しもた屋之噺(101)

杉山洋一

どこか重心がずれたまま、落ち着きのなかった一ヶ月が過ぎようとしています。今年は冬が途轍もなく長く、4月も終わりかけたここ数日、漸く庭の木々に新芽が吹き、左手の古い土壁を、中学校の校庭の方から家の屋根に向け、蒼々と繁る蔦が少しずつ近づいてきました。
東京滞在中の2月末、親しかった指揮のジョルジョ・ベルナスコーニが急逝したとの知らせを受け、ブソッティ演出の「月に憑かれたピエロ」で彼の代役を務め、ジョルジョの死を悼みました。

また、ジョルジョが関わっていたミラノ・スカラ座アカデミーでも、彼の振るはずだったロシア・プログラムを来月演奏することになり、暮らしぶりを見兼ねて「機会が出来たらお前にもぜひ仕事を回したい」と言ってくれた彼の言葉ばかりが思い出され複雑な心地です。何度となくルガーノ湖畔の別荘に家人とともに招いてくれて、大好きな日本や、カスティリオーニやロミテッリなど諸々の好きな作家について話は尽きなかったのですが、この数年お互いすれ違いで、落着いて会って話す機会もありませんでした。

毎日使うGoogleメールに残っている、最後のメッセージ。
「お前が毎日忙しく仕事をしているのはよく知っていて、とても嬉しく思っている。近いうちに会えると良いのだけれど、こちらも目まぐるしい日々にすっかり翻弄されて、友人たちとの付き合いが疎かになってしまっていて申し訳ないかぎりだ」。
半永久的に残り続けるメールは、インターネットのサーバーの中に、まるで別の時間が流れている錯覚すら起こさせます。手紙のように紙が日焼けてゆくわけもなく、まるで昨日届いたかのように、電子化され何時までも残ってゆくのは、不思議な気分です。ジョルジョの訃報のみならず、この東京滞在中は、ご両親を不慮の事故で失くされた親しい友人を日本酒片手に訪ねたり、一緒に仕事をしていた仲間が実はお母様を失くしたばかりだったのを知ったりと、身体の奥の疼痛がへばりついたまま離れませんでした。

「月に憑かれた」の大道具および小道具、衣装、照明、投影するフィルムなど、スカラ座のアカデミーとの共同企画だったこともあり、サンタ・マルタ通りにあるアカデミーで練習をしていると、当時リコルディの販促でロミテッリの連れ合いだったルイザがアカデミーの学長になっていて、こちらの練習しているのを見つけると、親しげに顔を出してくれました。
「2月にサロネンがスカラに来たとき、みんなでここにヨーイチがいないのは残念だと話していたのよ」。
今年十回忌を迎えるドナトーニの遺作「ESA」は、やはりドナトーニに学び後年も親しく交流していた指揮のサロネンが、当時音楽監督だったロサンジェルス・フィルのために委嘱した作品で、身体が不自由だったドナトーニのため、作曲を手伝った経緯があります。10年前、ヴェローナ記念墓地の一画にあるコンクリート壁にあつらわれた、無味乾燥としたドナトーニの墓を眺めながら、あと10年経ったら骨を拾って、もっと美しいお墓に移したいとマリゼルラが話していたのを思い出しました。どんなにテクノロジーが進んでも、我々の肉体は風化してゆく。そう思うと、少しだけほっとするのは気のせいでしょうか。

一昨日まで、ドナトーニが作曲した弦楽のための二つの作品「ASAR(1964)」と「SOLO(1969)」を、フェデーレやソルビアティの作品とともにミラノでヴィデオ収録していて、わざわざパリからヴァイオリンの千々岩くんが駆けつけてくれました。10人強の小さな弦楽合奏を数日間するために、パリやベルリン、ニュールンベルク、ローザンヌやイタリア各地からミラノに集い、収録が終わってすぐ元通り散り散りになりましたが、逆に言えば、こういう方が集中できて、案外充実した時間が過ごせるのかもしれません。殆ど演奏されたことのない、このドナトーニの2作品を、何某か形として残したいと常々思っていたので、本当に良い機会に恵まれたと思いますが、何より演奏してみて、特に「SOLO」の素晴らしさには驚きました。

この2作品の楽譜を開くのは二年ほど前に違う演奏者と蘇演して以来でしたが、ブソッティの「サドによる受難劇」の図形楽譜「SOLO」に基づき作曲されたドナトーニの「SOLO」は、その2年前にシェーンベルク作品23のピアノ曲第2楽章8小節目の初め3拍に基づき作曲された、「Etwas ruhiger im Ausdruck(ひそやかに)(1967)」と同書法ながら性格としては対極の、バロック的優美さと明るさをもった名曲です。

メトロノーム記号の替わりに「全弓を使って美しい音でできるだけ早く」、そして充分にヴィブラートをかけた音が指示されていて、四分音符と二分音符ばかりの楽譜から、1969年当時並んで演奏されたであろうヴィヴァルディやコレルリなどの旧き良きバロック演奏スタイルが薄く浮び上がります。
楽譜の最後に記された日時はミラノ1969年4月30日。今から41年前の明日。自分が生まれるほぼ半年前、未だ母親の胎内で過ごしていた頃の日付。日焼けし草臥れて、大きく罰点で何箇所もカットされた乱暴な書き込みばかりのパート譜。

それから30年ほど作曲を続け、それから10年かけて自分の身体が自然へと戻ってゆき、棺桶から骨を拾われるばかりになって再び作品が演奏されてみて、さて彼もどんな心地だろうかと思うのです。作品の演奏時間は楽譜には13分と記されてしますが、実際に演奏してみると到底この長さには収まりませんでした。当時は相当早く演奏したか、パート譜に残されていたカットを施した上での演奏時間かも知れません。何れにせよ、当時の作曲者の意図とは随分違った演奏なのだろうけれど、彼は書き終わってしまえばまるで自作に頓着しませんでしたから、今更どちらでも良いかも知れませんし、こんなことに思いを巡らせるのも、まるで中原の「骨」のようで、自分が日本人なのを再認識しているだけかも知れない。

1964年に作曲された「ASAR」は、10枚の図形楽譜と7枚に亙って連綿と綴られたタイプ打ちの説明書きのみ。10枚の図形楽譜にはそれぞれ21の断片が書き込まれていて、10人の奏者がそれぞれ任意に選んだ観客を観察しながら演奏します。

Asar
10弦楽器のための

演奏に際しての説明
演奏者は図のように三角形に並べられる。
前方にヴァイオリン4、2列目にヴィオラ3、チェロ2、後ろにコントラバス1

演奏は指揮なしで行う。10枚のパート譜それぞれを10人の演奏家がそれぞれ演奏する。(中略)演奏は着席し終わるやいなや開始され各パート譜の21モデルは観客のあらゆる動きにより読み進められる。演奏者は常に平土間席の観客に注意を払わねばならぬ。そして一人、もしくは複数の人間を注視し、あらゆる身体の動きをそこから見出すべく集中する。自らの視点を自由に動かすことは、一定の時間一人もしくは複数の人間を余りに無益に注視した後のみ許される。(中略)ほんの些細な動きであろうとも、注意深く観察されなければならない。例えば:人そのもの移動、もしくは上半身のみ、もしくは腕だけ、足だけ、手の動き、頭の移動、顔の筋肉の動き(しかめ面、微笑み、チックなど)目の動き、瞬き(この場合は弱音器を付けなければならない)。演奏者は先ず最初の動きを確認したら、最初のモデルを可能な限り早く演奏すること。以下、演奏を続けるにあたっては同じ。(後略)

演奏者たちが代わる代わる、巨大なパート譜の端から必死に観客を眺めるかと思えば、今度は楽譜に隠れて一心不乱に演奏するという姿は、愉快でもあるし独特の演劇的な効果も上げますが、穿った見方をすれば、躁鬱に悩んでいたドナトーニが、当時はいつも人の顔色を伺っていた姿を映し込んでいるようにも見えます。
そして実際鳴らしてみると、音響的にも「SOLO」に近しいものになるのが不思議で、図形楽譜といえども、作曲家の意思が充分に反映されていることが分かります。1964年当時、ドナトーニは巨大な紙に自らの姿を隠しつつ、時に端から頭を覗かせては息を潜めて外側の世界を注視し、そしてまたじっと自分の殻に篭って音を綴っていたのかも知れません。そんな暗さと後ろめたさを引き摺る独特のストイックさがこの頃のドナトーニを包み込んでいて、それがまた彼の音楽の魅力に繋がっている気がするのです。

4月29日ミラノにて