しもた屋之噺(209)

杉山洋一

五月が終わるという目まぐるしさに言葉を失っています。このところ日本と反対に肌寒い日々が続いていて、毎日突発的に激しい驟雨に降られているうち、一ヶ月が経っていました。そんな中、NさんやHさんから齋藤徹さんの訃報を受け取り呆然としました。Nさんは「参りました」と、Hさんは「できそうなことは、さっさとやっておくしかありません」と、それぞれの心中をしたためていらして、言葉にできぬ焦燥感に駆られるばかりです。
階下で家人がフォーレの三重奏を練習していて、フォーレが見事な白百合の花のように、悲しみにどうしてこうも寄り添うのか、不思議に思います。最初にそう気付いたのは、高校の頃、祖父の葬儀の翌朝に聞いたレクイエムだったかとおもいます。フォーレのあの寂寥感は、すっかり浄化されて天使の声と一体になった、天上の慟哭なのでしょうか。

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5月某日 セストリ・レヴァンテ 
家人が日本に戻っていて、息子が受けるピアノ・コンクールに付添う。会場のあるセストリはジェノヴァからラ・スペーツィア方面へ少し行ったところにある観光地で、夏場は大変な賑わいに違いないが、今日は肌寒く黒い雲が低く立ち籠めていて、人気も殆どない。所々にコンクールを受ける子供たちと親が連れ立って歩く姿を見かける程度だ。
ジェノヴァあたりの建築は、ミラノでは殆ど見かけない黒光りする磨き上げられた石の印象がある。大理石なのか、御影石なのか疎くてわからない。厳めしく重厚で深い味わいを醸し出し、南国的な光と影の強い対照を描く。宿の黒々とした旧い石階段も、すっかり磨り減って中ほどが緩やかに窪んでいた。
この建築様式が、イエズス会文化と無意識に繋がるのは何故だろう。セストリの小さな中央教会も外装は酷く簡素だが、一歩足を踏み入れた途端、絢爛で愕かされる。これをイエズス会文化と結びつけるのも荒唐無稽だが、ジェノヴァで1607年に小西行長の殉教劇などを上演した記憶など、無意識に日本と結びつけているのかもしれない。
ジェノヴァ人は一般的に守銭奴で性格がきついと言われる。ミラノの友人が、ジェノヴァ名物のペーストのパスタでもてなしてくれた折、そこにいた一人のジェノヴァ人が、ジェノヴァ人は到底ミラノのペーストは食べられないと笑っていて、質の悪い冗談かと思っていると本当に一口も食べなかった。それ以外、ジェノヴァの劇場で仕事もしていないし、関わりもなく、セストリにも来る機会もなかった。
今回泊まった宿の主人は話好きで愛想が良かった。部屋にはラウシェンバーグとケージのコラージュやら、リキテンスタインが掛かり、イタリアはすっかりアメリカナイズされた、と不平をこぼしているのが不思議だった。
彼に薦められた食堂で、ジェノヴァ風ペーストを食べると、なるほどミラノで食べるものとはまるで似て非なるものであった。

5月某日 ミラノ自宅
ソルビアティが子供のためのピアノ小品集「弦とハンマー corde e martelletti」100曲を完成し、バーリ、ベルガモ、カリアリ、ノヴァラ、ピアチェンツァ、ミラノの国立音楽院に通う10歳から15歳のピアノの生徒29人で全曲演奏をした。
ノヴァラの音楽院から息子も参加して、リハーサルと本番、二日続けて息子を自転車の後ろに乗せ、ヴェルディ音楽院と往復した。
とにかく曲がとても魅力的だった。普段大きな編成のアレッサンドロの曲ばかり聴いていたので、これだけ短い作品がそれぞれ印象的に響くのは、新鮮だった。無調の現代曲ばかりだが、子供たちは全く意に介さないばかりか、実に見事に弾きこなしている。
内部奏法だけの作品や歌いながら弾く作品、叫んだり泣いたりしながら弾く作品、チェーンを弦に乗せてチェンバロを模す作品、プリペアド・ピアノ作品らも適宜雑じっていて、聴いていても厭きない。20時30分から演奏が始まり、休憩なしで23時40分終了。
アレッサンドロは勿論、知り合いのピアニスト、作曲家、指揮者らが勢揃いした錚々たる聴衆のなか、子供たちは立派に演奏して感心する。
ピアチェンツァのピアノ教師にダヴィデがいて、昨年シューベルト・リストを一緒にやって以来の再会。こんな風に会うとはね、と大笑いする。作曲者夫人エマヌエラとは、秋にボローニャで共演するカセルラの話。

5月某日 ミラノ自宅
食卓でカセルラの譜面を広げていると、階下から、家人の練習するラヴェルとフォーレの三重奏が聴こえてくる。ラヴェルとカセルラは、共にフォーレの作曲クラスで同時期に学び、近所のアパートに住んで親しく交流した。先だって書上げたレスピーギ「噴水」解説では、カセルラが「ダフニス」のイタリア初演をした折の日記を訳出した。1915年のバレンタインデー、2月14日のことだった。ラヴェルの「三重奏」は、そのわずか半月足らず前の1月28日にカセルラがピアノを担当して初演された。ダフニスそっくりの三重奏の三楽章ファンファーレなど、間違いなくカセルラとラヴェルで冗談を言い合ってリハーサルをした筈だ。「ラ・ヴァルス」2台版をカセルラとラヴェルで初演したのは1920年。フォーレの三重奏をコルトーらが初演したのが1924年。カセルラがピアノ三重奏とオーケストラのための三重協奏曲を初演したのは、それから10年近く経った1933年。
ラヴェル「三重奏」をカセルラとラヴェルが共に稽古をしていた時期は、第一次世界大戦下だった。フランス、イタリアは共にドイツ、オーストリアと対戦し、ラヴェルもカセルラも共に従軍し、ラヴェルは凍傷にかかり病院に収容され、カセルラは虚弱体質で病院に収容された。しかし二人とも、国内のドイツ音楽禁止の声明には賛同しなかった。20年後カセルラの三重協奏曲はベルリンで初演されていて、時代の流れを感じる。

5月某日 ミラノ自宅
息子が日本人学校に通うようになり、今まで特に指摘もしなかった日本語の間違いを直す機会が増えた。我々もささやかながら自らの日本語を律していて、最近気を付けているのは、話す際に「やつ」を、書く際に「こと」の多様を避けるというもの。響きが悪いし語彙力の低下も否めないから。なかなか思うように出来ないのだが、面倒でも単語はしっかり使うべきではないか。
昔から日本語の文章を書くとき、一人称単数の人称代名詞を使わない理由は、自分でもよくわからない。日本語に欧文とは違う、言い切らない美しさがあるとして、「自分」を表す人称代名詞は、欧文調で無粋な気がするからか。尤も「吾輩は猫である」のように、それを逆手に取れば強い印象も残すから、言葉はやはり興味深い。
もう大分前から、予め明確に使用すると決めない限り、作曲する際、特殊奏法、特殊楽器の類は使わない。それらを使う人は大勢いるし、本来使われるべき音色が、結局は楽器の本質と思わされる機会も多い。電子楽器のような音が欲しいなら電子楽器を使えばよいし、打楽器的な音が必要なら打楽器を使えばよいと言ってしまうと、楽器も音楽もこれ以上発展は望めない気もする。何より我乍ら年寄り臭い言草に、自己嫌悪。

5月某日 ミラノ自宅
週末ノヴァラの国立音楽院まで息子の付添いに出掛ける。地下鉄でミラノ中央駅に行き、近郊電車でトリノ方面に向って小一時間。街にはピエモンテらしい洗練された洋菓子店が並び、何でもノヴァラ名物も多いそうだが、未だ何も知らない。
「メレンゴーネ」特大メレンゲという名の巨大メレンゲは、直径30センチはある。高さだけでも15センチは優にありそうだ。目抜き通りのこじんまりとした古い洋菓子店一杯に、この特大メレンゲが犇めき合っている様は、愉快で圧巻でもある。
特大カルメ焼きに等しい代物だが、これもノヴァラ名物なのか。息子のレッスンの最中、ノヴァラに住むEちゃん宅にお邪魔して仕事をさせてもらう。Eちゃんは長く家人の生徒だったから、拙宅にも幾度となく遊びにきていて気が置けない。
マリピエロ「交響曲第6番(弦楽)」を読むほどに、不思議な浮遊感が襲ってくるのは、須賀敦子さん曰く「ヴェネチア独特の浮遊感」かとも思う。心地良いが無機的で、切り貼りされながら表現力に長ける、まるで矛盾した超現実的な音と構成の扱いに、同世代のデ・キリコの表現を思う。彼の弟も作曲家だった。
デ・キリコらを「形而上的絵画」を呼ぶのなら、マリピエロは「形而上的音楽」と呼んで然るべきか。「形而上的絵画」の特徴は、遠近法の欠如、人物の矮小化、擬人的静物、超自然的現象だそうだが、なるほど、そのままマリピエロに当て嵌められそうだ。

5月某日 ミラノ自宅
昨日今日の二日間、piano city milano2019の期間中だけでミラノでは大小450以上のピアノ演奏会が開かれた。
アルフォンソが最近キアヴァリのマルコから購入した50年もののザウターがとても良かったので、マルコのピアノに興味を持っていたところ、彼がちょうどpiano cityに1850年製の特注プレイエルと、1880年製のスタンウェイを持ってきたので見物にゆく。
プレイエルは当時ミラノの出版社Luccaで使われていて、ワーグナーも愛奏したという。Lucca社は、19世紀Ricordi社とオペラ出版で覇権争いを繰広げた一流楽譜出版社だ。それらのピアノが、見事に装飾されたダヴィンチ科学技術博物館の「晩餐の間」に置かれると、美しさが一際映えるようであった。
誰かがプレイエルでショパンを暫く試奏していて、終わってみると旧知のフェドリゴッティだった。続いて風邪で体調が悪いと言いながら、翌日の演奏会のためカニーノが訪れた。少し立ち話をしてから、バリスタと二人、右端のスタンウェイを使ってリハーサルを始めた。
高らかに明るく立ち昇るような音が、不思議なくらい鮮明にこちらに飛んでくる。仄暗い部屋で巨匠二人が、所々立ち止まったり、繰返しながら仲睦まじく音を紡ぐ姿は、音楽そのものを体現していた。彼らから温かく優しいものが流れ出し、会場を満たすようであった。

5月某日 ミラノ自宅
週末、相変わらず息子を自転車の後ろに乗せ、ミラノの反対側にある、リバティ宮まで出かける。7キロ程度だから距離はさほどでもないが、途中道路工事で路肩が急激に狭まり危険なので、自身が交通事故に遭った身からすると、到底息子を一人で自転車に乗せられない。結局、環状線を走る際は、未だにこうして二人乗りになる。家人に過保護と言われても仕方がない。自分が再び交通事故に遭う確率は低いと信じて、後ろに乗せる。
先週思いがけなく博物館で会ったカニーノが、今日は旧知のオーケストラとハイドンの協奏曲を弾く。息子共々どうしても聴きたくて自転車を飛ばしたが、大いにその甲斐があった。想像通りハイドンは、最高級の喜劇に等しい至福に満ち、オーケストラも指揮者も、勿論カニーノ自身の顔も微笑みに綻んでいた。聴衆も同じ表情をしていて、本当に彼は聴衆からも愛されているのだった。
絶妙な即興的な合いの手も即興的なカデンツァも、凡てに艶があって輝いていて、何より愉快であった。音を遊ばせていて、と書くのは簡単だが、どうすればそう実現できるのか想像も出来ない。ハイドンを弾いただけで、会場が熱狂の渦に巻き込まれた。

5月某日 ミラノ自宅
カセルラの作品構造メモ。ピアノ三重奏とオーケストラのために書かれているからか、数字の3に因む素材が散見される。等しくフォーレクラスに学んだ同世代の作家でも、ラヴェルと全く違って、カセルラはシェーンベルクを偏愛し無調へと進んだ。そして、無調に至ったところで、結局はより簡明な平行和音へと帰結したから、和声だけ取り出せば、最終的にはよほどラヴェルの方が複雑だった。
そのラヴェルの手の込んだ和音は、戦後、前衛音楽には直結しなかったが、カセルラの簡明な和声構造は、バルトークの影響と雑じって、戦後イタリア前衛音楽の礎となった。
協奏曲故か、提示部が長大で入組んでいるのに対し、再現部は簡略化され、最後にコーダが付加される。展開部にあたる部分は、複雑な展開構造を繰り広げるより、むしろ提示部の変奏、変容に近かったりする。

5月某日 ミラノ自宅
ここ暫く家人が練習に励んでいたラヴェルとフォーレの三重奏を聴きにゆく。アルドが、フォーレの二楽章はレクイエムを想起させると話していて、迫真で感極まる演奏に胸が一杯になる。今朝は抜けるような青空が広がった。庭の芝生を刈らなければと思っているうち、雨続きと仕事にすっかり庭は荒れてしまった。雑草は盛んに伸びて、どれも30センチは優に超え、黄のタンポポや薄紫のクローバーの花が、庭一杯に咲き乱れている。
「訃報」というメールが届き、吉田美枝さんがお亡くなりになったのを知る。「今日の音楽」で、ナッセンの公開レッスンの通訳をして頂いたのは、大学の終りの頃だった。つい最近まで、ご主人を通してずっと近況のやりとりはしていたが、結局お目にかかれず、それきりになってしまった。
雲一つない青空と新緑の碧の下、無数の黄と薄紫が微風に目の前に揺らめいていて、これを刈りとるべきか、ぼんやりと眺めている。


(5月30日ミラノにて)