しもた屋之噺(186)

杉山洋一

北棟2階の8号病室は大きな中庭に面していて、とても大きな窓から毎朝気持ちの良い朝日が差し込みます。眩しすぎてカーテンを開けられないほどです。目の前に高さ20メートルはあろうかという街路樹が数本立っている向こう側にはくぐもった鼠色の、コンクリート剥き出しのファシズム様式の中央棟があって、その奥には美しくクリーム色に塗りなおされた南棟が見えます。この病室の窓から見える南棟はいつも人気もなくがらんとしています。
ここはここはミラノの北にあるニグアルダ病院。1939年にムッソリーニが建てた歴史的な病院で、イタリアでは現在でも最も先進的な病院の一つです。

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6月某日 ミラノ自宅
家人は日本に出かけている。日中は父子で問題なく暮らしてはいるが、夜になるのが怖い。喘息と言われて薬を服用しているが、毎夜決まって23時頃から突然厭な咳がはじまり、それが酷い時には1時間から2時間続いた末に困憊して眠り込む。当然ながら朝起きても、疲労の色が濃く見るに忍びない。中学校の授業は殆ど終わっているので、遅刻しても欠席しても特に支障はなく、不幸中の幸いだと思う。級友の何人かは、既に避暑に出かけているとか。

6月某日 ミラノ ニグアルダ
今月は学校の試験週間で、イヤートレーニングの試験は35人。一人10分で終わらせようとしても、350分かかる上、こちらの大学の試験は一人ずつ成績を書きこむ小冊子に点数を書きこまなければならない。同僚3人と採点するのだけれど、本人がこちらの提示する試験点数に納得ができなければ、学生はその試験を次回の試験に回す権利がある。そんな話を一人ずつしながら35人も試験をすると、単純にとても時間がかかる。
息子を一人で家に置いておくのは不安だが、ともかくY君に家に来てもらって、相手をしてもらうことにした。息子を家において試験をしながら、時々思いが込み上げてきて、涙が溢れそうになる。口頭試問だから、ずっと話し続けなければならないのだけれど、顔をピアノの方に向けていられるのがせめても有難かった。

彼も15時半過ぎには空港へ行かなければならないとかで、同僚に事情を話して16時過ぎに息子を学校へ連れてきてもらい、教室に安楽椅子とピアノ椅子を幾つか並べてベッドを作り、休ませておくことにする。親の近くにいる方が息子もうれしいだろう。
何しろ、イヤートレーニングを教えているのは自分だけなので、試験を他の同僚にやってもらうわけにもいかない。今日35人の試験をやめてもいつ次に時間が作れるか定かではないので、ともかく今日やらざるを得ない。

夕方息子をメルセデスの車で病院の救急へ連れてゆく。
「こんなになるまで、何故連れてこなかったのですか」と言われ、診察の後すぐにCT撮影となった。CT撮影の間、思わず嗚咽が漏れて、メルセデスがティッシュを差し出してくれる。思いがけずすぐにCTを出てきた息子に「お父さん、泣いていたの」と笑われる。CTで特にめぼしいもの見つからないので、そのまま検査入院となったが、癌専門医のメルセデスがついていてくれるのは、とても心強かった。CTで腫瘍が見つからなければ、ほぼ癌ではないと言われる。
イタリアの病院で入院手続きをするのは、息子の出産以来のことだ。メルセデスに病室に付き添っていてもらい、こちらは一旦家に戻り荷物を作って、病院に戻ったのは22時半だった。正面門は閉まっていたので10分ほど歩いて、病院反対側の救急外来入口から入る。病院といっても巨大なものだから、一つの街のようになっている。ムッソリーニが造らせたものは全て大きかった。
息子は生後半年はメルセデスの家で育ったから、家族と変わりはない。

6月某日 ミラノ ニグアルダ
小児病棟の病室は、清潔な感じの8畳ほどの部屋に、ベッドが二つ。一つは息子のためのもの、その傍らに付き添いの家族のためのベッドが並ぶ。トイレが別にあり、そこにはユニットバスが付いていて冷蔵庫もある。とても快適ではあるが、何もせずにずっとここにいるのは、ただの苦痛でしかない。何しろ30メートルほどの場所しか行き来が許されていないのだから。
朝は6時に検温に来て、7時に息子のベッドを作りにくる。息子が熱で唸っていても、一寸お父さんのベッドへ行って頂戴、ベッドを作るからと言われる。8時頃に朝食。朝食と言っても、ココアとクッキーなどの軽食なのがイタリアらしい。昼と夜の食事はフルコースになっていて、パスタ、主菜、付け合わせ、デザートなど、それぞれ10項目ほどのリストのなかから、今日の昼はこれ、夜はこれとチェックを入れる。
サンドロの奥さんがニグアルダの神経放射線科医なので、すぐにMRIを手配してくれ、彼女自身が検査をしてくれるのが心強い。
2日間出かけていた家人が帰ってきて、二人でMRIに付き添う。ニグアルダには、Kさんが急死したときとドナトーニが死んだとき、冷え切った霊安室を訪ねた記憶が強くて、門をくぐるとき何とも言えない恐ろしさを覚えたけれど、一度門をくぐってしまうと、寧ろ安心感すら覚えた。
息子はMRIの中の音が、何に似ているか想像しながら聴いているうちにすっかり眠り込んだという。入院日記を書くのだと言って、息子は張り切っていたが、2日ほどでやめてしまった。当初は親にも書けと煩くて、「今まで気が付いてやらなくて申し訳なかった。自分で替わってやれるものなら、そうしたい」と書くと、謝るなんて間違っていると言われる。自分が事故に遭ったとき、両親はどんな心地だったか。息子がただ元気でいてくれれば、後は何もいらない。

6月某日 ミラノ ニグアルダ
6月とは思えないうだるような暑さが続く。ヨーロッパの各所で道路が溶けたというニュースを読んだ。病院は冷房の使い過ぎで昨夕2回も停電して、随分長い間エレベーターが止まった。
今日も息子のMRIが終わって待っている間に、また停電になった。中には若い女性が入ったままになっていて、家人と顔を見合わせる。電気は戻ってもMRIが動かないと技師たちが走り回っていて、暫くして、整った顔立ちの若い女性は担架に乗ったまま外へ出てきた。
神経電動検査は見ているのも痛々しい。息子の身体が跳ねるのを見ているのは辛いが、どうか跳ねてくれと祈りながら眺めている自分に気づく。電流の痛みの精神的なショックで、病室に戻っても息子は暫く口も開かない。厭な検査の後での息子の口癖は「もう我儘をさせてもらいます」というもの。そんなに我儘をさせていないのかと、こちらが申し訳なくなることまで見越して言っているのだろうか。

6月某日 ミラノ ニグアルダ
脊髄から液を取り出す検査を終えて、寝ている息子の傍らで、届けられた昼食を家人が早速毒見している。どうせこの子はサラミは食べないから、とぱくぱく口に運んでいる。親としては、まあこのくらいの方が良いのかもしれない。息子が左手を使うのが面倒だと言うのを聞いて、自分の小学生の頃を思い出す。小児科病棟のリクレーション室にはグランドピアノが一台置いてあって誰が弾いても良いのだが、息子は人前で弾くのを嫌がっている。
リクレーション室からチェスを借りてきて、息子に教えてもらう。腫瘍があったらどうするつもりだったのか、と尋ねられて言葉に詰まる。同じ質問を家人にしていたが、家人は平然と、だったら生活を全部変えてずっと一緒に過ごすようにするわ、と答えていたが、腫瘍ではないので、今も父子二人。息子は注射がひどく怖いらしく、看護婦から呆れられている。彼曰く、先端恐怖症なのだそうだ。先端恐怖症なら見なければいいと思うのだが、針をじっと見るので、余計怖い。

6月某日 ミラノ ニグアルダ
生徒たちがお金を出し合ってオーケストラを借り、演奏会を作った。オーケストラを使ってレッスンをして欲しいということだったが、今まで人のレッスンを見ていてもどうもオーケストラを使った指揮のレッスンというものに食指が動かなかったので、11人の生徒にハイドンの交響曲4曲を振り分けることにした。日曜日の演奏会に向けての、3日間のリハーサルの間、極力口は挟まないことにしている。失敗してもどうにも解決が出来ない状況でなければ、何も言わない。失敗をオーケストラとどのように乗越え、リハーサル時間をどう配分し、どのようにオーケストラに自分の音楽を説明し音楽を作っていくか、という実験。
失敗した時に、こうしたらよい、と口を挟んでしまっては、彼らとオーケストラの信頼関係はずっと成立しない。オーケストラは助けてくれて、一緒に音楽を感じるための存在なのだと彼らに学んでほしい。少なくとも、昨日久しぶりに再会した「ミラノ・クラシカ」のオーケストラは、一緒に音楽を作ろうとする感動に満ち溢れている。彼らの顔をみたとき、単なる、指揮のレッスンにしなくて良かったと改めて思う。
今週は毎日病院でシャワーを浴びて出かけ、彼らと一緒にハイドンに遊び喜び、悲しみ笑い、涙しながら、夜はまた病院に戻ってくる。

週末指揮のレッスンをサンドロの家でやっているとき、息子は長机で宿題やら折り紙やら指揮の真似事などをして時間をつぶしているので、生徒たちも彼のことを皆良く知っていて、様子を心配してメールが届く。その内の一通のメール。モレーノが息子の様子を心配した内容のあと、追伸にこう書き足してあった。彼のことは一から教えていて、ある程度のところまで来たので他の教師に預けたところ、どうも彼と合わなかったようで、二か月ほど前に久しぶりにレッスンに来てときには、指揮がつまらない、辛いとこぼしていた。
「13時35分オーケストラが音を出した瞬間、明るいエネルギー情熱の波に吞まれて、数秒後感激して思わず涙が溢れました。本当に素晴らしい感覚でした。今漸くあなたが言わんとしていたことの意味を理解しました。有難う!」
この言葉に励まされて、今日もこれから彼らのリハーサルに立ち会いに出かけようと思う。夕べから今朝方まで、治療の副作用の酷い頭痛で苦しんでいたけれど、今は隣ですやすやと眠っている。生徒たちとオーケストラの音楽の喜びを身体に蓄えて、息子に今夕届けたいと思う。

と、日記を書き終えようとしたとき、ボランティアの初老の婦人二人が息子を訪ねてきた。
「今日が私は最後の日なのだけれど、あなたのことは忘れないわ。よく覚えておいてね。才能、誰でも人それぞれの才能があると思うけれど、才能というのはね、人に分かち合わなければいけないのよ。あなたの才能は人のためのものでもあるの」。

(6月30日ミラノにて)