しもた屋之噺(224)

杉山洋一

今月は、前半二週間を息子と二人で自宅待機しながら過ごし、後半二週間は、それぞれ毎日学校に出かけて過ごしていました。後半はあまりに家事に忙殺されて、まだ頭もぼうっとしています。月末、家人も東京から戻ってきて、現在彼女が自宅待機中です。久しぶりに家族三人そろったミラノ生活です。

9月某日 ミラノ自宅
イタリアの新感染者数1397人は先週に比べ38パーセント増加。死亡者数10人。ICU は11人増。ベルルスコーニ陽性発表。昨日川村さんが届けて下さった洋菓子が美味で、どこのものかと思いきや、数年前に亡くなったフランコが好きだったプリニオ通り13番のCorcelliで驚く。日本から戻ってすぐ、フランコから贈られてきたようで嬉しい。未だ自宅待機中で家にいるので、庭の芝を刈る。心配したほど雑草は伸びていなかった。先月末に茅ヶ崎南湖の西運寺を訪れたとき、祖父の墓石を訪れた瞬間、綺麗な明るい緑色の小さなバッタが飛び出してきたのを思い出す。余りに突然で、少し不思議だった。

9月某日 ミラノ自宅
父子二人で自宅待機中。息子は朝8時15分から日本人学校の授業をズームで受けている。彼が1歳のクリスマスに庭に植えた松が6メートルほどに育っているのが、自分のことのように嬉しく誇らしいようだ。彼曰く、ミラノは生まれ育った街で、東京は親戚がいる街として認識しているらしい。スーパーの宅配で食材を購入し、二人で静かに暮らしているが、食事をいつも潤沢に準備出来るとまではいかず、どうしても新鮮な青野菜など直ぐに食べきってしまう。半年一人で巣籠していた経験を活かし、何とかやりくりしている。息子は、夕食時になると決まって、3月、彼が日本へ戻る前に比べ、運河の向こうのアパート群に灯る明かりがすっかり少なくなっていて恐い、と繰返しているが、言われてみればそんな気もする。夏季休暇から、未だ人々が戻っていないのかもしれない。この自宅待機期間に、毎日少しずつでもスカイプで町田の実家に連絡している。

9月某日 ミラノ自宅
西川さんより連絡あり。現在の状況を鑑みて、1月の高橋悠治作品演奏会は、合唱を使わない方向でどうするか、早急に検討を進めることとなった。
「フォノジェーヌ」の総譜がNHKから見つかったので、有馬純寿さんにお願いして残された録音から電子音のみを取り出していただき、テープと12楽器の演奏による蘇演を可能か考えている。「たまをぎ」再構成を1月までに仕上げるのは難しいのではないかと思っていたので、少し猶予が与えられて正直ほっとした。
オーケストラは少しずつ再開しているけれど、合唱やオペラの関係者は、未だに大変なご苦労を強いられている。
1月、安江さんの企画で演奏するブソッティの「肉の断片」を読む。工藤あかねさんと松平敬さんの声と、日野原さんのピアノ、そして安江さんの打楽器によって、演奏可能な部分、そして楽譜として魅力的な部分を拾い上げてゆく。

9月某日 ミラノ自宅
息子はアレルギーが酷く、昨夜は抗ヒスタミン薬を飲んで寝た。雨田先生がお亡くなりになった、と加藤君より連絡をいただく。7月に先生とお電話で話せたこと、コロナ禍の始まる直前の今年の年始にお目にかかれたこと、せめても本当に良かったと思う。光弘先生にお電話すると、彼女が弾いていた作品を聴くと、彼女に会える、音楽を通じて彼女に会えるから、音楽家で良かったと仰る。一緒に弾いた録音からチェロの音だけを消して、彼女のピアノに合わせてチェロを弾きたい、一緒に弾く時は何時も彼女が引張ってくれていた。そんなお話を伺って感動している。
高校から学生生活の終わるまで、本当に家族のように可愛がっていただいた。毎年大晦日の夕食は決まって雨田家にお邪魔し、ご馳走と光弘先生の福井のおろし蕎麦に舌鼓を打って、年が越した夜半、実家に戻るのが恒例だった。
垣ケ原さんよりお便りをいただく。先月の拙作を聴き、三善先生の音楽の精神を思い出されたという。恐れ多いけれど、本当に有難いお言葉だった。恩師の足元にも及ばないが、反戦三部作の影響は間違いなくあるだろう。階下で息子が熱心に「革命」を練習している。

9月某日 ミラノ自宅
湯浅先生と玲奈さんとズーム。湯浅先生の新作「軌跡」のグラフは思いの外進んでいて、ほぼ完成に近い。オーケストラ譜は玲奈さんでさえ知らない間に随分沢山書き上げられていて、ズーム越しに、二人で歓声をあげる。細かく書き込まれた動きも多く、音楽の精神の強さに大いに感銘を受ける。ともかく先生はお元気そうな様子で本当に嬉しい。今までと違うことをしたいんだ、と力強く仰っていらした。ついこの間まで、湯浅先生とズームでお話しするとは考えたこともなかったが、時代の進化を思う。
東京のK先生と電話で話す。1年以上ご無沙汰しているうち、先生の緑内障が悪化して、障碍者手帳を受取っていた。病院は治療には熱心だが、障碍者の補助器具やリハビリなどの相談には殆どのってもらえないのだそうだ。今回のコロナ禍で、視覚障碍者のための補助器具専門店も休業が多かったり、第一、現在の状況では気軽に出歩けなかったりして、実に不便だという。

9月某日 ミラノ自宅
自宅待機が終わり、今日から父子共に学校通いが始まる。朝5時に起きて、以前のようにナポリ広場まで歩くが、二週間殆ど身体を使っていなかったので、歩いている自分の身体に、まるで力が入らない。張りがなく、体力がすっかり落ちている。
昨晩の残りのソースでパスタを作り、サラダを足した父子二人分の弁当を詰め、残りを朝食にして、半年ぶりに学校へ出掛ける。校門は閉まっていて、一人ずつ呼び鈴を鳴らして入れてもらい、アクリル板を立てた受付で体温を測って校内に入る。校内はがらんとして殆ど人気がない。

半年ぶりに会う生徒もピアニストの二人も元気そうだ。窓を開け放って充分換気はしているので、それぞれ離れて座っているピアニスト二人と指揮台の学生は、苦しければ、マスクは外しても構わないことになった。こちらはレッスンをして、話す立場なので、マスクはつけている。
苦しければ、という話だったのだが、ピアニストからすると、指揮する学生の顔半分がマスクで隠れるのは、それ自体心地良くないらしい。表情が半分以上見えないので、演奏しづらいのだと言う。今は未だ暖かいので構わないが、これから寒くなってきたとき、どのような対応をしなければならないのか、まるで想像できない。

半年間実際の指揮もできず、黙々と貯めてきた研鑽の成果への意気込みからか、単に感覚が未だ戻ってきていないのか、最初のレッスンは誰もが少し空回りしていたのが、いじらしくも見えた。昼食は中庭の木陰に置かれたベンチで食べる。自宅待機が解けたばかりで街の様子も分からず、外食は無意識に避けてしまう。特に肉を食べないためか、弁当を持参するのは思いの外便利でもあると気が付いた。
ただ、体力が落ちている上に、学校で10人教えて家に戻ると、体力と精神力と集中力を使い果たし、すっかり困憊しているので、暫く何も出来ない。

9月某日 ミラノ自宅
息子に懇願されて、橋のたもとのピザ屋へ出掛け、以前のように、マルゲリータ地に、焼いた玉ねぎと野菜を載せてもらったピザとキノットを持ち帰った。
ピザ職人もレジ係も以前のままだったが、いつも5、6人は屯っていた配達員は、一人しかいなかったし、ピザが出来るまで10分くらい店内で待っている間、一度も注文の電話もかかってこなかった。それどころか、後から入ってきた恰幅の良い目つきのするどい男とピザ職人が、店の端で何やらこそこそ話し込んでいて、不動産屋に店を売りに出してもらっているように見えた。持ち帰って家で久しぶりに食べたピザは、以前のような喜びにあふれた味ではなくて、何とも悲しい雰囲気が漂っていたのは、恐らく気のせいだろう。ただ、以前よりずっと大きなサイズになっていたけれど、生地に張りがなく食材も新鮮ではなかった。
間違いなく、Covidが彼らを経営不振に貶めたに違いない。入口脇に堆く積まれたままの、持ち帰りピザ用段ボール箱が物悲しさを誘う。

9月某日 ミラノ自宅
今まで溜まっている補講をこなすため、今月は学校には月曜から土曜まで毎日通う。月、水、金と指揮科の生徒を教え、火、木、土と映画音楽作曲科の生徒に、指揮の手ほどきのセミナーをした。この映画音楽作曲科の生徒たちが思いがけなく音楽的で、教えていてもなかなか面白い。映画音楽の作曲が専門だけあって、音楽から映像を想像するのが得意なのだろう、シューマンの「子供の情景」をそれぞれに情景を想像してもらってから振らせてみると、想像する前に振った音とまるで違う豊かな響きがする。
第3曲の「追いかけっこ」は、1930年代、ファシズム時代のイタリアのどこか片田舎の広場で、季節は夏。少し日が落ちかかった午後の日差しのもと、小学生くらいの子供たちが楽しそうに「追いかけっこ」をしている、とか、12曲の「ねむりにつくこども」は、冷たい冬の夜、打ちひしがれた10歳くらいの孤児が、うつろな目をして、道行く人に物乞いをしている。空腹で仕方がない。雪も降っているかもしれない。道行く人は誰もこの男の子に気が付かない。男の子は、微かに幸せな夢を見て、また目を覚まし、悲しい現実を見る、といった具合に自分で話した後で振ると、音がまるで変化する。これは何故だろう。聴いている側の錯覚なのかとも思うが、明らかに音が変化するのは間違いない。
学生たちは一日6時間の3日間のセミナーを受けるために、地方からミラノにやってきて、1週間だけ滞在して、また地方に戻ってゆく。このセミナー以外は、12月末まで全て遠隔授業になってしまった。だから、セミナーが終わるころ、学生たちはそれぞれの別れを惜しんでいる様子が伝わってきた。セミナーの後も、外のベンチに座って、ずいぶん話し込んでいた。学生たちからの最後の挨拶は「先生もどうぞ良いクリスマスを!良いお年をお迎えください!」。
学校内で許されているレッスンは、指揮科と室内楽と実地試験だけなので、相変わらず学校中がらんとしていて、寂しいとも、物悲しいとも、何とも超現実的な時間を過ごしている心地。

9月某日 ミラノ自宅
こちらは毎日学校なので、今まで息子をノヴァラまで付き添っていたのも、一人で行かせることにする。人混みの多いミラノの中心部を避けながら、出来るだけ簡単にノヴァラに行けるような経路を教え、電車の切符と弁当を持たせて送り出した。Covidが心配ではあるが、無事にレッスンを受けて帰ってきたので、一安心した。ノヴァラで会った知人によれば、一人でノヴァラまでやってきたんだ、と得意げだったと言う。
パリ経由で無事に家人もミラノに戻って来た。3月に東京に戻ったときには、6人ほどで一緒に東京行きのフライトに乗って帰ったが、ミラノに戻る便がいつまでも再開されないので、結局彼らは一人ひとり別の経路でミラノに戻ってくることになった。その最後が家人であった。
誰もがそれぞれ3月初めよりずっと逞しくなったような気がする。それぞれの思いを胸に過ごしてきた半年間は、単純ではなかったはずだが、これからの人生に大きな意味をもたらす時間になったに違いない。
フランスの感染状況悪化により、フランス経由でイタリア入国する場合も、フライト72時間以内のPCR検査が義務化され、家人も慌てて東京でPCR検査をやっていた。

9月某日 ミラノ自宅
コモの隣、カントゥーの田舎から、ボーノがレッスンにやってきた。自宅の裏で拾ってきた栗を山ほどビニール袋につめて持ってきてくれた。
3月来ミラノに来たのも、街に出たのすら初めてで、マスクは恐くて外せないという。ミラノには自分で車を運転してやってきたそうだ。
一日の死亡者は19人。このところ20人前後の死亡者が続いている。新感染者数は1851人でICUは9人増。昨日のCPR検査数15379人。
イタリア政府は10月31日期限のCovidの非常事態宣言期間を1月末日まで延期する案について、具体的に検討を始めた。