しもた屋之噺(187)

杉山洋一

櫻井さんから沢井さんの演奏会の録音が届いたので、真夜中にヘッドフォンで聴きながらこの原稿を書いています。伊語で写真を撮るときによく使われる「永遠化-immortalizzare」という動詞が頭を過ります。仕掛けだけを書いた楽譜によって演奏家から溢れる音を聴き、それが永遠化され録音として残る。

完全を目指す作品は、同じく完全な演奏を要求するでしょう。完全を目的とする演奏と音楽を目的とする演奏とは本来意図が全く違うもので、完全を目指す演奏は自分とは一線を画す気がしています。音楽の中に正しさを追求するのは、何か違うように感じます。正確な読譜法や演奏法が大切なのは言うまでもありませんが、それは到達点でもなければ、音楽の質を保証もしません。非の打ちどころなく造り込まれた録音が最良の音楽とも限らないでしょう。ただ日頃そうした音に耳が慣れ親しんでいると、不揃いな音は耳障りにしか感じられなくなるかも知れない。ただそれは、防腐剤や化学調味料漬けの食材と同じように、我々自身が作り出してきた産物でもあるのですから、誰のせいでもありません。

誰が演奏しても悪い演奏にならない曲を書くことが理想ですが、ケージでもあるまいしそれでは理想論に偏りすぎるでしょう。せめて、信頼する演奏家の音楽が自ずから零れ出るような作品を書けるようになったらよいと願います。
特に現代音楽に通じているわけでもない父から、沢井さんの演奏会で特に印象に残ったのが七絃琴だと聞き溜飲が下りたのは、七絃琴に聴き手が共感できるか心配していたからです。
リハーサルでも、仲間たちと本番直前まで喧々諤々試行錯誤を繰返していたのは、これら古代の楽器を、本来の姿で提示すべきか、我々現代人の耳が欲する姿で提示すべきかという点でした。これは気の遠くなるほど難しい作業でしたが、そうした皆さんの情熱は本番の沢井さんの演奏のなかに現れていたと思います。
そうして改めて正倉院七絃琴の録音を聴き、音の立ち上がりの瑞々しさにはっとする瞬間が何度もあり、その瞬間を見事に永遠化する録音の妙に、改めて感嘆したのでした。
夜更け、訥々とつま弾かれる七絃琴の音がこれ程自分の心に沁み入るのは、立て続けに受取った訃報のせいもあるでしょう。
沢井さんのドレスリハーサルにいらしたOさんが、涙を拭っていらしたと伝え聴きました。娘さんのお話はしませんでしたが、聴いて頂けたことにただ深く感謝を覚えました。

七月某日 二グアルダ病院
劇場付合唱団のインぺクをしているキアラが、息子を訪ねてくれる。彼女はオーストラリア生まれで、父親はヴァイオリン奏者で、世界を放浪するのが好きな小説家だったと言う。彼女の家は二グアルダにあって病院から近く、折を見つけては訪ねてくれて、その度に何十年も前のテーブルゲームや、父親が子供向けに書いた小説などを持ってきてくれる。彼女は、相手の眼を覗き込むと、その人の前世の動物が見えるという。その動物が守護神として守ってくれていて、自分の性格などを理解するのにも役立つのだそうだ。家人は、猛禽類。鷹だか鷲だかと言われて体裁がよい。当方は、まず海に居る動物だと指摘され、何だろうこれはと少し考えてから、
「あら、あなたの眼には蛸が映っているわ。蛸はとても頭のよい動物よね」と声を弾ませた。
愛嬌もあり味も良いので、蛸は嫌いではないが、どう喜ぶべきか少々当惑する。昨夜、息子の夕食用に朝鮮料理を届け、烏賊の辛味炒めを食べたところだったが、烏賊を食べる分には問題なかったのか暫し考え、言われてみれば、確かに今まで蛸のように生き永らえて来た気にもなる。三ツ子の魂何たらで、蛸と言われると小学生の頃「のらくろ」と一緒に読み耽った「蛸の八ちゃん」の顔ばかりが頭に浮かぶ。
息子は最近、薄味の病院の食事には全く手をつけない。3週間も食べれば流石に厭きるようで、毎日仕事帰りに、スリランカ・カレー、インド・カレー、四川料理、朝鮮料理など、手を変え品を変え夕食を病室に持ち帰って食べている。味が濃いと少し食欲が湧くように見える。見廻りの看護婦が消灯ですと入ってきて、机いっぱいに広げられた朝鮮料理に愕いて、あらまあと言葉を失って出てゆくこともある。

七月某日 二グアルダ病院
イタリア海兵隊広場のリバティ宮で、生徒たちが集まってハイドンの中期交響曲4曲を振るのを聴きにゆく。2階のバルコニー席にいたのだが、平土間席の挟んだ向こうのバルコニー席に、二十歳過ぎの感じの良い男女が座った。アルドが「告別」の2楽章、とても美しい緩徐楽章を振っている時のこと。最後の頁の美しい転調に差し掛かるところで、二人が何気なく顔を見合わせて、微笑みながら口づけを交わした。掛け値なく幸せな瞬間に思わず鳥肌が立った。
アルドは60歳近いのではないか。元来は、映画音楽の打込みをやっていて、実際のオーケストラを勉強したいと勉強を始めた。奥さんを癌で失くしたのは、もう一昨年になるだろうか。朴訥然として、不器用で時代がかった趣味だけれど、実に豊かな音楽を持っている。「告別」で聴き手を幸福で包み込んだのは、その彼の音楽の力だった。
自分が好きな作曲家の名を尋ねられれば、迷いなくハイドンとシューベルトを挙げる。ハイドンの音楽にここ暫くどれだけ癒されているか、とても言葉では言い尽くせない。

七月某日 二グアルダ病院
ミラノの反対側にある病院への息子の入院で、タクシーに乗る機会が増えた。6月炎天下の下自転車で通って数日すると目が回ってこちらが倒れてしまった。小児病棟だから尤もなのだが、元気な息子の隣の家族用ベッドにひもねす伸びている父親に対しては看護婦も殊の外すげなく、隣で点滴を受けている息子が父が眩暈と言うと、困りますね、誰か他の家族は来られないの、酷いならお父さんも救急に行くことですねと言われ、情けない思いをした。
昨日のタクシー運転手も、こちらの職業をまず尋ねてきた。音楽関係だと答えると、実は自分の親戚に世界的に有名な指揮者がいると言う。名前を聞くと、確かに名前は知っていた。
「ところが、彼は庭の最近芝刈り機で指を2本切断してしまったのですよ。可哀そうに。娘はまだ幼くて7歳だったかな」。
余りにさらりと彼が言うものだから、こちらが聞き間違えたのかと思わず聞き返したが、間違っていなかった。
「今は演奏活動を中断して、リハビリをしているのです。その手術を受持ったのは父でして」。
事情がよく分からないまま、黙って話を聞いていた。
「父は世界で最初に手の再構築手術をしたイタリアの外科チームの一人で、手の精密な手術の専門医なんです。世界的に有名なんですよ」。
少し狐につままれた思いで話を聞き続ける。
「ですから父が彼に緊急手術を施して、取り合えず指の先を縫合して処置したのです」。
「指は繋げたのですか」。
「残念ながら、切れた方の指は形を留めない状態で使い物にならなかったそうです。だから縫合処置しか出来なかったと言っていました」。
他人事とは思えない内容で、こちらの指先が痺れてくる。
暫く沈黙が続いた後、彼は話を続けた。
「実は母も姉も皆医者なんです」。
「恐らく、誰もが運転手さんに尋ねると思いますが、あなたは何故医学の道に進まれなかったのです」。
「父があまりに高名ですからね。幾ら自分が頑張っても、きっと親の七光りと言われるでしょう。大学では経済学を専攻しました」。
「こう見えても、大学在学中から実は史上最年少で大手保険会社の支店長を任されていたのです。当時は所謂高給取りでした」。
「ただ、あの職業は自分には続けられなかった。嘘をついてでも、健康な人に無理やり不安感を押し付けなければ、会社に貢献できないでしょう。それは自分には出来なかったのです」。
「お父さまの血を引継いでいらっしゃるのですね」。
「ある時から不眠に悩まされるようになりましてね。家に帰って、無邪気な可愛い娘の寝顔を見ると辛くて堪らなかったです」。
「それで10年前すっぱりと退職しました。以前よりずっと長く働いていますが、今の方がずっと幸せです」。

そんな話をしていると間もなく二グアルダ病院の正面玄関前に着いた。厳めしく荘重な白い石造りで、天使ガブリエレとマリアの美しい浮き彫り細工を中央に頂く。
「Ave gratia plena-めでたし恵みに満ちた方」。天使祝詞冒頭が刻まれている。

「よいお話聞かせて頂き、有難うございました」
「こんな詰まらない話に付き合って頂いて、こちらこそ有難うございました」
「息子さんのお身体、大切にして上げて下さい。私ごときは何もして差上げられませんが、これでアイスクリームでも買って上げて下さい。ささやかな気持ちです」。
そう言って彼が寄越した領収書には、15ユーロ多く金額が書き込まれていた。

七月某日 ミラノ自宅
二グアルダ病院で息子のリハビリ療法を担当するフランカは、イタリア語で俳句を作る俳人で、作品は出版もされている。五・七・五のシラブルで構成され、意図的か分からないが、作品は我々が思う俳句にとても近い印象を与える。
リハビリに立ち会っていると、普通だと思っていたことが、どれだけ複雑な小さな運動の連なりによって成立しているかを知り、それを息子が達成する度に心を躍らせている自分に気づく。原因が違うので感覚も違うだろうけれど、小学生の頃に事故に遭ってから高校に入る位まで、左手全体の神経がぼやけていた感覚が甦ってきた。
息子の施術は決まって朝9時からと早いので、朝食もそこそこに病院に出かけていると、フランカに叱られてしまった。困憊している息子でも、朝7時半家を出る直前に起こして食べる気が起きる朝食は何かと考えた挙句、シチリア風に、息子の好きなバニラとクッキー味のジェラートをパンに挟んで朝食とする。大人ならパンにリキュールを零してみたりするところだが、息子の場合、見つからぬようパンやジェラートにロイヤルゼリーを塗っている。

七月某日 ミラノ自宅
メッツェーナ先生訃報。イタリア半島南端に引っ越されてから、結局一度しかお目にかかれなかった。その時に先生からカセルラが著した「ピアノ」を頂き、それきりになってしまった。何度も伺おうとしたのだけれど、実現出来なかった。ジョンから葬儀に出られるかと連絡が来て、息子の体調が不安定なので、家人が急遽夜行寝台を予約し慌ただしく出かけて行った。ストライキと寝台急行の故障が重なって、往路は散々だった。ターラントまで駆け付けられる縁者は限られていたのか、ほんのささやかなミサだったと言う。家人は教会で神父から頼まれ、オルガンで「主よ人の望みと喜びを」を弾いて見送った。神父はメッツェーナ先生が誰なのか殆ど知らなかったようだから、家人やジョンの姿を見て先生も喜んでいらっしゃるに違いない。先生のお宅のすぐ裏にある、コバルト色の海ばかり思い出している。

七月某日 三軒茶屋自宅
沢井さん宅で「峠」のリハーサル。五絃琴の録音の上に、七絃琴の演奏を重ねてゆく。五絃琴は流刑に処された夫を想って一針ずつ直向きに衣を縫う女の姿。七絃琴は妻から引き離され流刑地へ曳かれてゆく男の重い足取り。一見すると相聞歌は対話のようだけれど、永遠に再会の許されぬ次元へ引き裂かれた二人の、それぞれの孤独な叫び。
同じ相聞歌をテキストに、奈良の民謡を使って最初クラリネットとピアノの曲を書いた。どちらも現代の楽器が我々の言葉を話してくれた。同じ頃に沢井さんのお宅で、五絃琴と七絃琴に出会った。七絃琴は相聞歌が書かれた頃に同じ場所に存在していて、遠く中国から運ばれてきた。五絃琴は中国で以前から存在し、辛追夫人の柩にも描かれていた。これ等の逸話が自分の裡で絡み合い、七絃琴は故郷を遠く離れる男の嘆き、五絃琴はかの地に残された女の嘆き、という相聞歌の姿になった。
初めて五絃琴と七絃琴が重なるのを聴いた時、五絃琴は背景に留まったまま、七絃琴ばかりが、次第に五絃琴から離れ、どこまでも我々に近づいて来る錯覚を覚えた。古代の楽器が古代の音を使って往時の別離を唄うと、思いがけず生々しく響くことに驚く。

七月某日 ミラノ自宅
送られてきたオーケストラの楽譜を眺めながら、オーケストレーションとサウンド・デザインは同義かとぼんやり考える。旋律の概念、旋律を支える伴奏の概念が崩壊して以降、現代音楽、特に西洋音楽の伝統に端を発するオーケストラ作品は、音響体としての構築に目が向けられる。音楽を違う視点で成立させようとすれば、特に社会構造を映しこんだオーケストラという構造物など、どのように成立し得えるかと考える。

七月某日 ミラノ自宅
バーゼルのスコラ・カントルムのマッシミリア―ノがレッスンに来て、割と最近まで、街ごとにどれだけ調律が違っていたかについて、色々と説明してくれる。ヴェルディの時代でさえも、今の歌手が頭声と胸声のチェンジで苦労するのは、調律が当時と違うからだと言う。当時の調律であれば、チェンジなしで歌える難所が幾つもあると言う。インターネット時代の現在にあっても国ごとに調律は随分違うのだから、100年前の相違はかなりのものだったに違いない。
時刻も昔は街ごとに日の出日の入りで時刻を定めていたから、旅行は不便で仕方がなかったと言う。標準時が決められて随分すっきりしたが、同時に矛盾も生じた。
創成期の楽器もそれぞれが混沌の中にあって、街ごと国ごとに違った姿をしていたが、当時はそれでも余り不便を感じなかったのだろう。方言が淘汰され、小さな言語が大きな言語に吸収され消滅していったように、或る楽器は廃れ、或る楽器は民族楽器として残り、或る楽器は西洋音楽の主流として残ってゆく。
現代音楽の楽譜を眺めていて、マッシミリアーノの話を思い出す。100年200年後、この記号は何を表しどう演奏していたのか、何故作曲家毎に書き方が違って、一貫性のない記譜法が採用されたのかと論争の種になっているかも知れない。現在浄書ソフトに使われている譜面のサンプルを、各作曲者が便宜上採用していても、150年200年後「フィナーレ」や「シベリウス」が使用されているか甚だ怪しい。先日も演奏会の後「味とめ」で悠治さんと話していて、本来本末転倒である筈だが、今や作曲家の方が浄書ソフトに併せて、浄書ソフトの出来ることを使って作曲している状況が話題にのぼった。

七月某日 ミラノ自宅
庭を眺めながら息子と蕎麦を啜る。夕立が上がった途端、出し抜けに奇妙なほど明るい光線が目の前に差し込む。燦燦と輝く眩い光は、辺りを橙色にも黄金色にも一気に染め上げる。夜の9時前とは思えない不思議な光景に、息子は怖がっている。ハイドンの「海の嵐」をかけていたが、音楽と目の前の風景が一体化し過ぎるのだと言う。
「海の嵐」を表わすのだからこの光景に合うのは当然だが、そうでなくても恐ろしい程煌々としているのだから、止めてくれと言う。この曲はオペラのようで、聴いているといくらでも舞台が想像出来るだろうと尤もらしく言うので驚く。「Sturund Drang-疾風怒涛」の音楽表現をよく言い得ていて感心する。

七月某日 ミラノ自宅
五月末から2か月、息子の喘息が酷くなってから今まで、魘されるような時間を「子供の情景」の作曲と共に過ごした。これほど息子の傍で過ごしたのも、好きなだけ甘えさせているのも、本当に何時以来だろうと毎日考えた。或いは、事故に遭った後の自分と父親との関係も、少しこれに近いものだったのかも知れない。
「子供の情景」を今井さんのために書くにあたって、シューマンの描く無邪気な子供の姿と目の前の息子の姿との落差に、病室では全く真っ当に頭が働かなかったのは我乍ら情けなかったが、どうしようもなかった。
Oさんの娘さんの話を聞いた時もメッツェーナ先生の訃報に接したときも「子供の情景」を思い出した。ほんの数日前も、仙台でお世話になったHさんの訃報が届き、彼女の朗らかな笑顔と、未だ小さいお子さんを思い出していた。

未だ息子は好きなピアノは思うように弾けないので、気分転換に指揮の手ほどきをしてみる。今までも小さい頃からレッスンを眺めていて、一緒に指揮の真似事をして時間を潰していたから厭ではないのは知っていたが、やらせてみるとプルソが思いの外上手なのに、率直に驚いた。最初からこんなに綺麗なプルソが出来る筈はないので、子供乍ら何年も今まで真剣に観察していたのかと思うと少し切なくなった。
疲れると言うことを聞かない左足から力を抜かせ、右足の前に頭を持って来させて重心全体を右足で取る。安定して立ち続けるのも未だ甚だ難儀だが、他の指揮の初心者と同じように「子供の情景」を課題に出すと、ベッドの中でずっと喜んで楽譜を眺めていた。
彼が1曲目を振り出した時、不覚にも涙がこぼれそうになったのは何故だろう。こんな反応は自分で想像もしていなかった。単純に息子が好きな音楽をやっている姿に心が動かされたのかも知れないし、子供の目に映る「子供の情景」の音が目の前に流れ出した驚きかもしれない。自分では絶対出せないような、シンプルな美しい音がしたのだ。もう少しざらついて欲しいくらいの、無垢で透明なガラス細工のような息子のピアノの音は、指揮をしても同じだった。
(7月31日 ミラノにて)