しもた屋之噺(191)

杉山洋一

庭に鎮座している背の高い樹があって、10年以上住んでいて未だにちゃんと種類を調べていないのですが、夏の暑い盛りは青々と茂る葉で家をすっぽり日陰に隠してくれ、秋から冬は同じ樹とは見紛うほど、葉を落とした姿はふと見上げると思いの外頼りなく見えます。今目の前を見上げると、か細い骨の向こうに、美しい橙色の満月がてらてら光っています。冬らしい深い漆黒の夜空の背景と相俟って、その光景が妙に心に突き刺さるのはなぜでしょう。

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10月某日 三軒茶屋自宅
練習を始めて1時間くらいすると、まるで手の力がすっかり入らなくなる。恐らく先日までのんでいた抗生物質をやめたばかりで、体力が落ちていたからだと思うのが、力が入らないのが、これだけ怖いものかと愕く。
息子がここ暫く自転車に乗らないのは、道の途中ですとんと力が入らなくなるからだそうだが、右足で適当に漕げばよいと思っていたが、それほど簡単ではなかった。力を入れようとしてもぐにゃりとして入らないというのは、恐怖以外の何物でもなかった。このまま倒れるのではないかという恐怖が先に立ち、神経が引き攣る思い。オーケストラの皆さんにも申し訳ない。
それでも、本番はこちらが倒れてもオーケストラの皆さんが何とかしてくれると信じて、何が起きてもよい積りで指揮台に立つことができた。演奏者を信頼できるということは、これほど有難いことはない。
堤先生のどこまでも誠実な音楽と、新鮮な響きの成田くんが織りなす音楽の深さ。緊張で倒れそうになっているこちらを、いつも温かく励まして下さる木村さんの優しさ、どこまでも音楽を深く掘り下げようと練習の度にさまざまな提案をしてくださる児玉さん。共演者の音楽の技量の深さに助けて頂いた。
二重協奏曲では一柳先生の音楽の深さには圧倒され、「クロノ」に、会場を突き抜けて飛び出してゆく湯浅先生の火の玉のような「コスモロジー」を目の当たりにした。

10月某日 三軒茶屋自宅
日本で医者をしている家人の友人が、杉山は指の足りない左手をいつも隠していると家人に話したそうで、余計なお世話だと憤慨していたが、別に本人は特に隠そうと思っているわけでもなく、指がない姿など自慢するものでもないし、殊更誰も見たくもないはずだから、あまり人の目に触れないようにしたいと無意識には思っているかも知れない。
成行き上、曲がりなりにも指揮などさせて頂くことになり、それも現代作品に関わる機会が多くなってしまうと、左手を隠してなどいられない。否が応でも左手でキューサインを出すことは多く、その度に内心醜くて申し訳ないとは思っているが、無い袖は振れない。
キューサインのみで7分ほど音楽を作ってゆく箇所があって、リハーサルで両脇の演奏者から左手のキューサインが何本出ているか見えないと何回か言われると、単に見づらかっただけに違いないけれど、心の底から消え入りたい心地に駆られそうになる。リハーサルからの帰途、自分が今の息子と同じくらいの頃、息子よりずっと酷い対人恐怖が続いていたことをぼんやり思い出す。自分でも嫌な心地に自分が飲み込まれてしまう感じとは、確かにこんな感じだったと思う。
まあ、当時に比べれば良くも悪くもすっかり太々しくなって、お陰で何とか生き長らえている。

11月某日 三軒茶屋自宅
町田の実家に戻った折、期せずその昔買った水牛楽団のカセットブック「休業」を見つける。カセットは思いの外良い音で、美恵さんや悠治さん、それに楽団の皆さんの若々しい声が記録されていて、思いがけず再会した忘れていた時間を前にして、感激に震える。今の自分の歳とほぼ同じ頃の録音だけれど、今自分がやっていることは、当時の彼らのように、何某か意味を残せるものなのだろうか。渋谷のユーロスペースに「水牛楽団」を見に行った時、目の前に黒マントを羽織った時代がかった妙な男性が居たなあ、と父が笑う。言われてみれば、そんな気がしてくるから不思議なものだが、確かにあそこに黒マントの男性が居ても、全く違和感はなかった。
母は、小学校5年から3年くらいひばり合唱団で歌っていたが、中学に入って酷い熱を出してやめたそうだ。続けていれば良かったと思っていたが、孫がミラノで歌っているのを見ると何か繋がっている気がして嬉しいのと言う。

11月某日 三軒茶屋自宅
林原さんの演奏会を聴きにゆく。お世辞を言う間柄ではないのだけれど、実に素晴らしく、忘れ難い演奏会だった。林原さんがチベットの子供たちへの教育支援をしているのを聴いていたこともあり、「馬」というチベットの民謡をもとにした小品を書いたので、それを聴きに行ったのだけれど、会場にはチベット関係者が沢山集ってくださり、ニマさんには純白のカタまでかけていただいた。演奏も素晴らしかったし、思いがけずチベットの皆さんと触れ合えたことも嬉しかった。
それに輪をかけて、林原さんと吉田さんの演奏が、素晴らしかった。別に素晴らしいでしょう、と見せる演奏ではないのだけれど、音の向こう側にある林原さんの人の温もりが、そのまま伝わってくる演奏会で、このような演奏会は誰にでも出来るものではないと思う。
目の前で微笑むチベットの皆さんが、それぞれどんな経験を経て今自分の目の前にいるのかと思うと、思わず胸が一杯になった。一月に日本へ戻る際の再会を約束して、会場を後にした。

11月某日 ミラノ自宅
自分は日本人だし、イタリア語を学校で聞くだけで気分が悪くなると言っていた息子が、随分元気になって、学校にも毎日通うようになり、友達と電話で話すようにもなった。息子が神経質になのは家が静かすぎるからだ、等と周りから文句を言われたが、確かに家にはテレビもないし、ラジオを付ける以外は必要以外音楽も殆ど聴かない。家の中が静かであるほど、頭でいろいろ音楽も聴こえるし、あまり飽きることはないというのは、こちらの言い分であって、家人に言われると亭主関白が過ぎるらしい。

そういう気質のせいか、日本の生活は本当に音に溢れていると思う。消防車も救急車も、サイレンを鳴らした上に、マイクのボリュームを上げ、反対車線を走ったり、信号無視して通過することを詫びながら走る。こちらでアナウンスしながら走る緊急車両は見たことがないし、第一緊急車両が詫びるというのは、どうもしっくり来ない。反対車線を走ることを伝えなければいけないのなら、サイレンは要らない気もするし、サイレンを付けて緊急車両が通るのであれば、両車線共に道を譲るべきではないのか。

電車のホームのアナウンスも、発車を知らせるジングルのメロディーも、動く歩道の終わるところで無表情に流れ続けるwatch your stepのテープ音声も、渋谷のスクランブル交差点のように、何枚もの電光掲示板から同時に大音量の広告が流れているさまも、まるでパチンコ店から洩れてくる音の洪水のように見える。
それなのに電車に乗れば、殆ど誰も話もせず、話し声はとても低く抑えられていて、今年くらいに漸く気が付いたが、リュックは後ろに背負うのではなく、前に抱えて持つことで、スペースを節約できるので奨励されていた。こちらでリュックを前に抱える場合は、特にスリを警戒している場合くらいなので、それに見慣れていると、皆がリュックを抱えて電車に乗る治安の良い東京の姿は初めは異様に映った。

地下鉄のホームで行き先が分からなくて困っているお年寄りがいて、助けてあげたいけれど、全く東京の地下鉄は分らないのでどうしようもなく、無人化された長いホームで漸く見つけた駅員に尋ねようとしても、駅員は列車を定刻通りに発車させることに必死で、彼女は無下にされたまま話すら聞いてもらえない。
こんなことを感じるのは、20年以上外国に住んでいるからに違いなく、東京に住めば慣れてしまうことばかりだろうが、東京だって自動アナウンスを流すようになるまでは、目の見えない人に普通に手を差し伸べていて、「インフォメーションカウンター」まで行かずとも、駅員は誰でも気軽に乗客の相談に乗ってくれていた気がする。
地下鉄駅の光景にショックを受けたせいか、今回ミラノに戻って空港のバゲージクレームを出た瞬間、ざっと耳に入ってきた雑多な会話の響きに、言葉にできない安堵を感じた。そんな深い安堵を感じた自らに、改めて打ちのめされた。だから、単に無音を欲しているのではなくて、雑音で何かが見えなくなったり、聴こえなくなったりするのが厭なだけ、というのも、やはり亭主関白か。

11月某日 ミラノ自宅
未だに日本語を話すのは、とても苦手だ。息子が生まれてからずっと父子はイタリア語、母子は日本語を通して来たが、去年くらいから時々息子が何故父子でイタリア語を話すのか、イタリア語は苦手だと反抗するようになった。自分は先ず日本語で考えてからイタリア語を話している、と言い張るが、これは客観的に見ていて流石にあり得ない。彼がここ暫く病気と学校の事で辛かった時はこちらも日本語で返していたが、彼が元気を取り戻すと、何時の間にか会話もイタリア語に戻った。

こちらは日本語、特に仕事場で話す日本語はとても苦手だ。イタリア語、英語、日本語のどれが一番仕事が楽かと言われれば、これは断然イタリア語で、第一外人がイタリア語を話すというだけで印象は良いだろうし、それも敢えてこちらの作戦で、最初から相手の懐に飛び込んでゆくような、イタリア流の付き合い方をする。簡単に言えば敢えて馴れ馴れしく話すわけだ。20年以上も住んでいれば、馴れ馴れしくとも、下品でない言葉を選ぶことも出来るし、深い表現をしたい場合もある程度は伝えられる。第一馴れ馴れしくとも、使う構文の形式は至って丁寧だから、それだけで相手からすれば言葉へのリスペクトは感じられているはずだ。リハーサルで疲れてきた時などには下卑た表現を使って、相手を笑わせたりして、指揮者対演奏者という形を一切作らないように心を配っている。英語なら大して話せるわけでもないので、微細な表現の綾について心配する必要もない。相手がネイティブでなければ、お互い何とか通じればいいだけだし、相手がネイティブなら、この人は話せないから仕方がないと諦めてくれる。

日本語になるとこれはどうして良いか分からない。日本語の表現そのものもむつかしいし、日本人とのコミュニケーションもあまり上手ではないのかもしれない。イタリア人相手にやるように、馴れ馴れしく相手に飛び込んでゆくと誤解を生むことが良くあって、オーケストラの中の同級生や学校の友人から注意される。これはとても有難い。
最近は出来るだけていねいに、でも慇懃無礼にならないように気を付けながら話しているが、丁寧な言葉づかいを紡ぎつつ、相手の胸の中に飛び込んでゆけるような表現、人間関係を作るのはとても難しい。オーケストラで何時も助言してくれる演奏者がいて有難く思っていたから、こちらは尊敬できる友人のつもりで接していたが、相手は単に仕事相手として助言していただけで、誤解を受けたこともある。恐らく日本に住んでいたら、そんなことは当たり前なのかも知れないが、難しいものだと思う。そうしてリハーサルを積むなかで指揮者対オーケストラの関係に落着きそうになる時があって、必死に回避を試みる。オーケストラの一員になりたい、というとそれは無理と一蹴されるだろうが、それでもそれを目指してみる。オーケストラ全員を引き受ける責任など到底引き受けられない。結局どのみち無責任なだけか。

11月某日 ミラノ自宅
ミラノのドゥオーモ裏、大通りから脇に入ったコルソ通りにも、ファシズム建築の小さなガレリアがあって、どこまでも青空が澄み渡る朝、そこの2階でガブリエレと近代イタリア音楽について話し込む。
イタリアで1880年代前後に生まれた作曲家は「80年世代の作曲家」とまとめられる。レスピーギ、カセルラ、マリピエロ、ピッツェッティ、ザンドナイ、アルファーノの名前がよく知られているが、ガブリエレのところへわざわざ足を運んだのは、この世代の作家を取り上げるに当たって、自らを納得させたかったからだ。1943年に作曲されたカセルラの弦楽、ピアノと打楽器のための「協奏曲」作品69は、晦渋な音楽で、所々に驚くほど美しい旋律が浮かび上がっては、荒々しく断ち切られる。曲頭にダイナミズムが大胆に用いられていて、最初はこれこそファシズムのプロパガンダに迎合した作品かと訝り、随分悩んで何度も聴き返してみたが、聴けば聴くほど鳥肌が立つほど美しい。カセルラはファイズムに当初から囲み入れられていた作家で、悔いて改めて作品71「平和のための大ミサ曲」を書いたのが1944年のことだ。この第二次世界大戦の極限の状況下で「協奏曲」がどういう経緯で、カセルラや音楽家たちが何を考えて作曲をしたのかどうしても知りたかった。
「協奏曲」の最終楽章で現れ断ち切られる天啓のような美しい旋律は、まるで断絶された扉が空に向かって開かれたかのように「大ミサ曲」冒頭にそのまま受け継がれる。

ファシスト党がいわゆるローマ進軍を行い、政権を取ったのが1922年のこと、ムッソリーニがナチス・ドイツとPatto d’acciaioいわゆる「鋼鉄協約」を結んだのが1939年、それによって行きずり式に第二次世界大戦にイタリアが参戦したのが1940年。Tre asseいわゆる「日独伊三国同盟」を結んだのが1940年。連合国軍がシチリアに上陸したのが1943年7月10日、ムッソリーニが身柄が拘束され幽閉されたのが1943年7月27日。イタリア王国が連合国軍に無条件降伏したのは9月8日で、ムッソリーニがナチスに救出されたのが9月12日。ナチスの傀儡政権「イタリア社会共和国」いわゆるサロ共和国が建国されたのが、9月23日。そのままイタリア全土は内戦に突入し、イタリア国内に残ったドイツ軍と社会共和国軍が連合国軍を相手に戦争を続けた。
当時カセルラが滞在していたローマが連合国軍によって解放されたのは44年6月4日。まさにナチス・ドイツ軍によってローマが占拠されている中で「協奏曲」は書かれ、恐らく連合国軍によって解放された後、もしくはその前後に書かれたのが「大ミサ曲」となる。社会共和国、ナチスが連合国に降伏したのが1945年4月25日、現在イタリアの祝日「解放記念日」になり、ムッソリーニはその2日後に捕らえられ射殺された。

彼ら80年世代の作曲家たちが、どれだけファシズムに貢献したのかとを理解するためには、ファシズムとナチズムとの相違を明確にしておかなければならない。ナチスは先進的な芸術一般を「退廃芸術」と称し排除していたのと反対に、ファシズムは当初からイタリア未来派と繋がり、先進的、未来志向の芸術を歓迎していたし、カセルラやマリピエロなど当時国際的な芸術家とされていた作曲家に対して重要なポジションを与えて積極的に庇護し、文化活動の展開に務めたと言う。当時「国際的文化人」と理解されたのは、特にフランスでの活動が認められる場合だった。「ドイツとイタリアの関係は、実に複雑なんだ」とガブリエレは笑った。最終的にはムッソリーニがヒトラーに保護される立場となったが、ヒトラーが当初手本にしたのがムッソリーニであって、その反対ではなかった。
1904年生まれのペトラッシの作品を、カセルラが指揮したのがペトラッシ29歳の時。その直後33歳の時には、ペトラッシが既にヴェニスのフェニーチェ劇場の総監督に据えて「新芸術」を強く後押ししたのは、ファシスト党の意向を強く反映していたのだと言う。尤も、1939年に鋼鉄協約でヒトラーと結ばれるまで、ファシズムに対して明確に反体制を唱える文化人は本当に少なかったのだと言う。殆どが皆何等かの形でファシスト党に関わっていて、例えばダラピッコラでさえ少なくともファシズムを否定する立場には当初なかったのだと言う。

当時オペラから近代音楽までを一手に引受けていた大手出版社がリコルディ社で、1960年代まで長く保守系の経営陣が構えていた。そのため30年代頃から「現代音楽」に特化し、ダルラピッコラを始め、より先進的でファシスト体制に好意的でない作曲家が集まりだしたのが、ツェルボーニ社だったと言う。1950年代基本的に保守系で構成されたイタリア政府は、芸術文化一般を急進派で構成された諮問委員会に一任した。その影響は、例えばイタリア映画のネオ・リアリズム運動などを思い出せば分かりやすいだろう。
その音楽部門責任者が、先日亡くなった、パルチザンの闘士としてナチスと戦い名を馳せた音楽学者ルイジ・ペスタロッツァだった。彼は大臣などの役職は一度たりとも引受けなかったが、長くイタリアの音楽事情に深く関わった。1960年代に、リコルディの経営陣が保守系から急進系へと大幅に刷新されて、ツェルボーニの作曲家たちは、一地方出版社だったツェルボーニよりも、より契約体系の保証できた巨大出版社リコルディ社に移ったのだと言う。その中ではドナトーニは最後までツェルボーニで粘った一人だ、とガブリエレは笑った。

どうしてレスピーギは、特に政治的犯的に捉えられるのか、と尋ねると、恐らくそれは、余りに地方色が濃いからではないか、と言うので、少し意外だった。ガブリエレ曰く、カセルラやマリピエロのような「国際的作曲家」ではなく、少しばかりロシアに留学はしたものの、飽くまでもイタリア国内でしか活動していなかったレスピーギは、単に広い視点で捉えられることが少なかったのではないか、というのが彼の意見だった。
彼とずいぶん話したお陰で、靄がかかっていた思いがすっきり晴れた。ナチスがローマを占拠していた時のカセルラも、戦後解放されたマリピエロも、是非演奏してみようと思う。そこから何か当時の彼らの思いが、或いは見えてくると信じている。

(11月30日ミラノにて)