しもた屋之噺(196)

杉山洋一

辺り一面、目に眩しい新緑に包まれるこの時期、飛交う夥しい花粉のおかげでアレルギーに悩まされるのは、我々日本人だけではありません。昨年など、一度喉に何か張り付いたようになって、息がびったり詰まってしまいました。流石に突然のことで肝を冷しましたが、このまま気を失うかと慌てていると、息が通るようになりました。13年前、息子が生まれた年の秋に庭に植えた松の丈は、3メートルを超えているでしょうか。この季節、松の天辺にずらりと7、80センチの棒状の新芽が天を向いています。食卓から眺めると季節外れのススキの穂が風に靡くように見えます。傍らの大木は、13年間一度も剪定していないので、どの枝もずっしり葉を蓄え、重みで少し撓ってしまっています。

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4月某日 ニース アパート
年末息子と二人で訪れた時は、彼が歩くのも儘ならず、息子をキックボードに載せて連れまわした。今や彼もすっかり元気になったので、83歳の母のためにキックボードを抱えてきた。アパートに着くなり、息子はすぐに母を連れて、階下の「名人パン屋」にクロワッサンとチョコレートパンを買いに出かける。
観光にエズに出かけたとき、話好きのタクシー運転手が何故息子とイタリア語で話すのかと不思議そうに尋ねた。息子はミラノで生れ育っていると話すと、ここは1860年カヴールとナポレオン三世のプロンビエール密約までサルデーニャ王国だったし、ニースはガリバルディ将軍の生地だ、と嬉しそうに話し始めた。だから、イタリア語だって話せると言うので、何か話してと頼むと、恥ずかしそうに「こんにちは」と呟いた。
毎日天候がとても不安定で、どこに出かけるにも合羽を携えて出かけた。真っ赤でだぶな雨合羽を小柄な母が被ると、まるで奴さんが歩いているよう。晴れ間がのぞけば夏日のようだが、午後には決まって天気が大幅に崩れ、土砂降りの上に気温も肌寒くなる。この運転手も、今年の復活祭休暇は、寒いお陰でまるで観光客の足が伸びないよと愚痴った。

アンティーブの浜を抜けてコバルト色の波が打ちよせる防波堤に腰かけ、老人と彼の息子が浜から投釣りするのを眺めている時は、抜けるような青空が広がっていた。海と空は丁度同じ色をしていて、水平線に沿って白い雲の帯がどこまでも延びていた。釣人に「よく釣れますね」と話しかけると、「でも、こんな小さいし」と照れ臭そうに笑った。今はなくなってしまったが、子供の頃は湯河原の小さな船着き場の傍らには、ちょうど似た感じの岩場が続いていて、魚屋で捨てるアラを分けてもらい、それに紐をくくりつけて岩ガニをバケツ一杯釣り上げた。少なく見ても百匹以上は居ただろう。アンティーブ海岸の岩には、一見もずくのような海藻が貼りついていて、母がそれを確かめると、全くもって無関係だった。息子は足を海水に浸しつつ、主人が投げてよこす木の枝と海中で戯れて止まない大型犬を目を細めて眺めていた。

翌日、息子のたっての願いでオントルヴォーの山に昇る。シタデルラと呼ばれる山上の古城の登山口入口で、入場コインの自動販売機が壊れている。村人から紹介された女性店主にその旨伝えると、まずこちらが履いていたバスケットシューズを眺め、これなら大丈夫と呟いてから、この裏道から川伝いに進んで山道を登れば、急だけれどシタデルラに辿り着けるわと教えてくれる。
登山の用意もない、齢80を超えた母を連れてゆくのは到底無理と思ったが、言われた山道を3分の1ほど昇って、不可能なのを確かめてから先程の壊れた自動販売機に引き返すと、どういうわけか直ったと言う。息子曰く「お父さんどこ行っていたの、探し回ったのに」。
シタデルラまで、山道の足場は石で固めてあるので昇りやすいが、不整脈が酷い母の身体を労わりながら少しずつ休憩しつつ昇る。息子は病気のことなど忘れてしまったのか、一気に頂上まで登り切って、「おおいおおい」などと彼方から大声で呼んでいる。年末も、息子はここに来た途端、別人のように精気を快復したから、息子にとっては最近流行りの「パワースポット」なのだろうと冗談を言うと、母は大真面目に、「これだけ切り立った山なのだし、きっと本当にそうよ」と応じた。
ちょうどニースから乗った電車の隣に座っていたトラッキングの杖をついた老夫婦とその娘が、我々と同じ塩梅でのんびり頂上のシタデルラを目指していて、追越したり、追越されたりを繰返しつつ、顔を合わせるたびに一言二言言葉を交わしたのも、母には励みになったに違いない。「杖を突いたあのお爺さんですら登っているのだから」、と坂の途中、ベンチ状の石に腰かけて母は呟いた。
シタデルラの山の鼻先には、古代の槍先のような、よく研がれた薄い刃よろしい岩山が聳えており、母は「その昔中国人がここに来ていたら、即刻石仏を彫ったに違いない。中国人と言えば、すぐに石仏を彫る人たちだから」とその姿に感動した様子だった。息子が買ってきたコーラで喉を潤しながら、小学生の頃、両親に連れられて何度となく伊勢原の大山阿夫利神社に登った話など、取り留めなく母と話す。大山の風景より寧ろ、山道の料理屋のタラの芽や甘酒ばかりが心に残っているのは何故だろう。

4月某日 ミラノ自宅
国外某所のマスターコースを受講してきたアレッサンドロが、コースの演奏会でも振ってきたブラームス3番を改めて聴いてほしいと言う。オーケストラと本番をやって来たならさぞこなれているかと思いきや、身体が硬直しきって到底音が合わない。聞くと、アレッサンドロが出来る限りオーケストラの音を聴いて、そこから霊感を掬い上げたいと言ったとき、指揮はそんな軟弱なことでは駄目だ、オーケストラに対し自分の音楽を明確に、強気で実現させるつもりで臨まなければいけない、と講師から助言されただけだと言う。教えるというのはかくも難しく、重責。

4月某日 ミラノ自宅
指揮の学生たちがお金を出し合ってオーケストラを3日間借り、全曲モーツァルトの演奏会を開いた。マリオ・ジョヴェントゥーの合唱団に手伝ってもらってK.65小ミサ曲、K.222Misericordias dominiなど合唱つきの作品を入れ、Ergo interest…Quere superna、Sub tuum preasidium、Conservati fedeleなどのアリアを、学校の声楽科の学生をよんで歌ってもらう。
モーツァルト少年最初のアリア”Conservati fedele(貞操を守って頂戴)”は、メタスタージオの同じ台本の名作”Per pietà, dell’idol mio(ああ愛する人お願いだから)”や”Oh, temerario Arbace, per quel paterno amplesso(ああ勇敢なアルバーチェ、父の抱擁によって)”に引継がれる魅力の数々がちりばめられていて、単なる子供の習作と捨置くのは忍びない。ともあれ幼い子供に「貞操を守って頂戴」と曲を書かせる父親もどうだろう。
レッスン合間に指揮の学生を集めてラテン語読み合わせ。小ミサ曲を担当するカブラスが学校でラテン語を勉強して来なかったので、発音やアクセントについて、他の学生も交えてセンテンスを聴かせ方について喧々諤々。

ロックバンドでベースをやって暮しているブラーヴィは、長髪をなびかせ顎髭を蓄え、風貌はロッカーそのままだが、生徒の中では一番厳しくラテン語を学んできていて、実に細かく注文を出すので驚いた。
たとえば、ラテン語tertiaは現代イタリア語terza(3番目の)にあたり、現在イタリアのラテン語教育で広く用いられる発音に従えば、ほぼterziaと同じになる。そのつもりで今までterziaと発音していたが、彼曰く本来はtiとziの間の発音で、先生の発音では子音がきつ過ぎると言う。
ともかく、ラテン語を読める読めないが、かくもイタリア人の誇りや恥の意識、格差意識に繋がっているとは知らなかった。うちの息子も来年から中学でラテン語が始まると話すと、とにかく声に出して読ませてあげてください、と皆から助言を貰う。
第五格変まで丁寧に覚えるより、音にしてしまえば、伊語のネイティブならずっと簡単に頭に入るし、瑞々しく感じられるという。話すための言葉ではないのだし、分からなければ辞書を引けばよい。音に慣れてしまえば、直感的に読み進められるというが、日本の古文でも同じなのだろうか。
ex-. idem, in primis, in extremis, et cetera, alter ego, tabula rasa, ultimo など、意識しないまま、日常会話で口をついて出てくるラテン語は結構ある。ドナトーニの”in cauda”も、”in cauda(尾っぽには)”と言うだけで、下の句”venenum”が口をついて出てくる年配のイタリア人はたくさんいる。我々が「塞翁が」と問いかければ、「馬」と応える塩梅だろう。“in cauda venenum”は蠍の尾に毒がある喩えで、「最後は毒にやられるぞ」というラテン語の故事成句。ドナトーニの曲の邦題は「行きはよいよい、帰りはこわい」と訳した。
この反語表現で後代作られた似非ラテン語成句もあって、“dulcis in fundo” 「デザートは最後、甘いものは最後」という意味になる。今朝ジャンベッリーノ通りのスーパーに出かけると、店内放送が、男性の声で「dulcis in fundo! はい、みなさま ”お楽しみは最後”でございます。毎度パムでお買い上げのお客様有難うございます!月末特価!XX大特売です!」と繰返していた。

4月某日 ミラノ自宅
キプロスからの土産にと、家人が息子のために笛を3本購ってきた。一つは木製の横笛で、二人同時に吹けるように、歌口が二つ向合って穿けてある。それから民族楽器風木製リコーダーともう一つ、竹製超高音域スライドホイッスルで、これは鳥笛の一種。フルートを習っている息子が、このリコーダーや横笛でラベルのボレロの旋律を吹くと、調律のせいで、えも言えぬ民族臭さが出てとても良い。ギリシャ風ともトルコ風ともつかぬ、よたる音。民族楽器風と書いたのは、民族楽器風の装飾が施されているが、実際はミュージックセラピーに携わる女性がつくる創作楽器だから。

本條さんから、長年住んでいるイタリアを主題にして、来月ローマで初演する三味線のための小品を頼まれる。自転車で息子を合唱に送りにゆきながら、頭のなかで何となく流れを決める。これとは別に、夏までに本條さんのために書く三味線と弦楽合奏のための作品は、日本から初演されるシベリアまでの道程を示すつもりで、全く違う音楽を考えている。三味線のことは分からないので、妙な小細工などせず、書きたい音を書き、やりたいことを説明して、本條さんからのアドヴァイスを素直に仰ぐことにする。
この前に書いた17絃と打楽器の作品では、作品の基のテキストの作者、ジョイ・コガワの名前を数字に置換え17絃の調絃を決めたところから、曲が求める音が自然に溢れてきた。この三味線の小品の場合、どの調絃が一番弾きやすいか本條さんに相談する。本條さんはローマの日本文化会館で演奏して下さるのだが、先日ローマの平山美智子さんの訃報を太田さんからいただく。文化会館で平山先生とご一緒したときを思い出して、胸が熱くなる。

4月某日 ミラノ自宅
息子が階下でプーランク「3つの小品」を練習している。中学の終り頃、生まれて初めて練習したピアノ曲が悠治さんの「毛沢東三首」で、その次がプーランクの「夜想曲1番」だった。渋谷のヤマハで自分でも弾けそうな楽譜を探していて、買って帰ったのを良く覚えている。今でこそインターネットでプーランク自演の録音すらすぐに聴けるが、当時この曲の録音は誰のものも聴いたことがなかった。

作曲家が弾いている自作の演奏の方が、実に自然で心に響くことのは、たぶん音符を弾いていないからだろう。自ら書いた音楽が明確に目の前に可視化されているからに違いない。ラフマニノフなどピアニストとして元来有名だが、プーランクやプロコフィエフ、ショスタコーヴィチなども、自作自演の録音を聴くと、他のピアニストでは、しばしば借りてきた衣を纏った感じに聴こえる部分が、まるで違った血の通った音楽として成立しているのに驚かされる。寧ろ音に感情など着せぬまま、音が投げ込まれ浮び上がる空間を眺めながら、無心で鍵盤に指を滑らせているように感じられる。
音楽家は音を身体に残してはならない。身体の裡は骸骨よろしく極力風通しを良くし、一切残滓ない方がよいのだ。すると、まるで思考の粒にまで昇華された細かな感情が、そのまま音に載って溢れだす。音と感情を身体に溜め込む程に、感情が先走った、鈍重で曖昧模糊とした発音になる。理由は分からないが、口を開け下顎辺りを緩めるだけでも、音の抜けは急に変わったりするので興味深い。
演奏家が書かれた音符に囚われた演奏をすれば、音楽も音符のカプセルに閉じ籠められたまま、こちらに流れ出しては来てくれない。一見単純に見える悠治さんのピアノ曲の楽譜など、音符に頼りすぎる演奏家の心理を鋭く突いていると思う。

4月某日 ミラノ自宅
M君のレッスンで、並んだ音は均等に並べないよう頼む。空から降ってきた音符が地に着いたら、形を揃えずにそのまま触らずにいて欲しい。削ったチーズをたっぷり加えたフランス風オムレツと、押して空気を抜いてつくる和風卵焼きの違いのよう。これがイタリア風になると、空気を押し出すこともなく、ただフライパンの型通りに卵をひき、しっかりとした食感のフリッタータに仕上げる。
日本文化は伝統的に侘び寂の印象が強く、空間性を特に大事にすると西欧から見なされてきたが、浮世絵から現在の漫画に繋がる空間造形の伝統を思い返せば、西欧風な遠近感によらず、空間全体に亘って見えるべきものを全てしっかり見せる志向を感じられはしないか。それも我々の文化の一端であって、否定すべきものではない。音楽に於いても、無意識にそういう特質が残っている気がする。かかる特質を予め伝統的に受継いでいると知るのは、決して悪くはないだろう。

どう演奏すべきかレッスンで話すのは出来るだけ避けたい。正しい演奏など存在しないし、同じ演奏者は同じ演奏を二度と繰り返せない。借りてきた着物で出歩くようなもので、人の演奏を真似ても、そこには真実は芽生えない。テンポが脈絡なく崩れて弾きにくかったり、「てにをは」さえ違っていなければ、基本的に尊重することにしている。
M君のレッスンでは、聴こえるべき音をゆっくり確認してから、原曲のシューベルトをベートーヴェンのように、ハイドンのように、ウェーバーの積りで演奏してもらう。困惑した表情のM君が、最後にじゃあシューベルトのつもりで演奏してと言うと、途端に晴れやかな表情に戻った。もちろん、実際は正しい演奏法などあるはずもなく、半分当てずっぽうだが、少なくとも楽譜の音符から視点を逸らし、音の質感や色や風景にのみ集中して音楽を作ることに役立つ。思いを巡らせることができる。音符ばかりが見える演奏では、機械の利用説明書のようになってしまう。

三つ子の魂に喩えると少し的外れなのだが、最初に身体に染みこんだ手本は、なかなか消すことができない。自分の音楽の礎は、篠崎先生のヴァイオリンを通して培われたと思うし、あの頃聴いていた音の原体験は、何物にも代えがたい。幼少からAIによって自動生成された音楽のみを聴いて育てば、どうなるのだろう。既にそれに限りなく近い状況が生まれつつあるとは思う。
ミラノで新しい現代音楽アンサンブルを作るから手伝ってほしいと頼まれて、アンサンブル作りからアンサンブルが軌道に乗るところまでに関わった。リハーサルの仕方から、楽譜の読み方から、一つ一つ時間をかけて積み重ねていった。あれから10年以上経ちメンバーも入れ替わったけれど、当時培った音楽の方向性は今も全く変わっていない。彼らは今やイタリアを代表するアンサンブルになったけれど、一緒に悩みながら作り上げた音楽が認められたことは、とても誇りに思う。楽譜をどれだけ正確に実現するかより、楽譜が何を望んでいるのかを探し求め、表現する試みだった。

何の為に自分は音楽をやっているのか。イタリアに来たばかりの頃は、本当にそればかり考えていた。イタリアに来る直前に阪神淡路の震災があって、住宅地から吹きあがる火柱を眺めながら、途轍もない喪失感に襲われた。自分は何故何の役にも立たぬことをやっているのか。そんなことを考えつつイタリアに留学生活を始めて、全く作曲が出来なくなった。無気力から脱せぬまま、ストレス性難聴で耳も聞こえなくなった。
経済不況からイタリア政府給費も打ちきられ、路頭に迷って手当たり次第に観光ガイドや通訳のアルバイトで日銭を稼いだ。夜明け前に観光バスのガレージに出かけ、ツアー客を連れてゆく怪しげなレストランで、ガイド用に用意される食事を昼も夜も食べた。
内容はツアー客と同じもので、常に同じリストからメニューを選び、それもお世辞にも旨くなかったから、美味しいですよと連れてゆくツアー客にも申し訳なかった。一日働いて家に戻れるのも夜半だから自然と音楽から遠ざかり、ちょうど作曲も出来なかったので初めは何も感じなかったが、そんな毎日が続いて漸く、自分にとって音楽が掛替えのないものだと痛感した。

食べるために人を騙して仕事する位なら、食べないで音楽をやっていた方が良かった。あの頃は不思議なくらい、食べなくても楽譜を読んだり作曲できるだけで幸せだった。
あの頃に、自分にとって音楽の意味するものは理解できるようになった。子供の頃から競う目的で演奏するものは、自分の音楽とは似て非なるものだ。それでもコンクールに関わらなければならないなら、審査するよりもむしろ、可能な限り審査される側に関わっていたい。
審査される作品を並べて演奏するとき、本当はどの曲が一番好きですか、どれが一番になると思っていましたか、と声を潜めて尋ねられる。優等生の模範解答のようで甚だ厭だが、本当にどの曲も等しく受賞されるよう願いつつ演奏しているし、それぞれ作品の魅力は全く違って、比較できないし、各作品の魅力を最大限引出すべく我々は必死に演奏している。だから、演奏会後に受賞を逃し落込んでいる作曲者に、無意識に「素晴らしかった、おめでとう」と勘違いな発言を繰返し、その度に自己嫌悪に陥る。

家人が結婚前に教えていたS君という生徒がいて、とても不思議なピアノを弾いた。器用ではないが、心に響く純粋な音楽だった。教養に富む頭で感じる音楽というより、もっと素直に語り掛けてくるものがあって感動させられた。プロコフィエフのトッカータなど、無理して弾いているのだけれど、ものすごく切実な音楽で、うつくしかった。
聞けば、S君はニッカポッカを履いてトビ職人をやっていたと言う。そのころ家人は、S君と街を歩いていて、このビルはうちが建てたんですと自慢するのを面白がっていたが、或る日、S君がトビになった切っ掛けは、暴力団から抜けたからと知った時は流石に仰天していた。それから程なくして、S君は忽然と姿を消してしまった。組から抜けるのは大変だと話していたので、連れ戻されて酷い目にあっているのではないか、警察に探してもらえないかと気を揉む日々を送った。彼がどこで何をしているのか、知るすべもないけれど、S君が彼の音楽とともに生きていることを願う。

4月某日 ミラノ自宅
音楽を教えるにあたり、方法論に言及するのは適当ではない。音楽とは一体何か、少なくとも自分にとって何か、それを一緒に考えることしかできないと思う。
こうやって弾けばよい、と自らのピアノの指使いを全てコピーさせるのが、優れた音楽の指導法とは呼べないだろう。どういう訳か、エミリオに習っていたころ、クラシックのレパートリーの彼の書き込み入りの楽譜は、殆ど生徒に見せてくれたことがない。それに反して、勉強した後の現代曲の楽譜はとても気軽に貸してくれたので、それを見ながら、自分なりに楽譜の勉強の仕方を考えた。
ちなみに、自分の勉強した楽譜は、現代曲でもクラシックのレパートリーでも、生徒にはいつも気軽に見せていて、何か役に立てられるのならと言っている。矛盾するようだが、自分の書き込み入り楽譜を学生に見せるのは、そこに音楽はないことを明快に伝えたいからだ。音楽は楽譜の中にはない。楽譜は音楽ではない。答えを導く情報は確かに書いてあるのかもしれない。しかし、楽譜をいくらのぞき込んでも、答えはそこにはない。

4月某日 ミラノ自宅
13歳、文字通りの思春期を持て余している息子にとって、生れて以来母親とのコミュニケーション手段として使ってきた日本語は、春先留守がちだった家人へ甘えを表現する手段でもある。伊語を話すと息子は無意識に年齢相応のしっかりした自我を纏い、日本語を話すと無意識に甘えの精神構造に変化する姿を観察するのは興味深い。父親に伊語で話しかければ精神的に安定している証拠で、日本語で話しかけてくれば、甘え相手を探していると理解する。

4月某日 ミラノ自宅
小学校のときに自転車に乗っていて軽トラックにはねられた。はねられた後は暫く記憶がなくて、遠くにまばゆい扉のようなものを見た気がするが、それも後付けの記憶かもしれない。はねた軽トラックはそのまま暫く走って止まったのか、止められたのか。周りが「轢逃げ未遂」と話していたからか、朧げに走り去ってゆくトラックの後姿を覚えている気がするのだが、これも後から付け加えられた記憶かもしれない。
どういう廻りあわせか、中学に入ると、加害者の娘が同じ学年にいることが判った。どうして判ったのか覚えていないが、何度か彼女のクラスの前を通った時、その女の子を眺めていたとおもう。どうして女の子が誰だか分かったのかすら判然としないが、体育着に名札でもついていたのだろう。ともかく彼女は級友に囲まれクラスの真ん中で楽しそうに笑っていて、指なしと呼ばれている自分が情けなかった。
彼女に何の恨みもなかったし、子供心に彼女に対して何かを思うのは間違っているのはよく判っていたが、彼女の楽しそうな姿を見てから、坂道を転げ落ちるように酷い自律神経失調に陥り、中学終りまで塞ぎこんでしまった。
息子を見ていると、あの時の自分を思い出す。女の子の姿をみて羨ましいと思った感情が、無意識に自分を傷つけていたのかもしれない。加害者に対して憎しみも何も感情が沸かないが、それは単に自分が幼かったからだろう。あの時両親がどんな思いをしていたのか少し理解できる気がする。

久しぶりに両親と電話で話す。今週だけでも病院は3回くらい行ったのだけれど、子育てはなかなか大変だね、と母親に言うと、それも終わってみると、親は良かったことしか覚えていない、とさも愉快そうに笑った。

4月30日 ミラノにて