しもた屋之噺(234)

杉山洋一

ミラノから特急でフィレンツェまで行き、そこからピサを通って着いた港町、リヴォルノの場末のホテルでこれを書いています。夜半、カモメの啼き声が通りに響きます。息子の付添いで強制的に挟み込まれた3日間の夏休みを愉しんでいます。ほぼ書き上がっていた原稿をクラウドに保存したところ、ホテルのインターネットが不安定だったのか、見事に消失していて、これからすべて書き直すところです。

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7月某日 ミラノ自宅
サッカー欧州選手権準決勝に勝利して、夜半、外はクラクションの嵐。半時間は軽く続いただろう。元旦のカウントダウンどころの騒ぎではなく、今まで溜まっていた鬱憤を一気に発散しているようだ。非常に煩いのだが、嬉しさが伝わってくるので嫌な気分にはならない。花火も沢山打ちあがっている。これでもし優勝したら一体どうなるのか。
息子はミラノ・シティライフ集団接種会場Palazzo Sintilleにてファイザー1回目接種。
自動的に2回目接種の日程が8月16日と指定されたが、それではこちらが日本に戻れなくなるので、コールセンターに電話をして変更してもらう。息子は接種まで緊張していたが、これで安心したようだ。明日熱が出ないと良いが。
 
7月某日 ミラノ自宅
早朝ナポリ広場まで歩き新聞と朝食の甘食二つを買う。庭の芝生に水を撒きながら、オムレツを作り、昼食に二人前のクスクスを作って半分を弁当箱につめる。息子の分は冷蔵庫で冷やし、それぞれ昼にレモンの搾り汁をたっぷりかけて食べる。
2か月ぶりに溜まっていたレッスン補講がはじまる。うちの学校は17世紀のヴィッラを流用しているため、新消防法に則り屋内を改装することになり、7月から9月までは同じミラノ市立学校の通訳、翻訳専門学校の教室に小さなグランドピアノと縦型ピアノを搬入してレッスンすることになった。
とても短いカルキ―ディオ通りに面した専門学校は、音楽学校と等しく大学相当の組織でストラスブール大学と提携していて、拙宅に近いサンタゴスティ―ノ駅近く、街外れに佇むうちの学校と反対に、ミラノのファッションショーをやる界隈にあって、ピアノのマリアなど雰囲気が最高だと大喜びしている。とにかく学校の建物に惚れ惚れする。1930年代から40年代に建てられた見事なファシスト建築で、天井が高く荘厳だ。
内装にはふんだんに磨き上げられた大理石が使われ、窓枠など昔のままの木枠だが、全て最近塗り直されていて美しい。簡素でありつつ贅沢な味わいを醸し出す典型的なイタリアらしさが光る。
東京に非常事態宣言発令決定。
 
7月某日 ミラノ自宅
朝、カルキ―ディオ通りの学校に出かけると、学校が閉まっている。普段この学校は週末は閉まっているらしく、今日に限って我々のために開くはずだったのを忘れたらしい。エンツォ何某という男性がマジェンタで車のタイヤを交換してすぐに駆け付ける、と連絡が入る。仕方がないので、最初のレッスンは急遽自宅で行う。
見ず知らずの我らがエンツォ氏はなかなかやってこない。彼は絶対アロハシャツに短パンの出で立ちで、濃いサングラスをかけているに違いないと、と笑いながら門の前の日陰でコーヒーを飲みながら待つ。
マリアなど、この状況ですっかり陽気になってしまい、大胆に道端で胡坐をかいて、呑み終わった紙コップを自分の前に置きっぱなしにしていて、誰かが間違ってお金でも恵んでくれそうだったから、あわてて屑箱に片付けた。
歩道に座り込む我々の後ろで、自分のマセラッティを自慢しにきた身なりのよい紳士が、友人と思しき男性に、この間は何某を乗せてヴェローナまで走ってきた、などと話していて、なるほど、ミラノコレクションの界隈だと思う。
15分ほど、そうやって木陰で大笑いをしていると、エンツォ氏は、レゲエを大音量で鳴らしつつ、シャツの胸元を大胆に開け放ち、笑いを振りまきながらやってきた。余りにも我々の想像通りだったので、同僚と改めて顔を見合わせて大笑いした。いやあ、何だか今日は大変だねえ、とエンツォ氏も笑っている。イタリアらしくてよい。本来であれば、この時期はレッスンやら授業をするより、レゲエをかけながら、浜辺のビーチパラソルの下で寝ているべきなのだから。
つい身体に力が入って硬くなりがちなベネデットに、今までと全く違うアプローチを試してみる。掌を擦り合わせ、そっとそれを放す。その裡に目に見えない球体の存在が感じられるかと言うと、わかるらしい。「気」の初歩の初歩のような感じだが、彼に気功について話すつもりはない。ただ、そのふわふわと感じられる感覚を保ちながら振ってみるように話すと、肩から背中にかけて、今まですぐに硬くなりがちだった部分が解れた。強音を出したければ、その見えない球体を強くバウンドさせるつもりでやらせる。
頭がその球体に集中しているから音も耳に入りやすいようで、うまい具合に振れている。今までこの感覚に気付かなかったそうだ。
面白いので、その後来た生徒二人にも同じ練習をやらせてみると、やはりうまい具合に肩から背中の力が抜けて姿勢がよくなる。皆揃ってこんな感覚は初めてで興味深いと言う。
指揮というのは本当に面白いもので、指揮者の身体の状態が、ある程度奏者にそのまま反映される。指揮者が息苦しいと思いながら振れば、息苦しい音がでるし、身体を硬直させながら振れば、奏者も同じように硬直する。以心伝心というのか、無意識の共感から欠伸が伝染するようなものだろうか。だから、指揮者が身体が緩んで気持ちよく呼吸が出来る状態でいれば、オーケストラも同じように気持ちよい音がでる。簡単な理屈だが、実践するのはとても難しい。
 
この翻訳、通訳専門学校はもちろん既に夏休みに入っていて、だから教室を貸してもらえるのだが、補講などで、やはり学校に来る学生も多少はいて、開け放した窓から見える指揮のレッスンに興味津々だ。
自動販売機あたりに屯う若者たちが、指揮はこうだとか、仰々しく意見を言い合っていて微笑ましい。ミルコが「運命」を最後まで通し切ったところでは、外から「格好いい!」と妙齢たちから黄色い大歓声があがった。ミルコははにかみつつもとても嬉しそうだった。最後までミルコは渾身で集中していたから、揶揄っているのではなく素朴に感激したのだろう。彼女たちが入口の階段に座って、見物していたのもミルコは全く気が付いていなかった。
予めエンツォには18時半までレッスンと伝えてあったが、18時頃には開けっ放しのドアの外にやってきて、音楽はいいね、ブラボーなどとお世辞を言いつつ、何度も教室に顔を覗かせるので、出来るだけ早く切り上げるから向こうで待っていてくれというと、機嫌よく戻っていった。イタリアの喜劇映画そのままである。
 
7月某日 ミラノ自宅
サッカー・欧州選手権イタリア優勝決定。最後の一蹴をゴールキーパーがとめた瞬間、街中から、ウォーというどよめきとも歓声ともつかない声が沸き上がり、無数の花火と無数のクラクションが辺りを埋めつくした。今日は朝から街中ずっと浮足立っていた。レプーブリカ紙の表紙は、一面が緑色で「イタリア対イギリス」とだけ大きく書かれていた。午後になると、街のあちこちの喫茶店が歩道に机と椅子を並べ、大画面のテレビを立てて、即席の観戦席を拵えていて、両若男女がビールなど呷りつつ、試合を心待ちにしている光景は微笑ましかった。
息子は21時半過ぎには眠たいと言って寝てしまったが、素晴らしい試合だったから、こちらは一度見始めたら止まらなくなった。皆、イギリスは手強いから勝利は期待できない、と話していたが、今日は、昼間のレッスン中にも、生徒たちから自然にイギリス戦の話題が口をついてでてきた。スポーツが国を一つにするというのは、こういうことかと思う。文字通り国を挙げて沸き立っているのがわかる。本来、日本のオリンピックもこうなる筈だったのだろう。
 
7月某日 ミラノ自宅
今日のレッスンは、自分も含めて皆少し寝不足気味だ。コモに住んでいるアレッサンドロは、昨晩の試合後、暴徒に車のタイヤを切り付けられパンクさせられて、学校に来られなくなった。マッタレルラ大統領が「きみたちがイタリアを一つに結び付けてくれた」とサッカー選手たちを激励したとレプーブリカ紙に書いてある。早速EURO20で観客に感染が拡大しないか、と危惧する記事も掲載されていた。。
 
7月某日 ミラノ自宅
朝4時起床。稲森作品譜読みを続け、朝9時前、半時間ほど寝てから、「ジョルジア」まで歩く。週末なので、息子の希望に応えて、朝食にパスティチーニと呼ばれる小さな洋菓子を買う。暫く外食していないので、このくらいの贅沢を許してやりたい。最近、彼はリキュールに浸したババーを楽しみにしていて、食べるたびに酔っぱらって眠くなっている。
2週間弱、朝から晩までレッスン補講を続けて溜まった疲労は、正直なかなか抜けない。そんな中でも朝、40分ほどナポリ広場まで歩くのは続けていて、その間だけは頭を切り替え、作曲中の作品について思索を巡らせることができた。脳がマルチタスクをこなせないのと同じで、指揮と作曲、大学の仕事を同時には処理できない。
これだけ集中してレッスンをすると、生徒たちの顔つきも目の輝きも変わってくる。司祭を目指すアレッサンドロは、変わることなく我々の心を揺さぶる音楽を紡いでくれたし、映画音楽作曲科の指揮の手解きをしていて、なかなか素敵な「坂本龍一様式による課題」を書いてきたジョヴァンニには、自分の作品だからと言って、無理に身体から音を引き剥がす必要はないと伝えた。もし自分の音楽に感動したかったらそれは構わない、と伝えると、彼は音楽に浸りながらとても感動的に自作を振り、演奏後はその感動で茫然自失したまま、30秒ほど言葉が出なかった。あの経験は、一生彼の身体のなかに残ってゆくと信じている。
 
昼食後は芝刈りで困憊。本日のレプーブリカ紙は、2面、3面、4面の全面が東京オリンピック関連記事のみ。最初の一文「バブル方式に孔が空いた」に始まり、オリンピック開催準備の不備、この状況下で日本に出かける選手たちの精神状態、日本国民のワクチン接種率がイタリアほぼ半分の20%、連日東京の新感染者数は1000人を超え変異株の感染が拡大、など、かなり厳しい口調で糾している。
特に、オリンピックを機に漸く再開されたアリタリア便では、ローマから羽田に飛んだ選手たちが、機内に陽性者が発見されて、濃厚接触者となって行動が制限されている現状や、万が一陽性者が出た時点で出場ができなくなるため、極度の緊張を強いられる毎日だと伝えた。
イタリアは基本的に日本に対して好意的だ。日本を糾弾する記事も、こうした大手新聞で読んだ記憶はない。だから、このように厳しく書かれたのは意外だったし少なからずショックを覚えた。福島の原発事故や津波の際も、日本の悲劇を報道していても、やはりどこか当事者意識は低かったのか、可哀そうという論調が目立った。
今回は、突然落ちこぼれた優等生を目の前にして、「一体、どうしちゃったの」と困惑する声が、記事のまにまに見え隠れしている。
 
7月某日 ミラノ自宅
庭で「キュキュキュキュキュ」と鳥が啼いている。今まで旅行で家をあけることが多かったから、動物は飼えなかったが、毎日庭には黒ツグミの親子やら、もろもろ小鳥やらリスやら沢山やってくるので、寂しくはない。
レプーブリカ紙ミラノ版文化欄に、マリオ・シローニ(Mario Sironi 1885-1961)没後60年を記念して、彼の作品を集めた大規模な展覧会が20世紀美術館で開催とある。シローニというと、未来派のなかでは特に若くて、ボッチョーニらが亡くなっても最後まで活動した画家の印象を持っていたが、ちょうどレスピーギ、マリピエロ、カセルラと同じ、1880年代生まれで、等しくファシズムに傾倒、迎合したとの烙印を押されて、戦後長く顧みられなかったという。
暗い色調と、少し陰鬱な表現、全体的に肥大した構造も、前述の作曲家の作風にも一部共通していて興味深く、どうしても訪れたいと思っている。
自分が偏愛してきたイタリア文化は、「特別な一日」や「自転車どろぼう」のような映画のような、「武骨で暗澹としたイタリア」だった。「イタリアン・リアリズム」を音楽で具現化したからこそ、ドナトーニに興味を覚えたのだろう、と今となって改めて思う。自分にとってミラノが居心地がよいのは、ファシズム建築が数多く残る、少し陰を帯びた街並みだからかもしれない。
 
第二次世界大戦は起きるべくして起きたのかもしれないが、もしあの大戦がなければ、世界はどうなっていただろう。ファシズムの歴史に黒シャツ隊など現れず、せいぜい大規模農業政策の実験を発展させるだけで現在に至り、エチオピアあたり一帯は早晩平和的に解放されて、世界が友好的に現在まで発展を続けていたらどうだったか、と想像する。
未来派たちが唱えた建築など、ファシズムに飲み込まれず、そのまま未来派建築として現在まで輝かしい発展を遂げていたら、さぞ面白いものになっていただろう。
日本の戦前文化がそのまま隆盛を誇り、朝鮮半島や台湾も友好的に解放されて(そんなことが出来るのかわからないが)、太平洋戦争もアジアの侵略戦争もなく原爆もなかったら、日本はどうなっていただろうか。
暫く考えてみても、余りにも非現実的で結局想像がつかなかった。それでも、一つだけ確信を持っているのは、少なくとも現在のような「現代音楽」は生まれなかったであろうし、生まれる必要もなかったということだ。
 
イタリアでは、ワクチン義務化が急ピッチで進められ、大学生はグリーンパスと呼ばれるワクチンパスポートが登校の際必須になるとか、教員の接種は義務化とか、毎日のように新しい「法規」が提案され、各都市のワクチン反対派デモは激化している。
8月6日以降、レストランの食事にも「グリーンパス」携帯が義務化されてしまった。つい先日まで、こんな世界を誰が想像できただろうか。
100年前のスペイン風邪流行後に生まれた、あの「ファシズム」の機運をもしかしたら我々は今身をもって追体験しているのかもしれない。薄い恐怖が我々頭上に果てしない帳をひろげてゆく。
 
7月某日 リヴォルノ・ホテル
ほぼ1年半ぶりに、ミラノ中央駅から列車に乗ったが、それだけでもひどく感動を覚える。昨年の3月、ノヴァラからミラノに早朝の一番列車で戻った際、また列車で旅行できる機会が訪れるとは想像もできなかった。
あれから飛行機には既に何度か乗っていて、初めてフランクフルトを訪れたときは、同じように感動を覚えたが、列車は地上を走る分、実感や現実感が増すのかも知れないとおもう。
特急が何度となく通ったエミリア・ロマーニャやボローニャの駅に停車するたび、昔の記憶が甦ってきて感慨に耽る。乗り換えでフィレンツェ駅に降りたつと、Covid対策なのか、構内はいくつものパーティションで仕切られ動線が制限されていて、以前の広々とした駅の印象は消えていた。
息子と二人で泊りがけで旅行するのも、2年前に彼が同じようにコンテストを受けにリグーリアへ出掛けた時以来だ。あの頃息子は声変わりの途中だったが、今では電話をかけてきた家人ですら勘違いするほど父親そっくりの声色になった。今回、彼は自分の携帯電話に表示されるワクチン接種のグリーンパスを提示しなければコンテストに参加できない。
毎日、二人で外食するのも、本当に何時ぶりだろう。リヴォルノ生まれのモディリアーニの愛称、Modìという食堂がホテル近くにあって、そこで毎食新鮮な海の幸を使ったリヴォルノ料理を堪能した。
店内所狭しと飾られたモディリアーニのレプリカを眺めつつ、この画家に憧れていた父を思う。ゴルドーニ劇場で息子が弾いた革命のエチュードは、我が息子ながら実に立派だったと感心した。東京の新規感染者数4000人を超えた。
(7月31日 リヴォルノにて)