶされる。Aさんの心地を垣間見る。

4月某日 ミラノ自宅
庭で水まきをしていると、ツグミの雛が寄ってくる。昔三和土で死んでいたツグミを土壁の脇に埋めると、不思議なことに、翌春からそのすぐ上手に毎年ツグミが巣を作るようになった。鳥でも何か思うところはあるのだろうか。家人より富山のチューリップ畑の写真が送られて来た。

人それぞれ、自らの寿命は予め決められて生まれてくるのかもしれないし、そう思えば残された者の心が軽くなるかもしれないが、自分はその与えられた時間内にどれだけのことをしているのか、しばしば、もどかしい思いに駆られる。

ミラノのトリブルツィオ養老院では、結局高齢者110人の死亡が確認され、別の介護老人福祉施設では数日間に70人死亡と発表。死亡原因について警察が調査を開始。ホスピス末期の患者が多く、新型肺炎に罹らなくとも10日から数週間で亡くなっていたかもしれないが、感染報告の義務を怠り…と記事は続き、現在併せて12の介護老人福祉施設が警察の調査対象と結ばれている。EUのフォンデアライエン委員長は、年末までは高齢者を隔離すべきと発表した。

瞬く間にアメリカが死亡者数でイタリアを超えたのにも衝撃を受けたが、現在までイタリアでは既に105人の神父が他界している。そのうち25人はベルガモの教区を預かっていた。ジョゼッペ・バルデッリ神父は、人工呼吸器は若い人へ譲りたいと人工呼吸器装着を頑なに拒否して亡くなり、自己犠牲の精神に賞賛が集まっている。ただ、言葉にならぬわだかまりが、身体の奥に澱のように残っている。自己犠牲で完結させては駄目だ、身体の芯で反響する声がする。

4月某日 ミラノ自宅
初めて聴く息子のエオリアンハープの動画が送られてきた。技術的なことは分からないが、ひたひたとした音楽に感銘を受ける。幼少から親の音楽を聴いていると、無意識に音の趣味もどこか少しは近づくこともあるのだろうか。

ベルリンから一時的に東京に戻ったMさんより、「ミラノのAさんはお元気ですか、ちょっと嫌な夢を見たので気になって」とメールをもらう。実はここ数日Aさんと連絡が取れず、心配していたところで、嫌な予感がした。今日漸く連絡がとれたが、案の定熱がぶり返して臥せていたという。カニーノさんとロッコよりメール。皆元気なのを確認して安堵する。
WHOはCovidはインフルエンザの十倍の致死率と発表し、保険省のロカッテルリは学校再開は9月との個人的見解を記者会見で述べた。一体これからどうなってゆくのか。諦観とはよく言ったものだと思う。

4月某日 ミラノ自宅
不思議なもので、同じ作業を繰り返しても素材毎に全く違う顔が生まれる。西洋のオーケストラは一つのハーモニーを皆で奏でるため発展してきた。支え合い色を混ぜ合い、共に旋律を歌うもの。それら全てを逆説的に作曲する。
オーケストラを鳴らす方法はそれなりに理解している積りだが、それが鳴らないのであれば、それが現実なのかもしれない。当初、世界にこれだけの諍いが断続的に続いていると理解していなかった。我々自身が互いに響きを打消し、共鳴を止めている。オーケストラは鳴らすための集団であるべきかどうか、正直よくわからない。

ミラノの感染者増。救急車のサイレンが耳にこびりついて離れない。
602人死亡、死亡者総数21067人。新感染者数減少。2972人。日本の国内死亡者数19人。一日で東京都の感染者数は161人に達した。日本の死亡者数が上昇しないことを心から願う。アメリカの死亡者総数は2万5千人を超え、スペインでも1万8千人という。世界ではほぼ12万人が亡くなっている。信じられない。

4月某日 ミラノ自宅
トランプ大統領WHO拠出金一時停止発表。国際通貨基金が、本年度イタリアの国民総生産はマイナス9.1パーセント、世界経済成長率はマイナス3パーセント、イタリアの失業率12.7パーセント見込みと発表。IMFイタリア代表はドイツがユーロ債発行に反対していると名指しで批難し、ヨーロッパ連合の結束は音を立て崩れてゆく。トリブルツィオ養老院の死亡者数は143人と訂正された。

どのような名目の下であれ戦争には反対だし、どれほど罵られても息子は戦争に絶対に送らない積りで生きてきた。伝染病は戦争ではないが、余りにも易々と簡単に自分も家族も世界の波に飲まれる無力感には、近いものがあるかもしれない。殉教や殉死という言葉が、自分の周りにこれほど身近に息づいているとは、想像もしなかった。このCovidで世界中でどれだけの医療関係者や宗教関係者が命を落としているのか。
憲法改正に積極的な国民ならば、どれだけ有事に迅速な対応ができるか期待していたが、少し肩透かしを食らった気がしている。政治批判には興味はない。能動的であれ受動的であれ、選挙権があり或る程度公正な選挙が保証された国家であれば、責は常に国民にある。

4月某日 ミラノ自宅
日本が全国に非常事態宣言発令。

ベルガモのジョヴァンニ23世病院の、カプチン会修道僧ピエルジャコモ・ボッフェルリのインタビュー。初めて新型肺炎の患者が彼らに会うと、「まず最初はちょっとびっくりするのです。長い入院生活の間、医者でも看護師以外の誰にも会っていませんから。それから、マスクと看護服の間の合間から、わたしたちが修道士だとわかると、喜んでくださるんです。それで、少しほっと表情が和らぎます。我々がいることで、神さまが傍においで下さるのを感じて、よきサマリア人のように、彼らの辛苦の傍に神さまがいらっしゃるのを理解してくれるのです。状況が許せば、この試練を癒す病者の塗油を授けてよいか尋ねます。
しばしば、私たちは深い痛悔を勧めます。そして罪への赦しの祈りを捧げます。この非常事態が過ぎたら、司祭の下にゆき懺悔するようにいいます。その日が早くくることを祈っています。
毎日、われわれのうち誰か一人、霊安室で亡骸に祈りと臨終の祝福を授けています。もし、彼らの家族が亡骸に寄り添い涙を流せなくとも、しばしばそこには医師や看護師たちの姿をみます。彼らが悲しみに打ちひしがれている姿を、何度も見ているのです。彼ら自身が、パンデミックに斃れた人たちを死の淵まで見届けたのですから。しばしば看護室長から呼ばれて、看護師たちと共に聖母の祈りや主の祈りを捧げています」。

別のカプチン僧アクイリーノのインタビュー。
「誰か思って電話に出ると、ある女性でした。彼女は病院にご主人を連れてきて、それきり会うことも叶わず、ご主人は亡くなりました。最後に顔をみることも、キスも叶わなかったのです。電話して下さいませんか、と彼女はわたしに頼みました。ですから、わたしは霊安室に出向き、柩の前で彼女に電話をしてこう言いました。今ご主人の前にいます。もう柩は閉められてしまっていますが、祈っています。祝福しています、と。そう言って二人とも電話で泣き崩れてしまいました」。

未だ実験段階だが、イタリア国内で抗体検査が開始された。数カ月前の日記でさえ無性に懐かしく、愛おしい。心なしかうまく話が出来ない気がするのは、誰にも会わず、話もしていないからか。

4月某日 ミラノ自宅
知ってしまう畏れを思う。インターネット初期、父が電子写植からDTP印刷に移行するのを躊躇っていた後ろ姿とも重なる。良いものは残ると信じつつ、安価で容易に用が足せる方法に次第に慣れてゆき、早晩DTPそのものの質が向上して、気が付くと立場は逆転している。
この人数で十分ではないか、この程度で十分使えるではないか、と無意識に納得させる思考の怖さを思う。そして反対に、物事を忘れ去る速度や、人間の社会活動が停止した途端、地球が自浄を始める早さについて思いを巡らせ、我々自身が害と自覚する恐ろしさについて思う。そして、未だ音楽をする意味と、自らの無力について考える。

こういう時代が訪れるとは思っていたが、こんなに早く、突然訪れるとは想像もしていなかった。これから先、息子や生徒たちに何を伝え、何を正しいと教えればよいのか。我々が信じてきた正論は、果たして正しかったのか。
息子や若い人たちに申し訳ないと思うのは、我々が慢心を折り重ね築いてきた世界が、彼らのささやかな夢を奪ってゆくからだ。自分が生きている間は、前時代的であれ何とか生き永らえると信じてきたが、今後は自分すらどうなるか分からない。すっかり喪心して、今書いているソ連邦の音列を、幾たびか書き間違えた。

イタリアが実験的に発表した、感染者との接触を避けるための携帯ソフトstop
covidを無意識にインストールしようとして、我に返る。昨日まで我々が社会構造を維持できていたのは、ぎりぎりで互いに薄く噛み合っていた偶然に過ぎず、構造と呼ぶには余りに脆弱な砂上の楼閣ではなかったか。東京でも一日の感染者数確認が200人を超えた。相変わらず、どうも口がうまく回らない気がする。

4月某日 ミラノ自宅
イタリアの私立学校の3分の1は、今後資金不足で立行かなくなる可能性がある。既に世界では15万人が亡くなり、ベルギーが現在、特に酷い状況下にあるという。

Aさんよりメッセージが届く。
二ヶ月ぶりに普通の呼吸をしてる感じがします。
気管に蓋が付いたようで、開いてる時は良好なのですが、閉まると微妙になります。治りに時間がかかるのですね。自然治癒するものなのかちょっと心配ですが、6月まで飛行機は出ないことだし、人生の休憩期間と思って。なんというか人生観変わりますね。人は結局孤独だし、死は結構身近なものなんですね。楽しく、人生歩みたいです。

4月某日 ミラノ自宅
自分が忘れるから書く。日記も日本語を忘れないために書き始めた。家人曰く、人が死ぬたびに曲を書いているらしい。大学時分、急逝した級友をしのんで曲を書き始めて以来、確かにそうかも知れない。忘れ易いのを自覚しているからだ。誕生に際して曲を書いたのは、息子が生れた時くらいではないか。尤も、あのテキストも獄中のエルナンデスが死の直前に書き残した悲痛なものだが。

子供の頃から父の写植機をいじるのが大好きで、大学時代は、父と二人で一緒に夜なべをして演奏会のチラシの版下を作った。彼も仕事で忙殺されていた筈だが、二人で会社に泊まり込み夜明けまでかけて、数えきれないほど作った。
こうした小さな出来事も全て忘れてゆくから、書留めておきたくて作曲する。別に美しい旋律が浮かぶわけでも、人を驚かせるような野望を抱くわけでも、理念を啓蒙するためでもなく、逆説的に言えば、作曲も日記も忘れるために書く。全てを覚えてゆくためには、途轍もないエネルギーが必要だからだ。忘れることは素晴らしい。

ベルガモの教会に保管されていた夥しい数の柩が、初めて全て搬出され、無人で寂寥とした教会の写真。ミラノ・ニグアルダ病院の集中治療室の一つから初めて患者全員退室して、無人のベッドに医療関係者が歓声を上げる写真。
ボルツァーノ近郊のオルティゼイOrtiseiで実験的に行われている抗体検査で、49パーセントの市民が陽性と読んだ。流石に素人でもこれは高すぎると思うので、自分は罹ったと訝しむ市民ばかりが、こぞって検査を受けているのだろうか。

4月某日 ミラノ自宅
今日のように肌寒さが戻ってくると、気のせいか、普段よりコロナが気にかかる。
2月末、息子がミラノの街でマスクをしても大丈夫か、東洋人と罵られないかと心配していたのが懐かしい。今やマスクなどすっかり品薄で、薬局の店先で皆が並んで買っている。あの頃に戻りたい気がするが、無理なのは承知している。常にあの頃は良かったと顧みながら、我々は進化してきた。

ミラノ大霊園(Cimitero Maggiore di Milano)の87区画(campo 87)に、コロナウィルスで命を落とした、身寄りがない亡骸のため無縁墓地が作られた。
イタリアと一口に言っても、現在はロンバルディアと他州とは随分差があるようだ。ここからどこにも出られないので、現状は分からないが、少なくとも随分状況は明るいに違いない。ドイツで人間に対するワクチンテスト許可とのニュース。
昼過ぎ、救急車が静かにマンションの前に停まった。防護服の救急隊に続いて、若い女性が救急車に乗り込む後姿を見送りながら、気が滅入る。

4月某日 ミラノ自宅
米国の死亡者総数は52000人を超えた。イタリアでは未だ一日に415人も亡くなっているが、感染者数は六日間連続して減少している。キアラより連絡あり。スカラの給料は3月までしか払われていないこと、おそらく劇場再開は12月の新シーズンからということ、癌治療で病院に行かなければならないが、感染が怖くて行きたくないことなどを聞く。

今まで我々は本当に恵まれていたのだろう。息子には、これからきっと状況は悪くなると言い続けてきたけれど、これほどあっけなく状況が変わるとは思ってもみなかった。

4月某日 ミラノ自宅
コンテ首相が「第二期fase 2」と呼ばれる封鎖開放計画を発表。夜の闇の中、運河の向こうのアパートから「Cela faremo! Cela faremo! 負けないぞ!やってやるぞ!」と叫ぶ男の声と、どこからか大きな花火の音がこだましている。澄み切った夜空に、細く鋭い月光の眼光が輝く。

プーリアやジェノヴァでは、亡くなった医療関係者の名前を、新しい道路に冠そうとしている。現在まで150人を超える医師が命を落とし、そのうち、政府からのCovidの招集に応じた医師も多かったはずだ。忘れてはいけない名前は、どこかに刻んでおかなければならない。ヴェローナ記念墓地の記念碑や、ヴェローナ郊外のつつましい遊具のならぶ公園に冠されたドナトーニの名前を思い出す。物凄く長い一つのフレーズが、少し終わりかけてきている気もする。

境界線上にいるのかも知れない。感染者が責められていた昨日と、非感染者が差別される明日との境界線。感染者のみが働く、昨日までの常識が100パーセント覆る境界線。
基準の変換点。歴史上イデオロギーの急激な変換点は幾たびもあった。我々の世代は平和だったからナイーフなままこの歳になり、少し当惑しているのかもしれない。

4月某日 ミラノ自宅
100年前、1918年から1920年まで、世界を覆ったスペイン風邪は5億人の命を奪った。アポリネールはパリで、クリムトやシーレはウィーンで斃れた。プラハでは、結核から治りかけていたカフカの肺を容赦なく襲い、死まで追いつめていった。

ラフマニノフはアメリカに着いて間もなくインフルエンザで床に臥したし、プッチーニ三部作には、第一次世界大戦で疲弊した世界のみならず、スペイン風邪に斃れた姉の死が影を落とす。
伝染病に罹りブダペストで臥せていたバルトークが、病床で「めくるめく感覚が目を襲い、時には突然眼底を刺すような痛みに苦しみ、眼底で小蟻が引掻く我慢できない痒みに苛まれ」なければ、「中国の不思議な役人」の強烈な音響は生まれなかったし、ブラジル滞在中のミヨーが、眼前で斃れる伝染病の悲劇と対峙しなければ、「フルート、オーボエ、クラリネットとピアノのためのソナタ」終楽章の、深く、そして感情を喪失した無機質の、葬送行進曲を書くことはなかった。

母の死への悲しみのみならず、世界に吹き荒れる伝染病の嵐こそが、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」の陰鬱な響きの根底に滾々と流れる、不穏なエネルギーではなかったか。
ラヴェルに「ラ・ヴァルス」の作曲を掛けたディアギレフとロシアバレエ団は、あの荒廃した世界にあって、後世に残る傑作を数多く世に送り出せたのは何故だろう。ディアギレフは病的に感染症を恐れていたはずなのに。

1918年9月ロンドンでディアギレフが「クレオパトラ」を再演したとき、レオニード・マシーンも、感染への恐怖に怯えながら、ほぼ全裸で舞台に立たなければならなかった。
「自分が死ぬシーンの後、凍える舞台上で、染入る寒さに耐えながら、何分間も横たわっていなければなりませんでした。…その後は何も覚えていません。翌日、いつも劇場前に立っていた、ひと際体格のよい警官が、インフルエンザで亡くなっていたのを知ったのです」。

当時スペイン風邪で延期になった公演記録は、実際は沢山あったのかも知れないが、手元の資料では「兵士の物語」程度しか目に留まらなかった。当時は伝染病を管理する衛生意識が著しく低かったか、大戦や革命で、塗炭を舐めていた芸術家は、生きることに必死だったのか。

ボルシェヴェキから逃れたばかりで無一文のストラヴィンスキーが、スイスで小編成の楽劇「兵士の物語」ツアーを計画したのは、紛れもなく生活のためだった。
プロダクションメンバーがスペイン風邪に罹らなければ、「兵士の物語」は、現在とまた違った扱いを受けていたかも知れない。後日スペイン風邪で床に臥せたストラヴィンスキーが、糊口を凌ぐため「火の鳥」を身軽な組曲として改作したのも、作品をより広める上で役立ったかもしれない。

毎日のように生徒から届く「兵士」のヴィデオを眺めながら、そんなことを思う。2か月会わないうち互いに髪も伸び、かと思えば大雑把に自分で刈り上げる生徒もいて、時間の経過を実感する。

4月某日 ミラノ自宅
新型肺炎陽性の現在の患者数101551人。死亡者27967人。快復者75945人。一日の死亡者数は285人。東京のYさんより、イタリアの病院に送る寄付金が集まったとの知らせを頂戴する。日本も大変な時期な筈なのに本当に有難く、深謝あるのみ。

第一次世界大戦と伝染病を当時の音楽家はどうやり過ごしたのか。レスピーギ、カセルラ、トスカニーニの自伝や書簡集に戦況に関する記述は散見されるが、伝染病で将来を悲観する様子も、オーケストラや演奏会が閉鎖された様子もないのは何故だろう。単に伝染病に関する文章を割愛しているのか、現在のように、パンデミックを恐怖の対象として量的に捉える情報を共有していなかったのか。

当時のカセルラは、第一次世界大戦下で忌避されていた敵国音楽、ドイツ音楽が戻ってきたことを喜んでいる。オーストリアがイタリアに降伏した翌日、ヴィッラ・ジュスティ休戦協定が発効した日、カセルラはこう書いた。
「1918年11月4日。ローマの道に溢れる人々はまるで気でも違ったようだった。遂に惨い禍難は過ぎ去ったのだ。ヴィットリオヴェネトの勝鬨の声で終わったのだ。正午頃、ウンベルト王通りのリコルディ社へ、ベートーヴェン32のソナタ最後の手稿を届けるため家を出ると(1915年から続けてきた壮大な校訂作業は、大戦の終結と共に完成した)、沸き立つ歓喜が街の隅々まで支配していた。夜になって路地には久しぶりに街灯が戻ったが、3年間もの気の遠くなる長い時間を経て眩しく輝いていて、まるで初めて目にするものに見えた」。
「1919年1月26日。二年もの不在を経て、漸くベートーヴェンがアウグステオ音楽堂に戻ってきた。エグモント序曲を指揮したヴィットリオ・グイの功績だ。この音楽の帰還が、どれほど力強く、筆舌に尽くせない感動を与えたか、今や想像もできないに違いない。悲しむべき精神的過失が、長い間我々からこの音楽を奪い取っていた」。

この記述から半年ほど前、1918年の春から夏にかけて、同じくローマにあったレスピーギは、スペイン風邪に罹って、2か月近く床に臥していた。
「”1918年 6月11日 ローマ クラウゼッティ殿
御返事大変遅くなりましたこと、どうかご容赦願います。何かは判然と致しませんが、ローマで猛威を振るう炎症にやられて、何日も続いた熱のあと、漸く今日、初めて布団から起き上がった次第です。今日は何とかやり過ごしている感じです。ふらつき鈍重で、まるで酔っ払いです…(中略)…貴方の「小人のバラード」原稿を受取りました。誠に愛くるしく、この詩だけで音楽に溢れています。何とか早く仕事に復帰したいものです。この仕事を、ひときわ情熱をもって手掛けたいと思うのです。なぜなら、この詩は、とても音楽的な言葉を発しているからです。これ以上はもう続けられません。哀れなこの頭はもう何も考えられません。目が回ります。目が回ります”。

後日「スペイン風邪」と呼ばれるようになったレスピーギはあのインフルエンザに罹った、最初の一人であった。その症状は一見軽そうに見え、ほんの数日、熱が続き、それから起き上がろうとすると、何週間もの間、嫌な感覚が纏わりつき、全く力が入らなくなってしまうのであった。
彼が病床に臥している間、わたしは午後になると、出かけていって暫く彼の話し相手になっていたが、数日後にはわたしも床に臥してしまった。一週間後、漸く起き上がってみると、レスピーギより酷い、極度の衰弱に身体が曳きづられる思いであった。それは一ケ月以上も続いた」。

このようにエルサ・レスピーギは回想している。当時エルサはサンタチェチリアでレスピーギに作曲を習っていて、彼らはこの後間もなく婚約した。カセルラの日に同じ、大戦終結の日のレスピーギの手紙はこう始まる。

「親愛なるアゴスティーニ 昨日からローマは歓喜に溢れています。誰もが道で大騒ぎして、大変な筈のスペイン熱のことなど、皆すっかり忘れてしまったかのようです。一ケ月前は一日で600人も死んでしまいましたが、今は随分落ち着きました。昨日は75人だけです。もう酷いニュースは沢山です!…」

2か月ほど前、3月末に日本で弾くつもりで、家人がリストの編曲したロッシーニのナポリ風タランテラを練習していた。レスピーギがスペイン風邪の闘病後、最初に仕上げた大作は、この「ナポリ風タランテラ」を含む、ロッシーニのピアノ曲のオーケストラ編作「魔法屋 la boutique fantastique」だった。タランテラといえば、家人の恩師が眠るターラントを起源とする、発汗効果で解毒させる、激しい毒消し踊りだったのを思い出した。

(4月30日ミラノにて)